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「ケ・セラ・セラ」考 |
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まるまる
(478)投稿日:2005年07月25日 (月) 05時52分
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「ケ・セラ・セラ」考 もとの歌からはなれて一人歩きして、「ケセラセラ」とは今では「外来語辞典」(角川書店版)にまで載って、「なるようになるさ」というほどのいかにも当世風の投げやりの気分でお互いの間で慣用されています。しかし、もっと深く宗教的な意味があります。 “Qué será, será ”(quéはwhatです。seráはserという英語のbe動詞のの直説法未来形の三人称単数)というはスペイン語です。引き続いてスペイン語では“Será lo qué Dios querrá”とあります。Quer(好む、欲する)という不規則動詞の変化です。「神の思し召したまうようになるだろう」という意味です。“Dios”は神ということばです。 浄土真宗の南無阿弥陀仏=アミダさまに依拠しますと同じような意味になるのです。もちろんもっと良く吟味しなくてはなりませんが。南無=仏や菩薩・三宝などを敬い、帰依する気持ちを表す言葉です。(帰依・信頼) キリスト=救世主ということと深くかかわるというふうに思います。 Que sera, sera. When I was just a little girl I asked my mother what will I be? Will I be pretty, will I be rich? That's what she said to me:
Que sera, sera. What ever will be will be the future's not ours to see. Que sera, sera. What will be, will be. Que sera, sera. What ever will be will be the future's not ours to see. Que sera, sera. What will be, will be.
「ケ・セラ・セラ What ever will be will be the future's not ours to see.ケ・セラ・セラ」それを日本語訳では「ケセラセラ、なるようになる、明日のことなど、分からない。」なっていますが、“the future's not ours to see”というのは、直訳すれば、「未来の見通しはわれわれの分際ではない」という意味です。そこには、未来を支配する職分と権能を持った何者かが暗黙に予想されています。「なるようになる、明日のことなど、わからない」といった意味ではありません。畏(おそ)れと信頼の気持ちによって支えられたものだろうということになります。キリスト=救世主ということと深くかかわるというふうに思います。
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