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日の君は国旗国歌としてふさわしいのか。
とほほ (469)投稿日:2005年06月10日 (金) 22時56分 返信ボタン

国旗国歌を強制するなどと言う馬鹿馬鹿しい事は論外である、議論にもならん。例え日の君存置論者といえども今日における国旗国歌の強制問題は徹底的に批判せねばならないのは当たり前である、私もそれを散々批判してきたが、ここでは日の君そのもののあり方を考えてみたい。

>君が代日の丸は日本の国旗国歌としてふさわしくない、大日本帝国という悪を象徴している、と言う筋の通った主張がなされています。これに対してきちんと反論してかねば日の丸君が代は「そう言う国旗国歌である」誇りの持てない国旗国歌である、と言う主張は正論ではないでしょうか?

私には日の君存置論の中で一つ私自身の中にも説得力を持つ論がある。それは日の君が血塗られた取り返しのつかない歴史を持つ国旗国歌だからこそ変えるべきではない、と言う議論だ。

国家の歴史とは奇麗事の歴史ではない。それぞれに血塗られた真実の中で犠牲者を踏み台にして成立している、我々はこのことを決して忘れてはならない。この事実を「あの人たちはお国の為に犠牲になった」等と国家に都合の良い解釈をしてはならない。あの人たちの犠牲のおかげで今がある、等ととんでもない解釈をしてはならない。人は国の為社会の為に生きるのではない、人の生はその人のものである。こうしたトンデモ解釈は生き残ったものが自分の生を正当化しようとしているに過ぎない、死んだものにとってはどうでもよいことであり死んだものの遺志など誰にもわからない。

彼等の死を無駄にしないということは、二度と彼等のような死を繰り返させないと言う事に他ならない。国家による殺人の正当性を決して認めてはならない。死んでまで国家の殺人に利用させてはならない。
国家建設の為には犠牲が必要だった、等と言う事は決してないのだ、そこには殺した者が明確に存在するのだ。戦争にしろ何にしろ決して超自然的な力のなせるわざではない。明らかに戦争を引き起こした人間がいるのだ。人間が戦争をしたのだ。人間が戦争を放棄できないはずはない

国旗国歌を変えることで、そのことを忘れてはならない。我々はその血塗られた国旗国歌を甘んじて受け入れねばならない。その犯した業罪を国旗国歌とともに永遠に記憶しておかねばならない。そうした記憶を下地にした国家建設であれば自ずと国旗国歌に対する畏敬も芽生えてこよう、「強制」などという馬鹿げたことをせずとも国旗国歌は自然とそこにあるものとなろう。

この下地の無い、自己批判の無い国家はこれからも国家の為の犠牲を求めねば国家建設をする能力は養われない、現に石原を初めとする無能な政治家どもは犠牲の提供を公言している。次の人身御供は貴方かもしれない。



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