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バッハ(18)
グッキー (19)投稿日:2003年02月04日 (火) 12時24分 返信ボタン

 これら四人のバッハの息子(うち二人はヨーロッパ全土で有名だった)は、
老バッハの記憶を新鮮に保つことを助けた。バッハの死後の評価のことを論じる時、
いくつかの事柄を銘記しなければならない。公開演奏会という制度は生まれたばかり
であった。自分の作品を発表したいと願う作曲家は、使える会場ならどんな所でも
使って――貴族のサロンであろうと、舞踏場や歌劇場であろうと、その他何でも
(本格的なコンサート・ホールなどほとんどなかったのだから)――自分自身の
努力で演奏会を開くのが普通であった。他人の作品を演奏するコンサート・アーチスト
という概念は、もっとあとになって生まれたのである。ロマン派時代までの音楽は
多分に現代(その時代の)芸術であり、過去の作品ではなく当時作曲された作品に
関心が集中していた。過去の音楽は顧みられなかった。とにかく、過去の音楽を
聴いたり研究したりすることは、極めて困難であった。楽譜はみつからないし、
演奏様式も存在しないと同然であった。
 それでもバッハの音楽の力は偉大であり、多くの職業音楽家には知られていた。
バッハの音楽が慣例を破って、ライプチヒの演奏曲目に残っているという事態まで
起こった。バッハの弟子で、彼の後継者として1756年から1789年まで、
聖トマス教会のカントルであったヨハン・フリードリッヒ・ドーレスは、礼拝の際、
引き続きバッハの音楽を演奏した。ドーレスはまた、モーツァルトにバッハの
楽譜を見せ、モーツァルトは夢中になった。彼は楽譜を研究し、編曲をやり、
バッハの対位法に大きく影響された。
 ウィーンのゴットフリート・ファン・スウィーテン男爵は“バッハ教”とでもいうべきもの
のリーダーであった。彼はモーツァルトとハイドンにバッハの楽譜を見せ、音楽会を
催してバッハの作品を演奏した。ハイドンは『平均律クラビーア曲集』と『ロ短調ミサ曲』
を熟知しており、楽譜を持っていた。ベートーヴェンは『平均律クラビーア曲集』で
育てられた。英国のオルガン奏者兼作曲家のサミュエル・ウェズリー(1766〜1837)は、
メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を再上演するずっと以前に、バッハを研究し、
演奏し、バッハの普及に努力していた。そしてウェズリーをバッハに紹介したのは、
献身的なアマチュアとプロの混成グループであった。
 作曲家兼ピアニストのヨハン・バプティスト・クラマー(1771〜1858)は、
1800年以前にバッハ作品を公開演奏しており、彼に続いてアレキダンダー・ベーリ、
ヨゼフ・リパフスキ、ジョン・フィールドらのピアニストがバッハに傾倒した。
18世紀後期および19世紀初期のヨーロッパの音楽雑誌や音楽書に目を通す労を
いとわない者は、「名高いバッハ」に関して述べてある個所が無数にあることを
知ることができる。多くの音楽史家は、バッハが死後忘れ去られ、メンデルスゾーンが
1829年に『マタイ受難曲』を再上演して初めて、再発見されたと述べているが、
これは作り話である。バッハは、少しも忘れられていなかったのである。彼は
実に大きな影を残していた。おそらくヘンデルや、現代では忘れられた人気オペラの
作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699〜1783)ほどではなかったかも
しれないが、それでも大きかった。彼が「完全に無視されていた」という作り話は、
このへんで終わりにするべきである。
 バッハの息子たちを最後に、この音楽上の偉大な流れは枯渇した。ヨハン・セバスチャンの
直系の男子子孫の最後は、ウィルヘルム・フリードリッヒ・エルンスト(1759〜1845)
であり、彼は「ビュッケブルクのバッハ」によるバッハの孫である。バッハの血族は
今も健在である。マイニンゲン、オールドルーフ分家のバッハたちは今日でも存在し、
1937年になって「チューリンゲン・バッハ家族協会」を設立した。だが、
20世紀のバッハ家で職業音楽家は一人もいない。




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