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ヘンデル(3) |
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グッキー
(22)投稿日:2003年02月08日 (土) 01時25分
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後世に残った少数のヘンデルの書簡は、いずれも公用または他人行儀のもので、 個人生活には全く触れていない。作曲家として、また興行家として、あるいは演奏家、 多彩な時期の最も色どり豊かな人物の一人として、公衆の目にさらされる機会が 多かった彼にとって、これは決して偶然のことではない。それはあたかも、ヘンデルに 隠すべき秘密があったかのような印象を与える。彼は自らのプライバシーを守り、 公的生活と私生活を画然と区別していたのだ。 ヘンデルに関する情報の現在の主要な源は、ジョン・メインウェアリング師が 執筆した伝記である。出版はヘンデルの死の翌年の1760年で、一人の音楽家 について書かれた伝記としては最初のものである。このこと自体が、ヘンデルの 生存中の名声を証明している(バッハの伝記が初めて出版されたのは、死後52年を 経た1802年のことである)。だがメインウェアリングは、ヘンデルを直接知っていた わけではない。そこで多くの情報を、ヘンデルの秘書ヨハン・クリストフ・シュミット (英国名=ジャン・クリストファー・スミス)から引き出したが、そのため記述には 不正確な個所が多い。チャールズ・バーニー著『音楽史概観』(1776〜1789) にもヘンデルの生活のスケッチや、各種の情報が多量に盛り込まれている。バーニーは 少なくともヘンデルの知人であり、ヘンデルの肉体的特徴に関する描写には 信用がおける。 彼によれば、ヘンデルは大男で太っており(英国の別の音楽評論家サー・ジョン・ホーキンス は「ヘンデルの太い足は湾曲していた」と書いている)、動作が鈍く「全体的印象は いくぶん鈍重かつ不機嫌で、たまに微笑でも浮かべると、黒雲の間から太陽が姿を 見せるといった感じだった・・・・・。彼は立ち居振る舞い、会話の両面で衝動的、 乱暴かつ横柄だったが、意地悪や悪意とは全く無縁だった」という。これは公正な 評価だと思われる。偉大な作曲家ヘンデルは時に激情を爆発させたかもしれないが、 内に悪意を秘めていたはずはなく、人々との応待にも変わらぬ誠意をこめていた。 バーニーによると、ヘンデルには「天性のウイットとユーモア」があり、英語に なまりはあったものの、話上手だった。「もしも彼がスウィフトのような英文の 名手だったら、スウィフトに劣らぬほど多くの名文句を後世に残していただろう」と、 バーニーは書いている。ハンブルク時代のヘンデルと極めて親しかった当時一流の 作曲家ヨハン・マッテゾンも、ヘンデルのユーモアの天分を認めている。ヘンデルは ある時「五つまで勘定できないかのようなふりをしてみせた・・・・・。真面目くさった 人々の腹を抱えさせて、自分はクスリともしないのが彼の特徴だった」と。 ヘンデルはこの平衡感覚を晩年まで保ち、自身の肉体的苦痛までも冗談のタネに した。彼は1752年(67歳)に視力を失い、その後も作曲とオルガン演奏を続けたが、 ある時、かかりつけの医師サミュエル・シャープが「ジョン・スタンレーをあなたの コンサートの一員に加えてみたら・・・・・」と提案した。スタンレーは盲目の有名な オルガン奏者だった。ヘンデルはそれを聞くと高笑いして「シャープ先生、あなたは 聖書を読んだことがないんですか?“盲人、盲人の手を引かば、二人はともに穴に落ちん” と書いてあるじゃないですか」と答えたという。
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