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「強いものであれ、弱いものであれ、生けるものに対して暴力を振るわず、殺さず、また殺させないもの、彼をわたしは聖職者と呼ぶ」
まるまる (486)投稿日:2005年08月03日 (水) 10時05分 返信ボタン

過去の自分の汚れたところを自省しようとしない政治家、権力者が、再び、われわれの国を滅ぼそうとしています。「歴史認識」の違い、という言葉が最近良く聞かれます。先の戦争において、「中国・韓国」及び「日本の庶民」に多大の被害、「人命の損失」はそれは簡単に償いきれるものではありません。
権力を所有する政治家は、自らを叱り、自らを吟味することが大切です。このように、政治家たちが、自分に気をつけ、思念するならば、国民は今よりもっと安らかに生活することができるでしょう。
「郵政民営化」が果たして国民の一番今大切な課題でしょうか。将来への不安を持っている中高年の人たちの生活に対する不安を克服することが何より大切なことではないでしょうか。そして平和を実現するべく努力が必要です。
イラクの人たちは、暴力におびえて生活しています。イラクの人たちは、死を恐れています。政治家は、自分に引き比べて、暴力を使用しないように、最善の努力してほしいのです。すべての者は、暴力におびえます。生はすべての者が愛しています。人をして人を殺させるような状況を作らないことが政治家の一番の仕事です。
「強いものであれ、弱いものであれ、生けるものに対して暴力を振るわず、殺さず、また殺させないもの、彼をわたしは聖職者と呼ぶ」と仏陀の言葉にあります。
政治家および権力者の多くは一般に「自分は善いことを成し遂げた」といって、自分のことを宣伝します。自分のよいことのみを見るのが常です。それこそが、自分一番の汚れたところなのです。
自己の悪事を見ることをしないのです。一方では、このことは実に自省しがたいことですが、他方では、実にかくのごとく観察しなければならない。実にわれわれはこれらのために滅ぼされたのです。



憲法違反を繰り返し、戦争に加担する中で、憲法改正を語る小泉首相を何故信用できるのでしょう。
まるまる (485)投稿日:2005年07月28日 (木) 10時50分 返信ボタン

憲法違反を繰り返し、戦争に加担する中で、憲法改正を語る小泉首相を何故信用できるのでしょう。何故日本人はまじめに誠実に物事を考えないのでしょう。時の権力に簡単に尻尾を振る。ある政党の幹部が、機能まで衛の政党と手を組み、今日は別の政党と手を組む。そのことに心が痛まないのでしょうか。常に権力の甘い汁を吸うとしか考えていない。
こんな日本人として生き死ぬことはほとほと嫌になりました。

冷たい頭で説かれた深い思想よりも、熱い心臓から語られる平凡な言説を尊敬する
まるまる (484)投稿日:2005年07月27日 (水) 21時30分 返信ボタン

国際社会から孤児になった日本。北京の六カ国協議の中で日本はどこの国からも、日本の意見が尊重されされている様子は見えない。関心をもたれなかったのはなぜでしょか。先の日韓会談において、小泉首相の言動がどんなに国益を損じたか謙虚に見つめなおしてほしい。小泉首相のコモンセンスの欠如にあります。「靖国問題」の本質は何ですか。国際社会にまったく通用しない、独善的な小泉首相。コモンセンスとは、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己を置く能力のことであるが、まったく欠如しています。
日本は過去の戦争に対する謙虚な反省を忘れ、傲慢な態度をとり続ける限り、近隣の国々から孤立するばかりです。口先の反省ではなく、懺悔です。己をむなしくしなければ懺悔はできません。腹のそこから自らのあり方を見つめなおすことです。口先で平和を語り、反省を語る一方で、戦争を賛美する教科書を広めようと努力しているのでは誰が信用しますか。
国際社会からもまったく相手にされない孤児になっています。
人間は自己の行為への反省等を喪失した時、相手を力で圧伏しようとします。自己を見詰める前に、他者を責めること致します。日本のマスコミは、あまりにも自国のあり方を見つめず、他国の悪口雑言に満ちた言動をしています。
日本人の自らの過去に対する無謬性への狂信は、他国に対して不寛容を生み出しています。こうした日本人のあり方は近隣の国々からは、不快に思われ、日本人は傲慢であると映っています。「人の風見てわが風直せ」と申すではありませんか。まず自分の行状を見直すことが大切です。アメリカの褌で相撲をとっている限り何も問題は解決しないでしょう。
他者を鏡として自己を見つめる事ができなくなり、他者から学ぶことを忘れ、野蛮な行為に走っています。何故そういう人間が生まれたのでしょう。
国家のいうことを無条件に受け入れ、迷うものを徹底的に排除したのが戦時期の日本でした。おそらく明治国家のある種の一時的成功の後に、国家と共に歩んだ教育と深く関係するのでしょう。

 先の戦争を含め、野蛮と暴力との支配の中で斃れて行ったすべての人々を悲しみのうちに思い浮かべてみてください。
 シュヴァイツァは「人間は自ら作り出した悪魔の姿が見分けられなくなってしまったとは…」と言っております。日本人が過去の失敗から学び、常に迫り来る狂信と痴愚の破局とを阻止しようと、あるいは回避しよう、あるいは延期しようと努力する人が一人でも多くなることを期待致します。
 良心なき知識は魂を荒廃させるだけです。漱石は「冷たい頭で説かれた深い思想よりも、熱い心臓から語られる平凡な言説を尊敬する」と述べています。真に問題を解決しようと思うなら、熱いハートでキムジョンイル氏に話しかけることができなくてはなりません。





罪深き人間
まるまる (483)投稿日:2005年07月26日 (火) 19時56分 返信ボタン

外には悟りすましたように見えても、内には煩悩の絶えることがない。それが人間なのである。全ては無常と感じつつも、これに執着してつきることがない。それが人間だ。
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

杉浦日向子さんの死を悲しく思います。
まるまる (482)投稿日:2005年07月26日 (火) 07時00分 返信ボタン

杉浦日向子さんがなくなったとの事。お酒が大好きのようでしたが、お酒はやはりいろいろな病の誘引になるようです。癌のほとんどはお酒が誘引。しかし、お酒は百薬の長という言葉にみなだまされます。石原裕次郎もお酒。飲まないに越したことはありません。
いい加減な「みのもんた」はもてはやされますが、優れた人は早く世を去ります。

ああ嫌になりました。
まるまる (479)投稿日:2005年07月25日 (月) 10時50分 返信ボタン

日本のマスコミ、特にテレビはひどすぎます。「みのもんた」のような人間として軽い人間が、ロンドンのブラジル人まったく事件と関わりない人間を射殺したロンドンの警官に賛辞を表明していました。
人権問題です。殺される側に立ったらどうでしょう。逮捕すればすることが可能であるのに、射殺。「疑わしきは罰せず」証拠のない被疑者は無罪にすべきです。国民の命を救うべき警察官が、問答無用で射殺。それを支持する「みのもんた」いったいいかなる証拠に基づいて人殺しに賛成なのか。

□RE:ああ嫌になりました。/とほほ (480)投稿日 : 2005年07月25日 (月) 23時56分

みのもんた、って昔からこうでしたっけ?私も先日、内容は忘れたのですがあまりに不愉快のなったのでみのもんたのチャンネルを変えたのを覚えてます。この事件の最初の報道だったかな?
「それだけ警察が動くのも警察にもちゃんとした裏取りがあるのでしょう」などと何の根拠もなく言っていた。

まあ、みのもんたの話はどけたとしてもこの事件絶対変ですよね。取り押さえた後に射殺したのを目撃されているのですよね。逃亡する容疑者を射殺したのではないですよ。5,6人で取り押さえた後に射殺しているんですよ。

/まるまる (481)投稿日 : 2005年07月26日 (火) 05時57分

「みのもんた」もそうですが、ニュースをきちんと国民に伝えるというより、世の中を茶化し、冷やかし、誠実にその義務を果たそうとする使命感がまったく欠如し、お遊びにしている。TBSだけではないが、身の門たはひどすぎる。日本人の知的レベルをどんどん低くしている。非常に不愉快です。「悪貨は良貨を駆逐する」視聴率競争の中でどんどん堕落していく、その象徴がみのもんた。

「ケ・セラ・セラ」考
まるまる (478)投稿日:2005年07月25日 (月) 05時52分 返信ボタン

「ケ・セラ・セラ」考
もとの歌からはなれて一人歩きして、「ケセラセラ」とは今では「外来語辞典」(角川書店版)にまで載って、「なるようになるさ」というほどのいかにも当世風の投げやりの気分でお互いの間で慣用されています。しかし、もっと深く宗教的な意味があります。
“Qué será, será ”(quéはwhatです。seráはserという英語のbe動詞のの直説法未来形の三人称単数)というはスペイン語です。引き続いてスペイン語では“Será lo qué Dios querrá”とあります。Quer(好む、欲する)という不規則動詞の変化です。「神の思し召したまうようになるだろう」という意味です。“Dios”は神ということばです。
浄土真宗の南無阿弥陀仏=アミダさまに依拠しますと同じような意味になるのです。もちろんもっと良く吟味しなくてはなりませんが。南無=仏や菩薩・三宝などを敬い、帰依する気持ちを表す言葉です。(帰依・信頼)
キリスト=救世主ということと深くかかわるというふうに思います。
Que sera, sera.
When I was just a little girl
I asked my mother what will I be?
Will I be pretty, will I be rich?
That's what she said to me:

Que sera, sera. What ever will be will be
the future's not ours to see.
Que sera, sera. What will be, will be.
Que sera, sera. What ever will be will be
the future's not ours to see.
Que sera, sera. What will be, will be.



「ケ・セラ・セラ What ever will be will be the future's not ours to see.ケ・セラ・セラ」それを日本語訳では「ケセラセラ、なるようになる、明日のことなど、分からない。」なっていますが、“the future's not ours to see”というのは、直訳すれば、「未来の見通しはわれわれの分際ではない」という意味です。そこには、未来を支配する職分と権能を持った何者かが暗黙に予想されています。「なるようになる、明日のことなど、わからない」といった意味ではありません。畏(おそ)れと信頼の気持ちによって支えられたものだろうということになります。キリスト=救世主ということと深くかかわるというふうに思います。


教育を考える。
まるまる (477)投稿日:2005年07月25日 (月) 03時49分 返信ボタン

「正しい先入観はあるか」「すべてのことは正当化できるか」「想像力は必ず誤ると言えるか」。大学入学のためのフランスの共通資格試験の問題です。フランスでは文系、理系問わず、「哲学」が必修科目です。学生がもろもろの価値についての理解と、それに対する人間らしい生き生きとした有り方が大切にされます。
「正解」のない論述重視のフランスでは、「選ぶ側」の採点者も労をいとわぬ姿勢がみられます。採点者は論文を前に論議しながら採点します。
日本はコンピューターにより採点します。暗記中心型の日本の入試は、個性のない金太郎アメ的人間を生み出します。テスト形式、択一問題は多くの制約があります。「思考力重視」観点から見ればそれにほど遠い瑣末な問題ばかりです。
フランスでは、自立的な思考と判断に対する総合的能力が試されます。思考力重視は何もフランスだけではなく、ドイツもイギリスもそうです。日本は振り落とすための道具「選別」としてしか意味を持たない入試問題です。
「難しい問題に自ら進んで取り組む」「徹頭徹尾考え抜く力」はそこに問われません。薄っぺらなクイズのような試験問題に適応する能力しか問われない日本は、薄っぺらな官僚しか生みません。こうした入試に一番適応した官僚の一人である文部科学大臣の最近の言動を見ますと、一番真の学力が欠けているのは文部科学大臣ではないでしょうか。
学力低下を云々する文部科学省は、こうしたセンターテストの有り方をどうお考えですか。
大学の側も、受験のための暗記知識ではなく、大学で学び研究するのに必要な能力があるかどうかを重視し、入学試験にも労をいとわぬ姿勢が必要ではないでしょうか。
フランスでは大学卒業まで、教育費は無償です。日本の文部大臣は、こうした点から教育改革に取り組んだらどうでしょうか。フランス語の悪口を言っている石原慎太郎さん。少し考えたらどうでしょう。


フランスの大学資格試験について。
まるまる (476)投稿日:2005年07月25日 (月) 03時39分 返信ボタン

「正しい先入観はあるか」「すべてのことは正当化できるか」「想像力は必ず誤ると言えるか」。大学入学のためのフランスの共通資格試験の問題です。フランスでは文系、理系問わず、「哲学」が必修科目です。学生がもろもろの価値についての理解と、それに対する人間らしい生き生きとした有り方が大切にされます。
「正解」のない論述重視のフランスでは、「選ぶ側」の採点者も労をいとわぬ姿勢がみられます。採点者は論文を前に論議しながら採点します。
日本はコンピューターにより採点します。暗記中心型の日本の入試は、個性のない金太郎アメ的人間を生み出します。テスト形式、択一問題は多くの制約があります。「思考力重視」観点から見ればそれにほど遠い瑣末な問題ばかりです。
フランスでは、自立的な思考と判断に対する総合的能力が試されます。思考力重視は何もフランスだけではなく、ドイツもイギリスもそうです。日本は振り落とすための道具「選別」としてしか意味を持たない入試問題です。
「難しい問題に自ら進んで取り組む」「徹頭徹尾考え抜く力」はそこに問われません。薄っぺらなクイズのような試験問題に適応する能力しか問われない日本は、薄っぺらな官僚しか生みません。こうした入試に一番適応した官僚の一人である文部科学大臣の最近の言動を見ますと、一番真の学力が欠けているのは文部科学大臣ではないでしょうか。
学力低下を云々する文部科学省は、こうしたセンターテストの有り方をどうお考えですか。
大学の側も、受験のための暗記知識ではなく、大学で学び研究するのに必要な能力があるかどうかを重視し、入学試験にも労をいとわぬ姿勢が必要ではないでしょうか。
フランスでは大学卒業まで、教育費は無償です。べら棒に父母に負担をかける日本の授業料。こうした天から改善すべきではありませんか、文部大臣。フランスの悪口を言う石原慎太郎さん。

目先の利益ばかり追いかける日本の教育は取り返しのつかないものになるでしょう
まるまる (475)投稿日:2005年07月24日 (日) 21時09分 返信ボタン

高校生に対して期待され、評価されるのは「勉強」に関わってのみです。「勉強」という一本の価値観、それ以外の基準は、表の文化として評価されるものがあまりない。価値の多様化がかたられるが、ますます価値は一元化しているのが現実です。生徒の作文を紹介します。
「今教育改革だ、何だのと言われているが、所詮改革をやっても、社会にしみついている偏見(一流大学を出ている人間は優秀な人間)というのは、簡単にぬぐえないものである。従って、現在の子どもたちは、勉強しなければならない。」(高校2年男子)
 スポーツであれ、芸術であれ、その多くは、インホーマルなものです。学力が劣ると、人間としてその全人格が否定されてしまう感じを生徒は受けます。ある生徒の母が、「父母会」で自分の子どもの成績が芳しくない時、「父母会」での発言すら遠慮しなくてはならないと語っています。
「かけがえのない存在」としての自己を認識することが教育では大切です。生徒の内に潜在しているよきものを引き出すことが教育の使命です。成績点数を比較することは意味がない。ましてや高校をランキング化して、何の意味があるのでしよう。
学校は教師と生徒が共に学びあうことを喜びとし、互いに生徒が喜びを分かち合えることが大切です。
教育の問題は、我々だけの問題ではなく将来に渡っての社会のあり方に深く関わる問題です。目先のことにとらわれず、将来を見据えたいです。
狭小な視野に閉じこもり「愛国心教育」を鼓舞する政治家が多すぎます。幼稚な「ナルチシズム」陥った政治家です。我々が本当に真剣に現代を生きていこうとするならば、国際社会ということを背景にしなくては、我々の生存にかかわる問題は何一つ解決できない時代に生きていることを忘れてはなりません。
相撲の親方が「稽古は4年、5年の先を見据えてするものです。目先の勝負にとらわれてはだめです。」と語っていました。




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