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グルック(3) |
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グッキー
(36)投稿日:2003年02月27日 (木) 08時32分
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遍歴癖のあるグルックは次いでハンブルクにおもむき、ライプチヒ、 ドレスデンを経てハンブルクに着いたイタリア歌劇団を指揮した。 1749年に彼はウィーンに戻り、翌年、富裕な商人の娘と結婚した。 この時以来、彼は金の心配をする必要が全くなくなった。彼が独立不羈 (一部の人たちによれば傲慢)と頑固さの傾向をますます強めたことは、 この財政的安定と無縁ではなかった。結果を心配する必要がなければ、 世間で暴言を吐くことは、たやすい。 グルックはたゆまず作曲を続け、同時に指揮者としても名声を確立した。 1752年にウィーン宮廷の音楽監督に任命され、1754年にはヒルトブルクハウゼン公爵の オーケストラの指揮者となった。1756年にローマ法王ベネディクト14世から 騎士の称号を授かり、以後、彼はリッター(ドイツ語で騎士)・フォン・グルック、 またはシュヴァリエ(フランス語で騎士)・グルックと呼んでもらいたいと主張するように なった。この期間に彼は、今では完全に忘れ去られた一連のオペラを作曲した。それらは、戯れに 『エツィオ』『イシッピレ』『中国人』『舞踏会』『アンティゴーノ』と名付けられている。 グルックがカルツァビージを知ったことが、彼の改革精神の口火となったとすれば、 改革ムードがあたりに充満していたということもできる。当時、オペラは単なる公式となり、 一方ではメタスタジオの台本によって固定化し、他方では歌手の道化芝居によって分解現象を たどっていた。 ピエトロ・メタスタジオ(1698〜1782)は、二十七のドラミ・ペル・ムジカ (音楽のための劇)で音楽界に特に知られた作者であった。彼は1730年から 死ぬ間際までウィーンの宮廷詩人だったが、これら二十七の劇の大半は、その在任中に 書かれたものである。これらの劇は18世紀の作曲家によって千回以上も音楽的処理を 受けたが、一部の作品は極めて高く評価されて、70人もの作曲家が音楽化に取り組んだ。 聴衆がオペラ新作公演を観劇し、これは以前どこかで見たことがあると感じたとしても 不思議ではない。メタスタジオの台本は神話と古代歴史を基礎とし、登場人物が多く、 注意深く組み立ててあった。トーヴェイは、台本の構成力がすぐれ、論理的であると、 次のように指摘している。 「極めて合理的な音楽体系を持ち、それに従って各状況が、会話とアクションの 自然で滑らかな進展によって展開する。あらゆる感情的危機と休止点は絵画的描写で 強調され、この間、感情は楽想における良き音楽効果を持った、重複に耐える言葉を 用いた、意味深い詩の数行に合わせたアリアで表現される」
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