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戦争の悲劇 (571)投稿日:2006年07月10日 (月) 13時20分 返信ボタン

朝日新聞読書欄 2006年7月9日
「プラハ日記」アウシュビッツに消えたペトル少年の記録
はじめまして、大変「プラハ日記」良い紹介文でした。その姉妹編ともいうべきNHK「ヴェデム」のビデオを生徒が見た感想文です。何かの参考にしていただければ幸いです。 

 私は以前からユダヤ人大量虐殺に関心があり、「夜と霧」や強制収容所についての本をたくさん読んできました。だからこのドキュメンタリーも興味を持って見ることができた。
 このドキュメントが私たちが見てきたものと違うのは、普通のものは、アウシュビッツそのものや、迫害への恐怖、追われている様子などを描いたのに対して、アウシュビッツへ行く一歩手前での生活を描いていることだ。しかも、死への恐怖ではなく、純粋な生への希望を正面に打ち出している。
 テレジンに収容され、アウシュビッツへ送られているのを待つばかりの少年達が、L417という番号が付けられた住居の一号室にいた。年は大きくて16歳ぐらい。すでに両親を失ってしまった子ども、また生きていても会えない子どもが大勢いた。普段接している大人といえば、兵隊と、寮監役のアイシンゲル先生たちだけである。少年たちが何を求めていたか。
 そんな需要に対して少年たちが起こした行動、それは、自分たちで自治組織を作り、また「自分たちの雑誌」を発行する、ということだった。
 ここで「いのちの雑誌」という名を冠されている雑誌は、少年たちによって「ヴェデムVEDEM」つまり忍耐と命名された。
 毎週金曜日に一部だけ発行、編集長ペテル・ギンツがそれをタイプで打つ(後には危険を避けるために手書きになった)。
 ただ文章を書き、また他人の書いたものを読むという、それだけのことではあるが、それは少年たちにとっては十分大きな出来事だったにちがいない。大きな少年たち、特にギンツが中心となって、(確か)74号あたりまで発行され続けたのだ。単純に四で割ると約十八ケ月、一年半である。
 ヴェデムはいろいろなことが書かれた。他愛のないことから真面目なことまで。また、その寄稿者も様々だった。時にはアイシンゲル先生も寄稿した。彼は自分の記事にこう書いたことがあった。
「君たちはこのような出来事のために、大人になりすぎてしまった」。その通り、少年たちは、体はまだ子どもでも、心はそんじょうそこらの大人よりもずっと大人に違いない。
 その大人の心で、少年たちは、人が「ばたばたと死ぬ」のを「連れて行かれる」のを見た。それがどんな気持ちだったかは、多分永久にわからないだろう。少年たちはその印象の片鱗をヴェデムにのぞかせたのかも知れない。日本にいる私たちが、彼らの気持ちなり当時の状況を知るには、そういう手がかりを見るしかない。
 昔にも、大量虐殺と似たようなことがあった。例えば、聖書の「出エジプト記」では、ファラオがイスラエル人に強制労働させ、絶滅させようとまでした。細かいところは違っても、ユダヤ人の大量虐殺と同じようなことである。
 歴史は繰り返すということを知っている私たちにできること。それはこれらの過去に実際に起こってしまった出来事を知り、その残酷さを感じることである。少年たちはヴェデムを書かせてしまった出来事を知り、その残酷さを感じることである。少年たちにヴェデムを書かせてしまった原因を、再び作らないために。
 今、一部の人は、第三次世界大戦に突入しようとしているのではないか、という危惧を抱いている。私は後の教科書に「第三次世界大戦」という活字が載らないことを願う。
A .S.某高校一年

「プラハ日記」アウシュビッツに消えたペトル少年の記録 
平野清美・林幸子訳平凡社
親類、級友を次々見送り・・・
1941年秋のプラハ。壁のない収容所といわれたゲットー。チェコ系ユダヤ人の家庭に生まれ、絵や小説を書くのが大好きな十四歳の少年ペトル・キンズ。級友や親類が次々とナチスに輸送(収容所送り)されるなか、自分の連行される直前の翌八月まで、彼が書き残した二冊の手作りノートの日記が本書である。
 ヴェルヌの小説を好み、少年らしくソリ遊びを楽しむ一日がある一方、ユダヤ人に徽章が導入され、供出強制が増えてゆく事実も忘れてはいない。
 噂がとびかい、多くの人が逮捕され、街には暗殺や処刑も珍しくない日々。終りに近づくにつれ、日記の筆跡は神経質になるというが、しかし、街の様子などを記録する平静さには驚嘆せざるをえない。何という自制力だろう。
 六月には叔父と三人の教師が、七月には祖母、父の姉夫婦、そして伯母が輸送。クラスにはもう五十人中十六人しか残っていない、と、祖母を見送った七月九日の日記には書いている。
 二年後、アウシュビッツのガス室で命を絶たれることになるが、収容所でも同室の少年たちと雑誌を編集したりして、将来への希望を表現し続けたという。
【小高賢(歌人)】

何時の日にか戦争による「ユダヤ人」の死が報われる時がくるのでしょうか。イラク戦争。イスラエル・パレスチナ戦争。みな凄惨すぎる終りのない戦争です。人類は戦争なしに生きられないのでしょうか。あらゆる不道徳が戦争の名のもとに行なわれているのです。




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