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ヘンデル(5)
グッキー (24)投稿日:2003年02月10日 (月) 22時16分 返信ボタン

 ヘンデルはバッハが生まれたのと同じ年、1685年の2月23日に、ハレ(中部ドイツ)で
生まれた。少年時代のことはほとんど知られていないが、幼時からオルガンをよく弾き、
10歳に満たぬうちにワイセンフェルス(ザクセン)のヨハン・アドルフ公爵の注目を
ひいたことはわかっている。ヘンデルは、ハレのルーテル派教会のオルガン奏者
フリードリッヒ・ツァッハウの許に送られ、オルガンを正式に学んだ。ツァッハウ以外の
教師についたことがあったかもしれないが、その名は知られていない。1702年までに
ヘンデルは、大聖堂のオルガニストに任ぜられた。が、彼は教会のオルガン奏者として
終わる人間ではなかった。早くから劇場にひかれ、1703年には欧州で最も有名かつ
活発なオペラの中心地の一つ、ハンブルクに出た。ここで彼は、若きドイツの作曲家
ヨハン・マッテゾン(1681〜1764)と親交を結び、また、作曲を本格的に始めた。
彼の生涯がほぼ終わりを告げたのも、このハンブルクにおいてだった。マッテゾンは
ヘンデル同様、強固な意志と粘り強さを兼ね備えた人物で、二人の青年はある論争をした。
 当時ハンブルクでは、マッテゾン作曲のオペラ『クレオパトラ』が上演中だった。
おまけにマッテゾンは、その中で主役の一つを自ら引き受けていたが、おそらくは
自らの多才をひけらかそうとしたのだろう、歌い終わるとオーケストラ・ピットに
降り、チェンバロの首席を弾いていたヘンデルに代わって演奏しようとした。が、
ヘンデルは押しのけられて黙っているような男ではなかった。口論ののち頭にきた
二人は外へ出て、剣を抜き合った。マッテゾンの突きはヘンデルの上着の金属ボタンに
当たり、剣は折れた。ほんの1センチでもホコ先がズレていたら・・・・・。それはともかく、
この事件を機に二人は仲直りし、1707年に作曲したヘンデルのオペラ**
『アルミーラ』では、マッテゾンがテノールの主役を演じた。
 同じ年、ヘンデルはローマへ出かけた。同地には三年滞在し「イル・サッソーネ」(ザクセン人)
と呼ばれ、例によって大きな印象を残した。イタリア滞在中のヘンデルについては、
ごく僅かしか知られていないが、逸話の類はいくつかある。言い伝えによると、
ヘンデルは、彼とちょうど同年生まれの作曲家で、鍵盤楽器用のソナタや練習曲を
数多く生んだことで知られるドメニコ・スカルラッティ――彼はこれら珠玉の小品を
550曲以上も書いた――と、チェンバロおよびオルガンの引き比べをした。会場は
オットボーニ枢機卿邸で、チェンバロは引き分け、オルガンではヘンデルの圧勝
だったという。
 メインウェアリングは「スカルラッティは相手の勝利を自ら宣言するとともに
“ヘンデルの演奏を聴くまではオルガンという楽器にこれほどの迫力があるとは
知らなかった”と率直に告白した」と書いている。二人の名演奏家が同じ曲を
演奏して、疲れ果てるまで技を競い合うことがなくなって、音楽界は何物かを
失った。プロイセン大王の前で行われたモーツァルトとクレメンティの競演は
引き分けに終わり、ベートーヴェンはアベ・ゲリネクをはじめとする挑戦者を
すべて斥けた。リストとタールベルクも、パリのベルジオジョーゾ王女のサロンで
腕比べをしている。




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