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ハイドン(1)
グッキー (48)投稿日:2003年03月21日 (金) 13時06分 返信ボタン

 フランツ・ヨゼフ・ハイドンが最も名声の高い音楽人であった時代は、
自らの文明、論理、感情の抑制、礼儀を誇りとした時代であった。
貴族政治の黄金時代であり、理性が人間と社会の機能を導くことができると、
哲学者が本気で信じていた時代であった。この世紀(18世紀)の終わり
頃には流血と革命が訪れ、次いで社会と芸術家の役割について新たな考え方が
生まれた。しかし18世紀にあっては、若い知識人や芸術家が固定観念に
とらわれ、自分たちのユニークな才能を自讃したり、自分たちの理想、苦しみ、
願望を大げさにひけらかすといったことはなかった。こうした役割は次の
19世紀の若いロマン派に任せられた。18世紀の後半は、万事に釣り合い
を求めた時代であった。音楽においてこの時代は、フーガや、巨大で複雑な
バロック形式を好まず、良いメロディーの音楽、単音的音楽、人々を楽しませ、
知性にあまり大きな負担をかけない音楽を要求した。
 ヨゼフ・ハイドンはこの時代を代表する作曲家であり、最も尊敬され、
民衆の好みに最も近かった。彼は典型的な古典主義作曲家であり、1732年から
1809年に至る長い人生の間に、新しい音楽思想と共に成長し、いかなる
人にもまして新しい音楽思想を形成した。彼は彼なりに代表的な啓蒙時代の
人物であり、宗教的で大胆で知的で冒険的であったとはいえ、いずれも度を
過ごさず、(遥かに抑圧が強く危険で反逆的であった人物の)モーツァルトに比べ、
それほど革命的ではなかった。ハイドンに関しては、万事が知的にも情緒的にも
釣り合いを保っていたのである。
 体格的には、彼は魅力的ではなかった。背が低くて色が黒く、顔には天然痘の
跡があり、足は胴に比べて短すぎた。鼻には鼻茸があって全体の形を歪め、
彼はこれを気にしていたようであった。有名人ハイドン先生は、自分の肖像画を
描いてほしいと依頼したことがなかった。しかし彼は、付き合えば大変良い人
だったに違いない。並はずれて優しく、親切な人柄で、どんな時にもほとんど
敵を作ったことはなかった。癇癪を起こさず、勤勉で寛大で大いにユーモアに
富み、恋愛問題は紳士として処理し、目を悪くしたのと、リューマチを除いては、
死の直前まで健康に恵まれていた。
 教育程度はさほどではなかった形跡があるし、あまり本を読まなかったが、
良識をそなえた実際的な人物であった。彼は率直で正直であった。モーツァルトの
名前が話題にのぼったとき「私の才能について友人たちがお世辞をいうが、
彼(モーツァルト)の方が私より遥かに上だ」とハイドンは語った。
 彼はおしゃれを好んだ。ボヘミアの音楽家ヨハン・ウェンツェル・トマシェックは、
晩年のハイドンが客を迎えたときの模様を記している。
――「ハイドンは派手に着かざって、肘掛け椅子に座っていた。横髪のついた
カツラには粉おしろいを振りかけ、金の留め金のついた白い首バンドを着用し、
厚い絹で作った白地のチョッキは、細かな刺繍をほどこしてあり、チョッキの
真ん中には襞飾りが光っていた。上衣は茶色で、刺繍付きカフスが目立った。
黒い絹製半ズボンと白い絹製タイツをはき、靴には大きな銀の留め金が足の甲の
ところまで続いていた。彼のそばの小さなテーブルには、白い仔羊の手袋が
置いてあった」




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