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グルック(7)
グッキー (40)投稿日:2003年03月07日 (金) 13時29分 返信ボタン

 カルツァビージとグルックの第三の合作は、1770年の『パリスとヘレナ』
であった。そのあとグルックは、彼のオペラ作品に大きな好奇心を寄せていた
パリに注意を向けた。フランソワ・ジュ・ルーレ台本による『アウリスのイフィゲニア』は
1774年、パリのオペラ座で上演された。グルックはパリでマリー・アントワネットから
少なからぬ援助を受けた。彼女はウィーンで彼が歌唱指導をしていた時の教え子の一人であり、
彼は彼女の名前を平気で持ち出した。ある時彼は『イフィゲニア』のリハーサルに満足せず、
大声で叫んだ。――「私は王妃のところに行って、私のオペラの上演は不可能だと
申し上げる。それから馬車に乗って、真っ直ぐウィーンに帰ってしまうだろう」。
常にそうであるように、グルックのやり方が通った。『イフィゲニア』の数ヵ月後には、
カストラートの代わりにテノールが出る『オルフェオ』のフランス語版が上演された
(今日、一般に聴かれるのは、男声アルトの代わりにメゾ・ソプラノかアルトの出る
最初のイタリア語版である)。またグルックは『アルチェステ』のフランス語版も作った。
 グルックのパリ時代は、ニコロ・ピッチーニ(1728〜1800)との競争があって
活況を呈した。ピッチーニは熟練のイタリア作曲家で、1776年パリに来たが、
グルックの古典的厳しさよりは、伝統的オペラの方がよいと思う音楽ファンを
すぐさま引きつけた。大論戦が展開され、パリは1750年代初期の“ブフォン論争”の
際と同じくらい、今回の論戦を面白がった。前回の論戦もオペラと関係があった。
ジャン=バチスト・リュリ(1632〜1687)の古いフランス・オペラが
フランス・オペラの取るべき唯一の論理的な針路である、と一派が主張すれば、
他の派は、救済法はただ一つであり、イタリア・オペラによる道である、と同様に
熱烈に主張した。
 ルソーは後者の立場を支持し、フランス語は音楽的でなく、従ってフランス・オペラは
どうしても愚劣なものになる、と述べた。グルック=ピッチーニ論争に関しても、
パリっ子は同じ真剣さで取り組んだ。当時報じられたところによれば、初対面の二人が
開口一番「ところで、貴殿はグルック派なりや、それともピッチーニ派なりや」と
言う習わしだったという。折からアメリカ合衆国の弁務官としてパリにいたベンジャミン・
フランクリンは、両派の争いを面白がって聞いていた。
 フランクリンは次のように書いている。
 「両派は片やクーザン(蚊)、片やモシェット(小銃)という二人の外人音楽家の
優秀さについて激しく言い争っていた。彼らはまるで、これから先1ヶ月生きることを
確信するかのように、時間の短いことには無関心で、この論争に没頭していた。
“幸せな人々だ!諸君らはたしかに、賢明で正当で穏やかな政府のもとに暮らしている。
諸君らは訴えるべき苦情もなく、外国音楽の完全さと不完全さ以外には論争する問題もない”
と私は考えた」





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