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ヘンデル(6)
グッキー (25)投稿日:2003年02月12日 (水) 05時21分 返信ボタン

 もう一つの逸話は、偉大なバイオリニストで作曲家でもあったアルカンジェロ・
コレルリとのものである。ヘンデルの作品を演奏中のコレルリが、高音部で難渋
しているのに業を煮やしたヘンデルは、欧州最大のビルトゥオーソの手からバイオリンを
ひったくると、どう弾くべきかを実演してみせた。温厚で寛大な人柄のコレルリは、
少しも異議を唱えず「ねえ、ザクセンさん、この曲はフランス風でしょ。この手の
ものにボクは弱いんですよ」と言ったという。この逸話のポイントは、ヘンデルと
付き合ったすべての音楽家が、彼に敬意を払ったことにある。彼は誰とでも会い、
あらゆる勉強をし、イタリアの旋律の、太陽のような輝きに影響された。ドメニコの父、
アレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)は、特に大きな印象をヘンデルに与えた。
 1710年、ヘンデルはイタリアからハノーバーに戻り、選帝侯つきの宮廷音楽家
となった。同年末、休暇で英国へ渡ったが、そこではイタリア・オペラが音楽的催し物の
中で最大の流行となり、「カストラート」歌手が、その声の力と輝きとで人々を驚倒
させていた。ヘンデルはここで英国民の求めに応じ、オペラ『リナルド』を作曲した。
1711年作曲のこのオペラは、大成功を収めた。彼はハノーバーに帰ったが、眠気を
誘うようなちっぽけな宮廷があるだけで、活躍の場も小さいハノーバーと、富と名声を
得る機会の多い大都市ロンドンとを比べて見れば、彼がどんなことを考え始めていたかは
容易に推察できよう。翌1712年、ヘンデルは「適当な時期に戻る」との条件つきで、
再度英国に渡る許可を得た。しかし、実際には「適当な時期」は生涯到来しなかった。
 再度のロンドン入りを果たすとすぐ、ヘンデルはオペラ『忠実な羊飼い』を作曲、
その直後に、ユトレヒトの戦勝を記念する、雄大な公式行事用の作品『ユトレヒトの
テ・デウム』を作った。彼はまた、アン女王の誕生日を祝う曲を作り、200ポンドの
年金を下賜された。それから2年、ヘンデルは無断で、ハノーバーの宮廷へは全然
帰らなかった。彼に帰る気があったのかどうか、それはわからない。しかし1714年に
アン女王が逝去すると、事態は彼のままにはならなくなった。雇用主のハノーバー選帝侯が
ジョージ1世として、英国王の座に就いたからである。ヘンデルはその頃、自分の身に
何が起こるかと、さぞ不安な日々を過ごしたに違いない。
 しかし、何事も起きはしなかった。日ならずしてヘンデルは、ジョージ1世の寵愛を
取り戻し、年金も倍増した。ヘンデルは『水上の音楽』によって国王の信頼を回復した、
との面白い説があったが、今日では疑問視されている。この説では、ジョージ1世は
1717年、テームズ川で船遊びを楽しみ、その際演奏された『水上の音楽』を褒め讃え、
その場でヘンデルと仲直りした、となっている。船遊びは事実であり、また船中で
ヘンデルの組曲が演奏されたことも記録に残っている。1717年7月19日の「デイリー・
クーラント」紙は「国王はこの曲が大いにお気に召され、行き帰り併せて3回以上も
演奏を命ぜられた」と書いている。だが、この結構な伝説にとっては不幸なことに、
両者は1717年以前にすでに和解を遂げていた、と思われる。




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