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バッハ(5)
グッキー (6)投稿日:2003年01月18日 (土) 08時29分 返信ボタン

 おそらくバッハは、こうした世間の傾向をあまり気にしなかったと思われる。
彼が生きた時代は、芸術至上主義や、永遠のために音楽を作曲するといった
ロマン主義がまだ定着していなかった。バッハほど実際的で常識的な作曲家は、
いまだかつていたことがない。当時のすべての作曲家と同様、バッハは自らを
実務的な職業作曲家と考えていた。日曜日用のカンタータ、子供の教本、ある
楽器を引き立たせるためのオルガン曲など、特定の需要を満たすために作曲活動
を行うプロであった。もちろん、自分で特に出来がよいと思った作品は楽譜にして
発表したが、大体において自作の大半は自分の死後消滅するだろうと割り切っていた。
ライプチヒのカントルに就任した時、バッハは前任者の作品を全部処分したが、
自分の後任者も同様に、思い切って手許にあるバッハ原稿を一掃するだろうと承知
していた。カントルの仕事は、他人の作品ではなく自分で書いた作品を演奏
することであったからだ。
 もちろん彼は自分の値打ちを知っていた。彼は初めから知っていたに違いない。
彼を激怒させるものがあったとすれば、それはずさんな演奏技術、または彼自身が
立てた基準に達しない演奏技術であり、その基準自体があくまでバッハ的なもので
あった。彼の全人生は、自分自身のレベルで演奏するという決意を物語るエピソード
で綴られている。はやくも1705年にアルンシュタットで、彼はガイヤースバッハ
という名の学生と喧嘩をした。そのあげく、バッハは剣を抜いてガイヤースバッハに
迫ったが、のちに『マタイ受難曲』を作曲することになるこの人物は、相手をやっつけ
ようとしたにもかかわらず、またたくまに地面に転がっていた。事情を調べたところ、
バッハはこの同僚を“ツィッペルファゴティスト”つまり、めすヤギのような音しか
出せないバスーン奏者、と軽蔑的に呼んだことが判明した。バッハは譴責を受けた。
「彼はすでに他の学生と折り合いよくやってゆけないという評判を取っていた」から、
一層ぐあいは悪かった。
 しかし、バッハは態度を改めようとしなかった。彼は自分の可能性を知っていた
ようであり、自己流を続ける決心をしていた。自己の音楽の理想、また自己の芸術
にひたり切り、自らを向上させ、勉強し、吸収できるものは何でも吸収しようという
衝動―否、自らに対する強制―は、いかなるものも妨害できなかった。誰かが干渉
すれば、必ず良からぬ事態が起こった。
 彼は1706年に、無断で職務を離れたと、譴責を受けている(ブクステフーデの
オルガン演奏を聴くため、リューベックまで徒歩旅行したのであった)。彼は教会の
礼拝時にオルガンで妙なハーモニーを演奏したと叱責され、演奏が長すぎたと叱責され、
しっぺ返しに「逆の極端に走って、今度は演奏を短くしすぎた」ため、また叱られている。
人と付き合わず、超然として人を見下す態度を取るとして、叱られている。「なんとなれば、
仮に彼が教会と関係して俸給を受け取ることを、恥ではないと考えるとすれば、
他の学生と演奏することを恥じてはならないのである」


バッハ(4)
グッキー (5)投稿日:2003年01月17日 (金) 10時32分 返信ボタン

 ヨハン・セバスチャンの父、ヨハン・アンブロジウスはアイゼナッハで非常に尊敬
されていた教会オルガン奏者であった。彼はセバスチャンが10歳の時に死んだ
(母はその前年に死んでいる)。セバスチャンと次の兄ヤーコブは、オールドルーフ
のオルガン奏者である年配の兄ヨハン・クリストフに引き取られた。セバスチャン
がそこで過ごした五年間のことについては、あまり多くは知られていない。彼は才能に
恵まれた子供だったに違いない。14歳で現在の高校3年生だったが、当時の
高校3年生の平均年齢は18歳に近かった。彼はまたオルガンとクラビーアの演奏
にすぐれていた(クラビーアとはハープシコード、クラビコード、スピネットなど
鍵盤弦楽器の一般的名称である)。声楽もやり、バイオリンをよくし、おそらく
作曲もすでに手がけていたと思われる。
 しかし、ここで論じているのは、どこにでもいるような才能ある若い音楽家
ではなく、おそらく音楽史上最も驚くべき才能に恵まれた人物であるヨハン・
セバスチャン・バッハなのである。従って、われわれは彼の少年時代について、
もっと多くのことを知りたいと思う。この異常にすぐれた才能がいつ現れ始めたのか。
彼は絶対音感を備えていたか(備えていたに違いない)。バッハ家の来歴からみて、
遺伝的要素も考慮に入れなければならない。少年バッハの脳裏にどんな考えが
よぎっていたのか。どんな音楽的、肉体的反射作用が働いていたのか。父や兄が
いったいどんな訓練を彼に施したのか。―われわれは知らないのである。
 バッハの生涯の中でおもだった客観的な事実は知られている。15歳の時、彼は
リューネブルクの聖ミカエル学校に通い、ハンブルクを訪れ、当時からすでに
論争好きな若者であった。彼の人生は、宮廷または教会の役職を転々とすることに
過ごされた。アルンシュタット、ミュールハウゼン、アンハルト・ケーテンの公爵
の宮廷と移って、最後はライプチヒの聖トマス教会のカントル(音楽監督)を
二十七年間つとめた。彼は在世中すでに非常に尊敬されていたが、作曲家として
よりは、むしろオルガン奏者、オルガンの技巧家としての評価の方が高かった。
バロック音楽運動を頂点に押し上げたバッハは、主として多声音楽の上に建てられた
殿堂を、急進的な新思想が揺るがせつつあった時代に生きた。晩年のバッハは学者
くさい旧式な作曲家とみなされていた。バッハの作品は排撃され、スチール・ギャラン
(優雅な様式)と呼ばれる、軽快でメロディックな単旋律音楽が幅をきかすように
なった。この上品で優美だが、どちらかといえば浅薄な音楽は、のちほどバッハの息子
ヨハン・クリスチャンをロンドンの人気者に仕立てるのであった。


バッハ(3)
グッキー (4)投稿日:2003年01月16日 (木) 09時21分 返信ボタン

 ところでヨハン・エリアスに話題を戻すとして―エリアスが送ったワインのことに
バッハの手紙は触れている。このワインの一部が運搬の途中、行方不明になったのだが、
バッハは「神のこの貴い贈り物はたとえ一滴でもこぼしてはいけなかった」と大いに
嘆いて見せ、それから急いで、自分は「しかるべきお返し」をすることができないと
付け加えている。最後に次のような追伸がある。―「尊敬する私のいとこ(エリアスのこと)
は親切にも酒をもっと送ると言ってくれているが、当地での経費が極めて高くつくため、
お断りしなければならない。というのは運送代が16グロシェン、運搬人に2グロシェン、
税関検査官に2グロシェン、内陸関税が5グロシェン3ペーニヒ、一般関税が3グロシェン
もかかるので、私は1クォート(約0.95リットル)当たり5グロシェン近くも払わねば
ならず、贈り物を頂くにしては経費がかかり過ぎることをご理解願えると思う」
 バッハは1685年3月21日、ヨハン・アンブロジウス・バッハの八人の子供の
末っ子として、ドイツのアイゼナッハに生まれた。祖父はクリストフ・バッハ、曽祖父は
ヨハネス・バッハとさかのぼり、先祖はファイト・バッハである。ファイトの生誕日は
不明だが、死んだのは1619年であった。バッハ家の常として、一族の業績に大きな
誇りを持っていたヨハン・セバスチャンは、「音楽一家バッハ家の起源」という系図を
作ったことがあった。この系図によると、先祖のファイトは「ハンガリーの白パン焼き
職人であり、ルター派を信仰したため十六世紀にハンガリー脱出を余儀なくされた」と
なっている。この系図の中でバッハが描いた老ファイトは魅力的な人物であり、
「小さなシターン(ギターに似た楽器)を弾くことに最大の喜びを見出し、これを製粉所
まで持ち込んでは臼挽きの間中、曲を演奏した(どんなに美しい音楽であったことか。
この方法によって彼は、リズムを自分の体内に刻み込むことができたのである)。そして、
いわばこれが、彼の子孫が音楽好きになった起源なのである」という。バッハは自分が
ハンガリー人の子孫であると信じていたが、現在ほとんどの学者は、ファイトは
ドイツに生まれてハンガリーに移住し、またドイツへ戻ってきたと考えている。
 ファイトの存命時にはハンス・バッハとカスパル・バッハもいた。ファイトは
ヨハネスとリップスを生んだ。ヨハネスからヨハンナ、クリストフ、ハインリッヒ
が生まれた。リップスからマイニンゲン・バッハの一族が出た。同家は営々と子孫
を作り、次々に名音楽家を送り出して、二百年以上にわたり祖先の念願を正しく
伝承した。音楽一族のバッハ家はアルンシュタット、アイゼナッハ、オールドルーフ、
ハンブルク、リューネブルク、ベルリン、シュワインフルト、ハレ、ドレスデン、ゴータ、
ワイマール、イエナ、ミュールハウゼン、ミンデン、ライプチヒと、ドイツ各地に
分かれて根を下ろした。バッハ家は親密で同族意識が強く、互いに訪問し合い、
演奏会をやり、ゴシップを交換し、一族を音楽上の要職につけさせることに努めた。
ドイツのどこかで就職口があると、ニュースはたちまち大バッハ家の神経中枢に伝わり、
末端各所に痙攣や反応を起こした。しばしばバッハ家の誰かが、その職にありついた。


□【ドイツと日本の修好150年を記念して、カンタータを歌いませんか!!】/グレイス合唱団 (63)投稿日 : 2011年06月07日 (火) 20時44分

バッハ大好きな皆さ〜ん、出番ですヨ〜ッ!! バッハのカンタータ、素晴らしいですヨ〜!! そして東日本大震災・復興支援にも貢献しませんか??  私達のホームページで過去の6曲を聞いて頂いて、宜しかったら、ドイツ人の合奏団仲間と一緒にカンタータを歌いませんか!! 

≪ドイツと日本の修好150年を記念≫して、【グレイス合唱団】では、ドイツの新進気鋭の合奏団を交え、日本オペラ界を代表するソリストと共に≪バッハ音楽の世界≫カンタータ他のチャリティー公演を予定し、合唱団員を募集しています。 男声は特にWelcome!!  共々に一生涯の思い出に残る、至高・至福の音楽を味わいませんか!! 

☆公演: 2011年9月17日(土)午後/ウェスレアン・ホーリネス淀橋教会(JR:大久保駅近く) 

☆曲目: カンタータ 4番 & 80番とブランデンブルク協奏曲… J.S.Bach作曲 

☆出演: 稲垣俊也(バス)… イタリア・ヴェルディ国際声楽コンクール優勝者!! 新国立劇場開場公演の主役 & 二期会50周年  
記念公演の主役を演じる、日本の誇るオペラ歌手!!  遠藤久美子(ソプラノ)、広川恵(アルト)、鏡貴之(テナー)

☆合奏: アクロアマ・アニマータ(ドイツ)…acroama animataで検索すると素晴らしい演奏の一部が聞けます!!

☆後援: ドイツ大使館、東南アジア文化友好協会、日本国際飢餓対策機構、キリスト教系各紙 他

☆チャリティー先: 東日本大震災復興支援、東南アジア文化友好協会、日本国際飢餓対策機構、ワールドビジョンジャパン

バッハ(2)
グッキー (3)投稿日:2003年01月15日 (水) 10時19分 返信ボタン

 以上のすべては、人間バッハの知られた側面とぴったり一致する。彼は頑固で
怒りっぽく、付き合いにくい人間という定評があった。彼の弟子たちは、そして
おそらくは彼の子供たちも、この厳格な人物を恐れたと思われる。彼は信仰心が篤く、
ルター派の信者として生き、蔵書は(当時としては)極めて多数の宗教書で占められて
いた。彼は死の考えにつきまとわれていたようであり、天国と地獄が抽象概念でなくて、
恐ろしい真理であった当時でさえも、同時代の人たちよりは、遥かに死のことに思い
悩んだ。例えばヘンデルは極めて信心深かったけれども、自分は天国に行くのだという
認識があった。ハイドンも同様であったらしい。二人は、自分たちが神の友人である
と考えていた。だが、バッハは二人と異なり、神を遥かに恐れていたのである。ある時
バッハは、音楽の目的と最終的存在理由は「まさに神の栄光を讃え、精神を再創造する
ことでなければならない」と語った。
 バッハの性的衝動が強かったことは、彼の家族構成が立証する。彼は二十人の子供を作り、
うち九人が彼の死後も生き残った。これはどの大作曲家が作った家族よりもずば抜けて多く、
最大のものである。大家族がそれほど珍しくなかった当時でも、これは大きな規模であった。
また、1706年にアルンシュタット市当局がバッハに手渡した譴責書がある。
―「そこでさらに、最近彼が未知の乙女をオルガン室に入れて演奏させたのは、いかなる
権限によってであるか、彼に聞きたい」。英ビクトリア時代のバッハ伝記家は『ロ短調ミサ』
を作曲した聖なるヒーローが、未知の乙女に関心を持ったかもしれない、という示唆に
びっくり仰天した。この未知の乙女はバッハが翌年結婚した、従妹のマリア・バルバラで
あるということになったが、果たしてそうであったのかどうか、決め手はない。
 バッハは結婚歴二回の健全な市民だったが、農夫のように倹約家であった。彼は一度も
窮乏生活を送ったことはなかった。当時バッハ姓を名乗っていた誰よりも一番豊かで尊敬
されたが、一銭にもけちけちし、あらゆる出費をきびしく監視した。この点、いとこの
ヨハン・エリアスにあてた手紙は愉快である。実際のところ、これはユーモアに欠けた
バッハの人生でほとんど唯一の愉快なエピソードといえる。バッハはいったい笑ったこと
があるのだろうか。たしかにバッハの作品には、他のどの大作曲家の作品よりもユーモアが
少ない。ワーグナーでさえも『ニュルンベルクの名歌手』を作曲した。バッハの作った
ユーモラスな音楽といえば、『コーヒー・カンタータ』『愛する兄の出発にちなむ奇想曲』、
それにもう一、二の曲ぐらいで、彼の全作品中に占める量はごく少ない。


バッハ(1)
グッキー (1)投稿日:2003年01月14日 (火) 08時09分 返信ボタン

 ライプチヒには、聖ヨハネ教会の扉の近く、南の壁から5、6メートル離れたところに
ヨハン・セバスチャン・バッハの遺体が埋葬されている、という言い伝えがあった。
1894年、教会は改築の準備を始めたが、この改築の結果、バッハの墓地という
伝説の場所が破壊される恐れがあった。そこで、ウィリアム・ヒスという解剖学者を
首席とする学者グループが、墓の発掘を開始した。学者たちが作業を始める根拠と
したのは、バッハの死んだ1750年に樫の棺で埋葬されたのは12人だけであり、
その一人がバッハであった、という情報である。
 教会の南の壁付近で三つの棺が発掘された。うち二つは松づくりだったが、
一つは樫づくりで状態のよい男性の骸骨がはいっていた。あらゆるテストが行われ、
彫刻家カール・ゼフナーが頭蓋骨の表面を石膏でおおって顔像を作りあげた。
この像はバッハの肖像とほぼ一致した。1895年に発表された報告の中で、
ヒス博士はすべての証拠を要約したあと、この作業に協力した他の科学者と連名で、
問題の骸骨はたしかにバッハであるという結論を下した。遺骨はこのあと
聖ヨハネ教会祭壇下の墓所に移された。
 もしこの骸骨が事実バッハだとすれば―そして、これを疑うべき有力な理由はない
のだが―作曲家バッハは身長約1メートル70センチ、頭は大きく体格の頑丈な男
であり、現代に伝えられた数少ない写生肖像画に表現されている肉体的特徴を
すべて備えている。バッハを専門とする図像学者は、絵による証拠がほとんど
存在しないことを嘆息し、バッハの容姿がいったいどうであったか判別する
すべはないと考える者も少数はいる。しかし現代に伝わるバッハの肖像画―どの絵
でもバッハが当時の慣習に従ってカツラを着けている(一部の学者はカツラが
はげ頭を隠しているのではないかと推測しているが)―には多くの共通点が
示されている。鼻が際立って大きく、頬の肉は厚ぼったく、顎が突き出て、唇は
きびしく引き締まっている。タフで強靭な男性的な顔であり、自分の権利のため
には敢然と立つ男の顔である。妥協を許さぬ顔であり、狂信者の表情はないにせよ、
自分の意志は通すという決意をはっきり表している表情である。




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