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バッハ(17)
グッキー (18)投稿日:2003年02月03日 (月) 14時49分 返信ボタン

 バッハの死後、彼自身および少数の作品は忘れられなかったが、作品の大半は
処分された。彼が死後約75年間無視されたということがバッハ伝記家の信仰の
ようになっているが、これは全く事実に反する。一つには息子たちが、父に対して
愛憎相半ばする感情をもちながらも(父の第二の妻に対してもそうであった。
彼らはアンナ・マグダレーナを餓死寸前に追いやり、死後は貧民墓地に埋めた)、
父の音楽の普及に努力したからである。ヨハン・クリスチャンは父を「旧弊人」
と呼んだかもしれないが、バッハの音楽を当時の多くの演奏家に紹介したのは
彼であった。カール・フィリップ・エマヌエルは、バッハ作品の旧式な内容に
若干当惑したもようで『フーガの技法』の楽譜銅版を処分してしまったが、それでも
最初のバッハ伝(1802年)を書いたヨハン・ニコラウス・フォルケルに
貴重な資料を提供した。
 バッハの息子たちは皆、父の名前と名声を広めた。彼らは皆、予期された
ように、音楽の道を進んだ。「全部、生まれながらの音楽家だ」と父は誇らしげ
に息子のことを語った。数人は若死にし、一人は精神薄弱だったが、四人は
立派な経歴を歩んだ。
 ウィルヘルム・フリーデマン(1710〜1784)はハレへ行き、次に
放浪生活を始め、最後にベルリンに落ち着いた。彼は変わり者で世間に適応せず、
大酒飲みだったといわれる。彼は非常な天分を持ち、父親の誇りだったが、目的を
果たさずに死んだ。カール・フィリップ・エマヌエル(1714〜1788)は28年間、
フリードリッヒ大王の宮廷につとめ、父を上回る大きな名声を獲得した。クラビーア
奏者、作曲家、教師で、1768年にハンブルクでテレマンのあとを継いで教会
音楽監督となった。作曲家としてのカール・エマヌエルは、当時ヨーロッパを
席巻していた新スタイルを代表していた。これは対位法によらない上品なスチール・
ギャランで、マンハイム派作曲家が創始し、ハイドン、モーツァルトへの道を開いた。
おかしな話だが、彼は左ききのためバイオリンが弾けなかった。
 「ビュッケブルクのバッハ」として知られるヨハン・クリストフ・バッハ(1732〜1795)は、
18歳の時から死ぬまで同市でつとめ、父の伝統を引き継いだ。最期の一人は
「ロンドンのバッハ」こと、ヨハン・クリスチャン(1735〜1782)で、一家のうち
数少ない旅行家の彼はイタリアに行って、自らジョヴァンニ・バッハを名乗り、
カトリック教に改宗した。彼の父はこれを好まなかったと思われる。ついで
1762年に英国に行き、同地でジョン・バッハとして知られた。社会的にも
芸術的にも大成功し、オペラの作曲、ピアノのリサイタル、オーケストラの指揮、
音楽教授、など何でも手がけ、少年モーツァルトがロンドンを訪れた時は良き
助言者となり、ついには破産して多くの借財を残して死んだ。彼もまた、スチール・
ギャランを代表していた。




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