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グルック(4)
グッキー (37)投稿日:2003年03月01日 (土) 04時23分 返信ボタン

 事実は、まさしくこの通りだったかもしれない。しかしメタスタジオのオペラ、
いや当時の全イタリア・オペラは即興のルラードで絶えずわめき立てる歌手に
支配された、独唱と二重唱の連続であった。そして当時の歌手は作曲家にあれこれ命令し、
自分らのエゴと歌唱スタイルに合うよう曲を平気で変える神様のような存在であった。
 歌手がライトを浴び、絶唱して聴衆をたまげさせるときには、舞台の所作は完全に
休止した。哀れな作曲家は時々抗議し、改革を求めた。はやくも1720年に、イタリアの
作曲家ベネデット・マルチェロは『現代の劇場』と題する文章でイタリア・オペラを
諷刺した。その中の1章は作曲家と歌手の関係を次のように述べている。
――「歌手、とくにカストラート(男性去勢歌手)と協力する時、作曲家は常に帽子を取り、
歌手の左側に一歩下がって立つ。・・・・・大歌手先生の天才に合わせてアリアのテンポを早めたり、
遅らせたりする。作曲家自身の評判、信用、利益が歌手の手中に握られていることを肝に銘じ、
従って必要とあれば、アリア、レシタティーボ、シャープにフラット記号、本位記号と、
何でも変更するかまえで、歌手の判断の誤りをごまかしてやる」
 時代は改革を要求していた。バロック・オペラ本来の愚劣さ以外の要素もあった。
新古典主義がバロック時代と交代しようとしていた。時の傾向は、装飾主義よりは
簡潔さを好むようになり始めていた。1760年までに音楽家たちは、複雑で壮麗な
バロック様式から完全に離脱し、単純で旋律的で、対位法を欠いたスティル・ガラン(優雅な様式)
で作曲するようになっていた。時代の考え方は『新エロイーズ』(1760年)や『エミール』(1762年)
で自然の理想を説いたルソーの影響を受けていた。ヨハン・ヨアヒム・ウィンケルマンは
有名な『ギリシャ美術史』(1764年)の中で、古典主義の理想をヨーロッパに重ねて
紹介した。美とは細部を全体に従属させることである、真の芸術は調和と優美な配分で
成り立っている、といった彼の結論は、啓蒙時代の美学思考に大きな影響を与えた。
 カルツァビージの台本に刺激されたグルックは、ウィンケルマンが芸術のために説き、
ルソーが人間性のために説いた本質を、オペラのために達成したのである(グルックが
ルソーの著書を読んだのは明らかだが、彼も自分の音楽の中で常に自然に帰ることを
唱えていた。この場合の自然とは単に樹木や空でなく、実人生という意味であった)。
粉飾が多く歌唱の離れ業を誇張するバロック・オペラを無視したグルックは、純粋と調和と
簡潔、さらには厳格さを良しとする古典主義の理想に戻った。しかし彼の考えがいつも
首尾一貫していたわけではない。『オルフェオとエウリディーチェ』発表後の25年間に、
彼はさらに十三のオペラを作曲した。うち六曲は“改革”オペラだったが、残りは
バロック様式であった。にもかかわらず、オペラの針路を変えたのはグルックであり、
彼の理想が後世のワーグナー、そしてさらに近世の革新作曲家へつながっていくのである。


グルック(3)
グッキー (36)投稿日:2003年02月27日 (木) 08時32分 返信ボタン

 遍歴癖のあるグルックは次いでハンブルクにおもむき、ライプチヒ、
ドレスデンを経てハンブルクに着いたイタリア歌劇団を指揮した。
1749年に彼はウィーンに戻り、翌年、富裕な商人の娘と結婚した。
この時以来、彼は金の心配をする必要が全くなくなった。彼が独立不羈
(一部の人たちによれば傲慢)と頑固さの傾向をますます強めたことは、
この財政的安定と無縁ではなかった。結果を心配する必要がなければ、
世間で暴言を吐くことは、たやすい。
 グルックはたゆまず作曲を続け、同時に指揮者としても名声を確立した。
1752年にウィーン宮廷の音楽監督に任命され、1754年にはヒルトブルクハウゼン公爵の
オーケストラの指揮者となった。1756年にローマ法王ベネディクト14世から
騎士の称号を授かり、以後、彼はリッター(ドイツ語で騎士)・フォン・グルック、
またはシュヴァリエ(フランス語で騎士)・グルックと呼んでもらいたいと主張するように
なった。この期間に彼は、今では完全に忘れ去られた一連のオペラを作曲した。それらは、戯れに
『エツィオ』『イシッピレ』『中国人』『舞踏会』『アンティゴーノ』と名付けられている。
 グルックがカルツァビージを知ったことが、彼の改革精神の口火となったとすれば、
改革ムードがあたりに充満していたということもできる。当時、オペラは単なる公式となり、
一方ではメタスタジオの台本によって固定化し、他方では歌手の道化芝居によって分解現象を
たどっていた。
 ピエトロ・メタスタジオ(1698〜1782)は、二十七のドラミ・ペル・ムジカ
(音楽のための劇)で音楽界に特に知られた作者であった。彼は1730年から
死ぬ間際までウィーンの宮廷詩人だったが、これら二十七の劇の大半は、その在任中に
書かれたものである。これらの劇は18世紀の作曲家によって千回以上も音楽的処理を
受けたが、一部の作品は極めて高く評価されて、70人もの作曲家が音楽化に取り組んだ。
聴衆がオペラ新作公演を観劇し、これは以前どこかで見たことがあると感じたとしても
不思議ではない。メタスタジオの台本は神話と古代歴史を基礎とし、登場人物が多く、
注意深く組み立ててあった。トーヴェイは、台本の構成力がすぐれ、論理的であると、
次のように指摘している。
 「極めて合理的な音楽体系を持ち、それに従って各状況が、会話とアクションの
自然で滑らかな進展によって展開する。あらゆる感情的危機と休止点は絵画的描写で
強調され、この間、感情は楽想における良き音楽効果を持った、重複に耐える言葉を
用いた、意味深い詩の数行に合わせたアリアで表現される」


グルック(1)
グッキー (34)投稿日:2003年02月22日 (土) 12時13分 返信ボタン

 クリストフ・ウィリバルト・グルックが歴史的名声を持っている最大の根拠は、
オペラに最初の大改革を試みた人物であることである。実際のところ、彼は作曲家
としてよりも改革者として、より大きな名声をかち得ている。彼は約50曲のオペラを
書いた。そのうち、現在でも上演されているのは『オルフェオとエウリディーチェ』の
1曲だけである。もっとも『アルチェステ』と二つの『イフィゲニア』(『アウリスのイフィゲニア』
1774年と、『タウリス島のイフィゲニア』1779年のこと)は時々リバイバル
上演される。彼はほとんど専門的に演劇用音楽を書き、取るに足るような器楽音楽は
全然作曲していない。彼の初期のオペラは、ほとんど全部消滅した。グルックは
大器晩成型で、『オルフェオ』を作曲したのは、48歳になった時であった。その時まで
彼は、当時の慣習に従った一連の作品を、文句も言わずに書き続けた。彼が不満を
感じていた兆候もなければ、『オルフェオ』で目覚しく革新的な作品を創造しようと、
張り切ったという証拠もない。
 自分を刺激する台本作者に会わなかったとすれば、グルックは十中八九、『オルフェオ』
のような高い水準の音楽を創造しなかったであろう。また彼は何事も改革しなかった
であろう。グルックとラニエリ・ダ・カルツァビージ(1714〜1795)との関係は、
モーツァルトとロレンツォ・ダ・ポンテとの関係と同じであった。これら両詩人には
多くの共通点がある。二人とも冒険家で広く旅行し、陰謀と政治を好み、あくどい
策動を平気でやれる人物だった。二人ともオペラを完全に理解し、愛好していた。
二人ともぴったりした時期にウィーンに現れた。カルツァビージは1761年に
ウィーンに到着、『オルフェオとエウリディーチェ』の台本をグルックに手渡して、
いわば彼にオペラ改革を促した。グルックは、自分の協力者に全面的な讃辞を与える
だけの度量の広さを持っていた。彼は次のように述べている。
 「もし私の音楽が、曲がりなりにも成功したとすれば、私は彼の恩義を受けている
ことを認める義務がある。なぜなら、私の芸術的天分を開発したのは彼であるからだ。・・・・・
作曲家がどれほど才能を持っていても、詩人が彼の中に熱意を吹き込まなければ
凡庸な音楽しか作れないだろう。熱意というものがなければ、あらゆる芸術作品は
ひ弱で迫力に欠けるものにしかならない」
 『オルフェオとエウリディーチェ』が初演された1762年までに、グルックは
ある程度の成功は収めていたものの、どちらかといえば熟練したプロとみなされ、
のちほどそうなったような(中年の)神童といった評価は受けていなかった。


ヘンデル(14)
グッキー (33)投稿日:2003年02月21日 (金) 13時15分 返信ボタン

 ヘンデルが忘れられた理由を確定するのは困難である。もちろん、彼の
オペラの上演にはかなりの問題がある。しかし、オラトリオや合奏協奏曲、
チェンバロ組曲、宗教曲、カンタータの演奏には、どのような障害もない。
そして、これらは立派な曲ばかりである。そのどの曲にも異常なまでの活力と
広がり、確信と創意工夫が息づいている。それらはまた、英国固有の特質を
備えており、その一部はヘンリー・パーセル(17世紀後半の英国最大の
作曲家)に由来する。
 ヘンデルの音楽は、多くの点でバッハよりも近づき易く、理解が容易で、
より直接的で、入り組んでいず、メロディー性に富み、男性的である。
彼にはバッハのような和声の才能や、完璧な対位法はないが(そんなことは
バッハ以外の誰もなしえなかった)、それでもヘンデルの対位法は大胆で、
当を得ていた。ヘンデルの伝記作家たちは、ヘンデルの対位法について
余計な心配をし、バッハのそれには劣ると書くのが常だった。しかし、
この比較には意味がない。二人が目指していた道は全く別だったからである。
バッハは息を吸うのと同じ自然さと必然性をもって、いわば対位法的に物を
考えた。これに対しヘンデルは、一定の効果をあげる目的で、単なる手段として、
より自由な、教科書的でない対位法を用いたにすぎない。
 ヘンデルの音楽は再発見の日を待っている。彼の同時代人は、死後150年で
ヘンデルが半ば忘れ去られたと知ったら、大いに驚くに違いない。彼らはヘンデルの
価値を知り、ヘンデル自身も、自分をウェストミンスター大寺院へ埋葬してくれ
と求めるほど、それを自覚していた。彼は1759年4月14日、74歳で
この世を去り、悲しみは英国全土を包んだ。無数の追悼文が新聞、雑誌を
にぎわせたが、中でも4月17日の「パブリック・アドバタイザー」紙のそれは、
各行の頭文字を「ヘンデル」とする手のこんだもので、みごとな出来栄えだった。

He's gone, the Soul of Harmony is fled!
And warbling Anfels hover round him dead.
Never, no, never since the Tide of Time,
Did music know a Genius so sublime!
Each mighty harmonist that's gone before,
Lessen'd to Mites when we his Works explore.

  和声の主(ひと)、君は逝き
  悲しみの天使は舞う、なきがらの上。
  汝(なれ)こそは天地(あめつち)の開けし時ゆ
  比類なき楽の天才。
  君(そ)が調べ、奏(かな)づるに
  なべての楽士、色失いぬ。


ヘンデル(13)
グッキー (32)投稿日:2003年02月20日 (木) 01時12分 返信ボタン

 ヘンデルのおかげで英国の作曲家は、名を成すために精巧な声楽曲を作らされ、
英国中がオラトリオ・ブームにわいた。このブームは19世紀末まで続き、文豪
ジョージ・バーナード・ショウの「英国民はレクイエム(鎮魂曲)に、ゾクゾクするような
快感を覚えている」との警句を生んだ。合唱曲は国民の財産と考えられていた。
ヘンデルの死のわずか1年後、ウィリアム・マンなる文士は「イングランド全土の
村々にある音楽グループは、オラトリオ・ブームが首都から中小都市に広がってから
というもの、英国国教会に朗詠、聖歌、賛美歌の類を導入しなければ絶対に満足しなく
なっている」と書いた。市民階級のパラ(聖杯をおおう布)が英国の音楽にかぶせられ、
毎年行われるヘンデル音楽祭は宗教的行事の色合いを深めた。ヘンデルがオラトリオを
宗教的作品のつもりで書いたかどうかにかかわらず、大衆はそう解した。
 1813年4月の「チェスター・アンド・ノース・ウェールズ・マガジン」は「ヘンデルの音楽は、
聖なる神と救世主を記念し、人としてわれらが讃え、クリスチャンとして感ずべき
神への帰依の恍惚状態を、われらの心にもたらしてくれる」と書いた。150年余にわたり、
英国の音楽はヘンデルの巨大な掌中にあり、それとは別種の衝撃を与え得たのは
メンデルスゾーンだけだった。英国の作曲家は一人として、彼の影響下から逃れる
ことができなかった。
 しかし20世紀に入ると、ヘンデルへの評価は英国でも下がり始めた。今日、彼の音楽が
演奏される機会の少なさは驚くほどである。彼のオペラは存命中から忘れられた。
19世紀から20世紀の大半を通じ、英国以外の国で大きな人気を集めた彼の作品は
ただひとつ『メサイア』だけだった。オーケストラがヘンデルの『合奏協奏曲』を
演ずることは稀で、その状況は今日も変わらない。最も人気のある管弦楽曲『水上の音楽』は、
ハミルトン・ハーティの編曲で演奏される方が圧倒的に多い。バイオリニストがヘンデルを
取り上げるときも、ナチーズの編曲による『ソナタ・イ長調』や『同ニ長調』など、
速度を早めたロマンチックな曲以外は振り向きもしない。ヘンデルのオルガン協奏曲には
すばらしいものがあるのに、コンサート・ホールで演奏されることはほとんどない。
 オペラの大半も埋もれたままである。ドイツでは第2次大戦前、ヘンデルのオペラの
復活を図る試みがあったが、ファンの支持を得るには至らなかった。彼は事実上、
一つだけの作品で知られる音楽家となり、『メサイア』を除くヘンデルのほとんど
全作品が恒久的レパートリーからはずされ、僅かにいくつかが時々、思い出したように
演奏されるだけである。それは、バッハの作品がオーケストラやソリスト、合唱団の手で
世界中で演奏されているのと著しく対照的である。


ヘンデル(12)
グッキー (31)投稿日:2003年02月19日 (水) 14時34分 返信ボタン

 イタリア・オペラは息絶えたかに思われ、ヘンデルも別の分野、英語による
オラトリオに転進した。この方面でも彼はすぐ大衆の支持を得た。1738年には
『サウル』を、翌39年には『エジプトのイスラエル人』を、そして翌々41年には
『メサイア(救世主)』を世に送り出した。彼がものしたオラトリオは20曲に近く、
1752年作曲の『エフタ』が最終作だった。51年までに始まっていた眼病で視力を
完全に失わなかったら、間違いなくもっと多くの作品が生まれていたことだろう。
ヘンデルのオラトリオに対する関心は近年、次第に高まりつつあるが、その大半は、
いまなお演奏の機会を与えられずにいる。
 ヘンデルはなぜオラトリオを書き始めたのだろうか?かつての伝記作家たちは、
軽度の脳溢血と精神障害で倒れた1737年以降、ヘンデルの信仰心が篤くなった
ためだと考えた。しかし、真相はもっと俗っぽさに満ちたものだろう。彼は、自らの
稼ぎに依存するプロの作曲家、つまりは商売人だった。イタリア・オペラの人気が
すたれさえしなければ、彼はオペラを書き続けていたはずだ。自分の書いたオラトリオ
を聴きに大勢の聴衆がやってくることを知ったから、オラトリオを書いたに過ぎない。
一部のヘンデル研究家、特にポール・ヘンリー・ラングは「オラトリオは決して宗教色
濃厚な作品ではない。聖書に題材を借りたドラマチックな作品だが、教会とは全く無縁だ」
と主張している。
 その是非はともかく、ヘンデルは、オラトリオの作曲がいちばん儲けになる仕事だ
ということを知った。とにもかくにも、彼はロンドンで最も有名な人物の一人であり、
また演奏者としてもものすごい人気を集めていた。そこで彼は、自作オラトリオの
発表会では必ずオルガンのソリストを務め、おまけに客の入りを良くするために、
コンチェルトを一つか二つ弾くことすらいとわなかった。彼の目が見えないため
ファンは同情し、それが助けにもなった。『サムソン』の初演の際、テノールの
ジョン・ビアードが盲目の作曲家のわきに立ち、
  月の陰に、日は隠れぬ
  全き闇に、金の環残し
と歌う時、聴衆の間からはすすり泣きの声がもれたに違いない。
 ヘンデルのオペラとオラトリオの大半が、今日、『メサイア』をほとんど唯一の例外
として、忘れられている現実は奇妙というほかない。存命中のヘンデルは史上最大の
音楽家の一人とみなされ、死後も、その見方を変えねばならぬ状況は生まれていない。
英国における彼の評判は、死の直後も、また19世紀も、一貫して高かった。もっとも、
その尊敬は主としてオラトリオ作曲家としてのヘンデルに向けられていた。彼の強い
影響力は英国の音楽界を窒息させたほどで、エドワード・エルガー(1857〜1934)
の登場まで、英国には国際的に有名な作曲家は育たなかった。


ヘンデル(11)
グッキー (30)投稿日:2003年02月18日 (火) 00時02分 返信ボタン

 ヘンデル時代の聴衆は、カストラートと紋切り型のバロック・オペラを喜んで
受け入れた。しかし、やがて、そうしなくなった。今日では、ヘンデル時代の
歌手と同じ歌いまわしができる者は誰もいず、また勿体ぶった台本にすばらしい
音楽をつけて埋め合わせすることも、不可能である。オペラ製作には高度の様式化が
必要となった。学者の中には、カストラートの役をバリトンかバスに書き換えよ、
と主張する者もいる。それはともかく、声楽の楽譜は今日では単純化され、ヘンデル・
オペラのレーゾン・デートル(存在理由)の多くは失われてしまった。特に
『ジュリアス・シーザー』や『アルシナ』のリバイバル公演が示したように、
それらはまだ十分に楽しめるが、カストラートが存在しない今日の再上演は、
原曲の翻案でしかない。
 ヘンデルのオペラのうち何作かは、その驚くほど多くの部分がオリジナルの
音楽ではない。ヘンデル時代の聴衆は、彼が他人の作品を借用することには
寛大だった。この問題はヘンデルの伝記を書く場合には面倒なテーマで、
筆者はその説明に苦しんで七転八倒するか、あるいは単に遺憾の意を表する
かだった。はっきり言えば、彼は盗作の常習犯であり、存命中からその点でも
有名だった。作曲家の道を歩み始めた頃から彼はカイザー、グラウン、ウリオらの
作品を失敬しては自分の名で発表した。過労で倒れた1737年以降は、特に
この傾向が酷くなった。しかし、彼の同時代者たちは盗作に寛大だった。アベ・
プレヴォーは1733年に書いている。「とはいえ、一部の批評家たちは彼が
リュリから多くの美しい旋律を借り出したこと、特にフランスのカンタータを
イタリア風に改作したことを非難している。が、たとえそれが確かだとしても、
大した罪ではない」と。
 善意に解釈すれば、オペラ劇団の運営や、歌手たちの喧嘩の仲裁、新作オペラの
製作、折々にやらねばならない宮廷用の作曲と、多忙を極めていたヘンデルには
単に、何から何まで自分でこなす時間的余裕がなかった、ということなのであろう。
そこで彼は他人の題材を借用し、大概はその過程で原作をより良く改作して、
自分の作品として押し通したのだ。ヘンデルの盗作リストは、驚くほど長大な
ものになるはずである(バッハも他人の作品を書き直したが、それらは翻案または
編曲と呼ばれるべきもので、他人の作品を用いて利益を図った証拠はない。グルックは
自分の曲を別の作品の中で使っているが、他人の物を盗用してはいない)。
 1720年代の末までに、ロンドンのイタリア・オペラ・ブームは下り坂となり、
英語で歌い、当時のウォールポール政府を痛烈に諷刺するバラード・オペラ
『乞食オペラ』の成功で、ほぼ完全に息をとめられた。ジョン・ゲイの台本に
ジョン・クリストファー・ペプシュ(1667〜1752)が曲をつけた『乞食オペラ』は、
ヘンデルのどのオペラよりも長生きし、1728年の初演以来、シーズンの
プログラムからはずされたことがない。大作だはないが、真の傑作である。おかげで
ヘンデルのイタリア・オペラ劇団は破産した。しかしヘンデルは、この商売で
巨万の富を築いていたので、自分の財産の中から1万ポンドをさいて、キングズ・
シアターを本拠とする新歌劇団を間もなく発足させた。同劇団は1737年まで
続いた。リンカーンズ・イン・フィールズにライバルの歌劇団が生まれなければ、
この劇団はもっと長持ちしたかもしれない。当時のロンドンは、二つの常設歌劇場を
置くほど大きくはなく、この時にはさすがのヘンデルも大損をした。


ヘンデル(10)
グッキー (29)投稿日:2003年02月17日 (月) 08時18分 返信ボタン

 カストラートの血筋は、現在知られている限り、アレッサンドロ・モレシ(1858〜1922)
の死によって絶えた。モレシはシスティナ礼拝堂(バチカン)合唱団の一員で、
20世紀の最初の10年代に実際にいくつかのレコードを残している。このレコードを
聴く者は、誰もが全身に震えを生じる。その声は男でも女でもない音色のアルトで、
得たいの知れぬ、物悲しい、人の心に切々と訴えかける性質を持っている。
 声楽面でカストラートに求められたものは、コントロールと柔軟性である。
ヘンデルのオペラの楽譜を拡げれば、32分音符が際限もなく続き、歌手に
息継ぎの機会を与えないコロラトゥーラ楽節がいくらでも目に飛び込んで来る。
このパートは特に高音部を使って書かれているわけではなく、それにいずれにしろ、
当時の聴衆は高音部になど関心がなかった。テノールの高いハ音は、ロマンチック
(空想的)な発明物で、事実、テノールが主役になること自体が大いにロマンチック
だった。バロック・オペラではテノールは通常、脇役だった。
 カストラートが容易に高音度のハ音を歌えたのは事実である。そしてフルート奏者
兼作曲家のヨハン・クワンツ(1697〜1773)の言葉を信じるなら、ファリネリは
高音のハ音よりも上のヘ音を完全に歌いこなせた。しかし、カストラートは普通、
そんな曲技にはのめり込まなかった。彼らが誇りとしたのは、信じがたいほどの
息の長さと、音域を乱したり、声に無理を強いられている様子を見せたりすることなく、
複雑な修飾部を楽々とこなす能力だった。
 ヘンデルの時代には女性歌手も同じ能力を持っていた。中でも最も有名だったのが、
フランチェスカ・クッツォーニとファウスチナ・ボルドーニだった。二人はともにロンドンで
ヘンデルのオペラを歌い、しばしば同じ役を演じた。クッツォーニは背が低く、太って、
醜く、意地悪で、演技力は皆目なかった。それはちょうどカストラートが長身で、肥満し、
ぶかっこうで(第二次性徴の欠如によりヒゲが生えず、しばしば女のように胸が
ふくらんでいた)、演技力を欠いていたのと同じだった。これに反しボルドーニは
魅力的な容貌で、当時としては完全な演技力を持ち合わせていた。当然のことながら
二人は互いに憎み合い、その争いは1727年6月6日、ボノンチーニのオペラ『アスティアナッテ』
の上演時に頂点に達した。
 バーリントン派のお気に入りのボルドーニと、ペンブローク夫人のサークルの一部を
支持者とするクッツォーニは、聴衆内の応援団にあおられて、金切り声を上げ、髪を
引っ張り合い、爪を立て合う大喧嘩を舞台の上で演じた。新聞はこれを大々的に書き立て
「ファウスチナ、クッツォーニ両夫人による恐るべき血みどろの戦いの完全な真相」
と題して、取っ組み合いの手順の一部始終を記録したパンフレットまで印刷され、
編集者は二人に対し「公開の席での再戦」さえ提案した。この永遠に銘記すべき晩に、
偶然にもこの劇の興行主だったヘンデルは、クッツォーニを「女悪魔」、ファウスチナを
「魔王の甘えっ子」、さらにはどちらも「あばずれ」だと怒鳴りつけた。


ヘンデル(9)
グッキー (28)投稿日:2003年02月16日 (日) 06時04分 返信ボタン

 カストラートとは、去勢された歌手のことである。古代に存在し、12世紀に
復活した。教会が女声を禁じ、代わりにカストラートを用いたからである。去勢
手術は思春期の前に行われた。何年もにわたる厳しい訓練のあと、彼らは女の声と
男の肺を持つ歌手として教会に送り込まれた。その歌唱があまりにも見事だった
ために、彼らは教会を出て公衆の前でも歌うようになった。バルダッサーレ・フェリ
(1610〜1680)がカストラートの最初のスターだった。
 彼らの技術は信じられないほどだった。中には音域が四オクターブにも及び、
高音度のハ音よりも高いイ音や、さらにロ音をさえ完全に出すことができる者も
いた。しかも彼らの声は長続きした。キャファレリの声は70歳になってもまだ
若々しかった。オルシーニは73歳の時、プラハで美声を披露、嵐のような称讃を
集め、その10年後にはオーストリアのマリア・テレジア女帝の前で歌った。
102歳の長寿を保ったバニエリは、97歳まで歌い続けた。
 しばしば彼らは肉体に奇形を生じ、特大で、太っていて、腕や足は骨と皮ばかり
なのに、胸部は樽のようにぶくぶくと肉がついていた。彼らの声は、女性の声質に
属するが性的特徴のないもので、あらゆる情報が示すところでは、驚くほど甘かった。
聴衆を常に驚嘆させてやまなかったのは、息の長さだった。ある者は一つの音を
優に1分余も歌い続けることができた。当時のオペラ・ファンの楽しみの一つは、
カストラートとトランペットまたはフルート奏者との腕比べだった。が、奏者が
真っ青になるまで吹き続けても、カストラートは常に勝利を収めた。ファリネリの
青年時代、あるオーボエ奏者がリハーサルの時よりもずっと長く、最後の音を
引っ張った。ファリネリは少しも動じずに歌い続け、オーボエが息切れしてからも
まだ、同じ呼吸を保ちながら歌いにうたった。ファリネリの肺が破裂しはすまいかと、
満場水を打ったように静まり返る中で、彼はさらに即興の難しいカデンツァまで
つけて歌い終えた。しかも最後まで一呼吸もしなかったという。
 カストラート歌手の最盛期はほぼ1720〜1790年で、ニコロ・グリマルディ(ニコリーニ)、
フランチェスコ・ベルナルディ(セニシーノ)、ガエターノ・マイオラーノ(キャファレリ)、
さらには史上最高とうたわれるカルロ・ブロッシ(ファリネリ)らが活躍した。いずれも
ニコリーニが生まれた1673年から、キャファレリが死んだ1783年の百余年の間に
花を咲かせた。オペラ界最後のカストラートは、ジョヴァンニ・バチスタ・ヴェルッティで、
マイヤベーアのオペラ『エジプトの十字軍』(1824年)には、彼のために書かれた
パートがある。


ヘンデル(8)
グッキー (27)投稿日:2003年02月15日 (土) 08時32分 返信ボタン

 ヘンデル時代のバロック・オペラは、後年のソナタやカウボーイ映画(西部劇)
と同様、きまった形式の芸術だった。一定の約束ごとがあって、台本は古典や
神話に題材をとったものがほとんど。登場人物にはブラダマンテ、オロンテ、メリッサ、
モルガナ、アルシナといった名前が付けられた。名前と同じで、人物もまた人工的
だった。バロック・オペラの台本作者は、登場人物の性格の書き分けにはあまり
注意を払わなかった。ヘンデルがこれらの台本につけた曲は陽気だったり、勇まし
かったり、時には心痛むものだったが、その場のムードを決めるのは登場人物の
性格ではなく、曲であることの方が多かった。プロットにはほとんど動きがなく、
ヘンデルの作品も「衣装をつけたコンサート」の異名をもつバロック・オペラの
例外ではなかった。演劇としてみれば、それらは「完全に静的」に近かった。
 これらのオペラの基本はダ・カーポ(繰り返し部分を持つ)アリアだった。
この種のアリアでは、歌手は全曲を歌い終えると最初の部分に立ち戻る。
この繰り返しの部分では、メロディーを潤色し、飾り立て、華やかにする
ために、秘術を尽くすのが歌手の務めだった。ヘンデルのオペラは主として、
このダ・カーポ・アリアの連続で、これに少数の二重唱と、さらに稀に、
より大きなアンサンブルが挿入された。コーラスやオーケストラの間奏は
ほとんどなかった。バロック・オペラのもう一つの特徴は、聴衆のお行儀に
あった。ヘンデル時代のオペラ観劇は、今日のように厳粛な空気の中では
行われなかった。人々は他人に見てもらうために、また、お気に入りの歌手の
声に合わせて歌うために、オペラに出かけた。
 劇場内でトランプをしたり、おしゃべりを楽しんだり、歩き回ったり、
オレンジやナッツ類を食べたり、唾を吐いたり、気に入らぬ歌手に「シーッ」
と軽蔑の声を上げたり、野次ったりが、極めて普通のことだった。歌手たちも、
演技中にボックスの友人に挨拶したり、他人が歌っている時に私語を交わしたり
した。舞台で演技しようとする者など、誰もいなかった。
 この種のオペラでは、目立つような歌い方がどうしても必要だった。ヘンデルは
そうした歌手を揃えていた。カストラートがいなくなってから、声楽技術は衰退の
一途をたどっている。偉大なカストラートは「歌う機械」、つまりは楽器にほかならず、
時代を超越した声楽界の奇跡である。ヘンデル時代以前から、カストラートは
人々のアイドルだった。彼らは巨大な富を蓄え、見栄っぱりで甘えん坊、そして
恐ろしくわがままで、しかもひどくエキセントリックだった。音楽史の上で最初に
スターの座を獲得したのが彼らだった。




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