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ハイドン(6)
グッキー (53)投稿日:2003年04月11日 (金) 23時43分 返信ボタン

 しかし、ハイドンがパウル候に仕えた期間はわずか1年であった。パウルは
1762年に死に、「壮大なニコラス候」が後を継いだ。ニコラスは直ちに新しい
居城を建設し、これをエステルハーザ宮と呼んだ。1766年に数百万グルデンの
巨費で完成したこの宮殿は、ベルサイユを除いてはヨーロッパ最大で、人形劇場や
400人収容の歌劇場があった。歌劇場の王侯ボックス席は、金色の横棒で飾られた
赤大理石のローマ風円柱で支えられていた、と当時の報道は伝えている。
 さらに、この報道は(建物と周囲の豪華さに触れたあと)ドイツの喜劇とイタリアの
オペラが毎日交互に上演されると述べた。「侯爵は常に出席しておられ、午後6時が
通常の時刻である。どれほど目と耳を楽しませるかは、口では言いがたい。まず第一に
音楽である。オーケストラ全体が完全に一体化して鳴り響く。まず心を感動させる
ような優しさ、次に心を貫くような激しい力。――なぜなら侯爵の楽長をつとめる
ハイドン氏が指揮を取っているからだ」。マリア・テレジア女帝も感激し「良いオペラを
楽しみたいときは、エステルハーザに行く」と語った。
 ウェルナーは1766年に死に、ハイドンが楽長になった。これは激務であった。
彼はオーケストラを指揮し、音楽を作曲し、本を探し、音楽関係の一切の実務を果たし、
人員の雇用と解雇に当たり、楽譜を写し、紛争を調停しなければならなかった。彼は
すべての職務を冷静かつ常識円満な方法で遂行し、厳しいが常に公正であり、部下を
庇うためしばしば侯爵に自ら歎願した。部下は彼を敬愛し「パパ」と呼んだ。
 ニコラスとハイドンは非常にウマが合った。先代と同様に熱心な音楽愛好家で
あった侯爵は、現在では廃れてしまった楽器だが、チェロに似たバリトンを弾いた。
ハイドンはニコラス自身の弾ける曲を、たくさん作ることになっており、侯爵の
得意の楽器のために約200曲も作った。大半はバリトン、ビオラ、チェロのため
の曲であった。彼は自分がどれほど幸福か知っていた。
 「侯爵はいつも私の作品に満足されていた。私は常に認められて励まされたばかりか、
オーケストラ指揮者として実験をやり、何が効果を生み何が弱めるかを観察し、改善や
改変、追加や省略を行い、自分の望むだけ勇敢になることができた。私は外部世界から
隔離され、私を混乱させたり苦しめる者はなく、いやおうなしに独創的であろうと
努めることになった」
 エステルハーザでハイドンは、20人ないし23人の楽団員から成るオーケストラを
指揮していた。これは当時としてはかなりの規模であり、これより大きなオーケストラは、
当時のヨーロッパにはごく僅かしかなかった。世界最高のオーケストラは、約50人の
楽団員を擁するマンハイムであった。マンハイム派という作曲家の一派があり、その
代表者格のヨハン・シュターミッツ(1717〜1757)とクリスチャン・カナビッヒ
(1731〜1798)は、いずれもハイドン時代に活躍し、彼に影響を与えたかもしれない。




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