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バッハ(2) |
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グッキー
(3)投稿日:2003年01月15日 (水) 10時19分
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以上のすべては、人間バッハの知られた側面とぴったり一致する。彼は頑固で 怒りっぽく、付き合いにくい人間という定評があった。彼の弟子たちは、そして おそらくは彼の子供たちも、この厳格な人物を恐れたと思われる。彼は信仰心が篤く、 ルター派の信者として生き、蔵書は(当時としては)極めて多数の宗教書で占められて いた。彼は死の考えにつきまとわれていたようであり、天国と地獄が抽象概念でなくて、 恐ろしい真理であった当時でさえも、同時代の人たちよりは、遥かに死のことに思い 悩んだ。例えばヘンデルは極めて信心深かったけれども、自分は天国に行くのだという 認識があった。ハイドンも同様であったらしい。二人は、自分たちが神の友人である と考えていた。だが、バッハは二人と異なり、神を遥かに恐れていたのである。ある時 バッハは、音楽の目的と最終的存在理由は「まさに神の栄光を讃え、精神を再創造する ことでなければならない」と語った。 バッハの性的衝動が強かったことは、彼の家族構成が立証する。彼は二十人の子供を作り、 うち九人が彼の死後も生き残った。これはどの大作曲家が作った家族よりもずば抜けて多く、 最大のものである。大家族がそれほど珍しくなかった当時でも、これは大きな規模であった。 また、1706年にアルンシュタット市当局がバッハに手渡した譴責書がある。 ―「そこでさらに、最近彼が未知の乙女をオルガン室に入れて演奏させたのは、いかなる 権限によってであるか、彼に聞きたい」。英ビクトリア時代のバッハ伝記家は『ロ短調ミサ』 を作曲した聖なるヒーローが、未知の乙女に関心を持ったかもしれない、という示唆に びっくり仰天した。この未知の乙女はバッハが翌年結婚した、従妹のマリア・バルバラで あるということになったが、果たしてそうであったのかどうか、決め手はない。 バッハは結婚歴二回の健全な市民だったが、農夫のように倹約家であった。彼は一度も 窮乏生活を送ったことはなかった。当時バッハ姓を名乗っていた誰よりも一番豊かで尊敬 されたが、一銭にもけちけちし、あらゆる出費をきびしく監視した。この点、いとこの ヨハン・エリアスにあてた手紙は愉快である。実際のところ、これはユーモアに欠けた バッハの人生でほとんど唯一の愉快なエピソードといえる。バッハはいったい笑ったこと があるのだろうか。たしかにバッハの作品には、他のどの大作曲家の作品よりもユーモアが 少ない。ワーグナーでさえも『ニュルンベルクの名歌手』を作曲した。バッハの作った ユーモラスな音楽といえば、『コーヒー・カンタータ』『愛する兄の出発にちなむ奇想曲』、 それにもう一、二の曲ぐらいで、彼の全作品中に占める量はごく少ない。
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