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ハイドン(3)
グッキー (50)投稿日:2003年03月31日 (月) 14時21分 返信ボタン

 しかし仮にハイドンが、モーツァルトと同年齢の36歳で死んでいたら、彼は
今日ほとんど知られていないだろう。彼は直線コースを徐々に進んで成熟した、
大器晩成型の人物であった。幼時から極めて豊かな才能に恵まれていたものの、
いわゆる神童ではなく、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンのように
一気呵成に作曲することはなかった。「私は速筆家ではなく、細心に勤勉に作曲した」
と彼は示唆している。彼の経歴は徐々に成長するタイプであり、実際の仕事を進めながら
収得した技法をわが物としていった。彼が作曲活動にはいった当時は、新音楽、すなわち
スチール・ギャラン(優美な様式)の音楽が生まれたばかりで、ハイドンはこれを
立派に組み立てる仕事の一切を取りしきった。彼が「交響楽の父」と呼ばれるのは
不当ではないが、同様に彼を「弦楽四重奏曲の父」「ソナタ形式の父」と呼んでも、
差し支えはないだろう。
 フランツ・ヨゼフ・ハイドンは1732年3月31日、オーストリア・ハンガリー
国境線上にある町ローラウに生まれた。以前、ハイドン家はクロアチア人であると
いわれたが、近代の研究の結果、オーストリア人であることが実証された。ヨゼフの父、
マチアス・ハイドンは車大工であった。少年ハイドンは百姓の子供同然に育ったが、
幼時から異常な音楽的才能を発揮した。5歳のヨゼフが左手に棒切れを持って、
バイオリンを弾く真似をしたという楽しい物語が残っている。両親は彼が牧師に
なることを望み、このためヨゼフは6歳になるかならないかの時、いとこに唆されて
近隣のハインブルクにやられた。ハインブルクで彼は読み書きを習い、教義問答集を
勉強し、音楽の才能が認められて木管と弦楽器のレッスンを受けた。ハイドン自身が
自叙伝の中で「わが全能の神は、極めて豊かな音楽的天分を私に授けたので、6歳の
時でも私は教会合唱隊で大人のように直立してミサ曲を歌い、クラビーアとバイオリンを
若干弾くことができた」と書いている。
 しかし、事がすべて容易に運んだのではない。ハイドンの幼時は惨めであり、後年の
回想によると「食事を与えられるよりは、ムチで打たれることの方が多かった」。彼は
大部分、自習しなければならなかった。「ちゃんとした先生に習ったことがない。
歌唱や器楽演奏、のちほどの作曲と、何でも私は実際面から出発した。勉強するより
曲を聴く方が多かったが、当時最高の各種の音楽を聴いた。・・・・・こうして徐々に
私の知識と能力は成長していった」
 ハイドンが“最上の音楽”を聴いたのはウィーンであった。8歳の時、彼は
聖シュテファン教会の合唱隊にはいり、児童スターの一人になった。1749年に
声変わりしたため解雇された。伝説によると、解雇を早めたのは子供っぽいいたずらの
ためだったという。彼は同僚学生のお下げ髪を切り落としたことになっている。当時
ハイドンは17歳で、教会を去る際の全財産は古シャツ3枚と、擦り切れた上着だけ
であった。このあと新しく児童スターとなったのは、弟のミヒャエル(1737〜1806)
であった。ミヒャエルは大物になると予言され、作曲を除くすべての面で、ヨゼフに
まさる才能を持っていたようである。実際に彼は立派な経歴を歩み、ザルツブルクでは
モーツァルトの後を継いで、大司教オーケストラの指揮者となった。また、彼は大量の
教会音楽を作曲したが、どの作品も今日、常備演奏曲目表の中には入っていない。




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