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バッハ(7)
グッキー (8)投稿日:2003年01月20日 (月) 13時03分 返信ボタン

 そのうえバッハは、同市にある四つの教会全部の音楽番組の、すなわち
生の音楽とその演奏の責任者でもあった。彼は毎週の礼拝のためにカンタータ
を作曲し、その演奏を指揮しなければならなかった。聖金曜日には受難曲を
提供する必要があった。こうした仕事はすべて、カントルのポストにある
人間のノルマだったが、このほか結婚式や葬式のためにモテットを書いたり、
市の祝典に作曲するなど、公務以外の仕事もあり、彼はこれから収入を得ていた。
彼は全くまじめな調子で「いつもより葬式が多いと謝礼もこれに比例して多く
なる。だが吹く風がすこやかだと葬式が減る。例えば昨年は、葬式から入る
謝礼が百ターレル以上も減って、大損をした」と言ったことがあった。
 ライプチヒでバッハは他人の協力、自分の収入、自分に与えられる評価の
いずれの面でも期待を満たされず、例によって市当局者とやがて衝突し始めた。
市評議員のシュテガーは怒りにまかせて、カントル(バッハ)は何もしない
ばかりか「この事実について釈明しようともしない」と言った。おそらくこれは、
評議会がバッハに対してひそかに抱いていた疑惑を確認することになった。つまり
彼がライプチヒに来たのは、評議会が適任と思う候補者が見つからなかったためだ
というわけである。評議員プラッツは「最上の人物が得られないので、凡庸な人物を
採らねばならなかったのだろう」と述べた。こうしてプラッツは、歴史の脚注に
その名を残すことになった。
 彼の言う「最上の人物」は、ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)
であった。信じがたいほどの多作家で、死ぬまでに三千曲書いたことになっている。
すぐれた音楽家であり、また見事な作曲家であったテレマンは、ドイツでは非常に
人気があり、流行から外れたバッハは、とても彼に及ばなかった。
 このあと1736年に、聖トマス教会学校の校長ヨハン・アウグスト・エルネスティ
とバッハとの大喧嘩が起こった。これは学校を揺さぶり、評議会を狂気に駆り立て、
バッハが頑固さと戦闘本能をあますところなく発揮した事件であった。エルネスティは
ヨハン・ゴットリープ・クラウゼという者を聖トマス学校の級長に選んだ。ところが
クラウゼはお粗末な音楽家で、バッハは激怒した。彼は評議会に抗議し、エルネスティ
がやり返した。非難と反論が繰り返されたが、バッハは降りようとはしなかった。
彼は教会会議に喧嘩を持ち込んだが、ここでも納得できずに選帝侯に直訴した。
 直訴状の宛名は「最も荘厳で偉大なフレデリック・アウグストゥス公爵閣下、
ポーランド王、リトアニア・ロイス・プロシア・マツォビア・サモギチア・キョビア・
フォルヒニア・ポドラヒア・リーフラント・スモレンスク・セベリア・チェルニーンホビア
大公、ザクセン・ユーリヒ・クレーベ・ベルク・エンゲルン・ウェストファーレン候、
神聖ローマ帝国大元帥ならびに選帝侯、ツーリンギア伯爵領主、マイセン・
上下ラウジッツ辺境伯、マグデブルク城主、私の最も敬愛する帝王、選帝侯閣下殿」
となっていた。この事件がどんな結末を迎えたか、知る者はいないが、バッハが勝った
と考えられている。




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