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荻生徂徠の偉さは、社会の現象を通してその政治的責任を為政者はつねに持つべきだと言うことです。 |
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甲田
(539)投稿日:2005年10月08日 (土) 20時11分
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今小泉内閣は社会的弱者を個人の責任として切り捨てているが、江戸時代の優れた学者で、政治顧問であった荻生徂徠は、親を捨てた道入を無罪にして、政治の貧しさを指摘した。年間3万人以上も自殺者が出ているのは、全く政治の責任ではないか。個人の責任、自己責任と言い逃れをして、社会的手立てをしない小泉内閣は恥ずべき政治家たちの集まりだ。 「人間の心の本性には道徳の理が宿っているという性理学の立場から、もっぱら人の心の内面の信条や動機が問題とされていたのである。」と述べている様に、他の儒者が依然として宋学的な立場から、「奇特」であるかどうかと言う様な、道入の主観的動機のみをひたすら上げつらていたとき、徂徠は、飢饉の場合などは「世間で飢饉でも起こりましたならば、このような者は他領でもいくらでも出てくるのでしょう。親捨てというのは、人間としてあるまじきことですから、これを親捨てとみなして、何かの刑に処したならば、見せしめの意味で他領の手本にもなるでしょう。しかし私が考えますのに、このようなものが領内から出るようにしたのは、第一に農村を支配する代官や郡(こおり)奉行(ぶぎょう)の責任です。その上では家老の責任です。それより上のほうにも責任者がいるはずです。それに比べれば、道入が犯した罪は極めて軽いものです」として、道入の行為を一個の客観的類型として、その社会的反復可能性において捉へ、以て彼の無罪を結論し、為政者の政治的責任に問題を移した。 封建時代よりも劣る政治家の問題を指摘せず、小泉チルドレンと言って馬鹿な発言を追いかけているテレビ局は余りにも馬鹿げすぎています。 何一つ良心がないテレビの報道、良心のひとかけらもないテレビ局、白痴的人間が作っているとしか思えない。
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