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グルック(1) |
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グッキー
(34)投稿日:2003年02月22日 (土) 12時13分
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クリストフ・ウィリバルト・グルックが歴史的名声を持っている最大の根拠は、 オペラに最初の大改革を試みた人物であることである。実際のところ、彼は作曲家 としてよりも改革者として、より大きな名声をかち得ている。彼は約50曲のオペラを 書いた。そのうち、現在でも上演されているのは『オルフェオとエウリディーチェ』の 1曲だけである。もっとも『アルチェステ』と二つの『イフィゲニア』(『アウリスのイフィゲニア』 1774年と、『タウリス島のイフィゲニア』1779年のこと)は時々リバイバル 上演される。彼はほとんど専門的に演劇用音楽を書き、取るに足るような器楽音楽は 全然作曲していない。彼の初期のオペラは、ほとんど全部消滅した。グルックは 大器晩成型で、『オルフェオ』を作曲したのは、48歳になった時であった。その時まで 彼は、当時の慣習に従った一連の作品を、文句も言わずに書き続けた。彼が不満を 感じていた兆候もなければ、『オルフェオ』で目覚しく革新的な作品を創造しようと、 張り切ったという証拠もない。 自分を刺激する台本作者に会わなかったとすれば、グルックは十中八九、『オルフェオ』 のような高い水準の音楽を創造しなかったであろう。また彼は何事も改革しなかった であろう。グルックとラニエリ・ダ・カルツァビージ(1714〜1795)との関係は、 モーツァルトとロレンツォ・ダ・ポンテとの関係と同じであった。これら両詩人には 多くの共通点がある。二人とも冒険家で広く旅行し、陰謀と政治を好み、あくどい 策動を平気でやれる人物だった。二人ともオペラを完全に理解し、愛好していた。 二人ともぴったりした時期にウィーンに現れた。カルツァビージは1761年に ウィーンに到着、『オルフェオとエウリディーチェ』の台本をグルックに手渡して、 いわば彼にオペラ改革を促した。グルックは、自分の協力者に全面的な讃辞を与える だけの度量の広さを持っていた。彼は次のように述べている。 「もし私の音楽が、曲がりなりにも成功したとすれば、私は彼の恩義を受けている ことを認める義務がある。なぜなら、私の芸術的天分を開発したのは彼であるからだ。・・・・・ 作曲家がどれほど才能を持っていても、詩人が彼の中に熱意を吹き込まなければ 凡庸な音楽しか作れないだろう。熱意というものがなければ、あらゆる芸術作品は ひ弱で迫力に欠けるものにしかならない」 『オルフェオとエウリディーチェ』が初演された1762年までに、グルックは ある程度の成功は収めていたものの、どちらかといえば熟練したプロとみなされ、 のちほどそうなったような(中年の)神童といった評価は受けていなかった。
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