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エジプトの夕べ |
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From:ムタ
「エジプトの夕べ」の歌詞の一部をキーワードとして検索していたら、次のような本がヒットしました。 進藤正光著「赤道圏周遊記」文芸社(1999/06) 今から13年前に出版された旅行記です。帯に、「八十路を超え、旅好きドクター 地球を巡る!!」 と書いてありました。エジプトのスフィンクス像の前での随想の一部を引用します。 --- 小学5年生の時に担任の先生が教えてくれた 、 「サハラの果てに日が落ちて 空の夕映え移ろへば・・・」 という哀愁を帯びた唱歌・・・若くして亡くなられた先生の面影と一緒にふとその頃を思い出した。 ・・・ まるで砂漠の夕焼けの中に自分もとっぷり浸っているような叙情的なこの歌詞がどこでどうして生まれたかは確かめる術(すべ)もなく、いまだにわからない。 ・・・ あれから絶えて久しく耳にしたこともないが、この懐かしい歌詞と曲が、70年後の今もなお、折にふれ、どここかで誰かに歌い継がれているだろうか? ---
2012年05月25日 (金) 11時12分
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埃及の夕 |
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From:ふろあ
エジプトの夕べ。当方は藤山一郎の『埃及の夕』しか知らなかったのですが、御投稿でいろいろ勉強になりました。
高橋精二編『歌おう大正時代』(平成11年)によると、この唄は大正5〜6年頃作られ、同10年以降にさかんに唄われたとあります。ニットーレコードの書生節で吹き込まれたのが、「さかんに唄われた」時期に相当するのかなと思います。 大正12年の童謡『月の沙漠』が今でも歌い継がれているのに対し、『埃及の夕』は殆ど忘れ去られているようです。 高橋精二氏は、『ナイルの岸』という曲も紹介されていて、『埃及の夕』と『ナイルの岸』は、大正3年頃にイタリアから輸入されて浅草の映画館の電気館で上映された「アントニーとクレオパトラ」の映画に寄せて作詞・作曲されたのではないか、と推測されています。『埃及の夕』の歌詞で「彼方此方の森陰に 土人の哀歌微かにて」など、唄だけ聞いただけでは意味がわからないところがあります。
2012年05月26日 (土) 06時55分
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『歌おう大正時代』 |
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From:ムタ
ふろあ様 コメントどうもありがとうございます。実は3月下旬に、高橋整二編『歌おう大正時代』(昭和63年発行版、および平成11年発行の改訂版)に「埃及の夕」が掲載されていて、その本が各県の主要図書館にあることをネットで知りました。それで、福岡県立図書館から2冊の本を借りてきましたが、その改訂版の方を見て驚きました。その本は平成17年4月に札幌市の高橋整二氏御本人(大正4年2月生れ、当時満90歳)から図書館に寄贈されたものでしたが、「埃及の夕」のページに新たな解説や楽譜・歌詞のコピーが貼り付けられていました。新たな解説には、『十三年目の奇跡、「埃及の夕」見つかる。』という見出しのもと、平成12年11月、ある方から藤山一郎の「埃及の夕」のレコードレーベルのコピーとカセットテープが送られてきたときの感激が書いてありました。本に印刷されている「埃及の夕」の楽譜や歌詞は、高橋氏が小学生のとき9歳年上の長姉が愛唱していたのを思い出しながら採譜し歌詞を記載したとのことでした。歌詞と曲について、思い出で書いたものは間違いがあり、藤山一郎の歌の方が『正真正銘の「埃及の夕」』だと思われたようです。
「埃及の夕」の原作については[1520]と[1525]にも書きましたが、原作の雑誌への掲載は大正10年7月号で、その紹介文に「作者は鈴木雄雄(ゆうゆう、ゆうすけ?)氏。(世に出て間もないのに)早くも替え歌が流行しているので、読者の希望により特に原作を紹介する。」とあります。したがって、世に出て「早くも」流行している、といういうことから、大正9年頃から歌われ始めたのではないかと私は推測しています。雑誌の原文(紹介文、歌詞、楽譜)については、YouTube の「エジプトの夕べ(歌 Sinsy)原作 鈴木雄雄」にのせています。
「ナイルの岸」の解説については、根拠となる文献が分かりませんが、そういうことかも知れないと思っています。
できれば高橋様に、藤山一郎よりも前、大正末に演歌師による「書生節 埃及の夕」の吹き込みがあり、そのメロディーはお姉さまが愛唱していた曲に近いこと、そして、原作の作詞・作曲者名が分かったことをお伝えしたいと思いました。 それで、本に記載されている番号にお電話をしましたが、その番号はもう使われていませんでした。また、高橋整二様・ご家族様宛に手紙を出しましたが、残念ながら戻ってきました。
2012年05月26日 (土) 20時29分
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From:ふろあ
先の当方の投稿で「高橋精二氏」と書きましたが「高橋整二氏」の誤りでした。訂正致します。 当方も平成11年発行の改訂版を持っており、同じように『埃及の夕』の頁に添付の「新たな解説や楽譜・歌詞のコピー」を読みました。今日地元の図書館に行った処、平成14年の改訂版を寄贈しておられ、新たな解説や楽譜・歌詞部分も内容に盛り込み装丁し直した本になっておりました。編著者の完璧なものを「世に残したい」という執念というか意思が強く感じられた次第です。
(今さらながらですが)ここで時系列を整理させていただくと、鈴木雄雄氏の「原作」の歌謡を端緒に、大正10年頃には『埃及の夕』は歌詞を変えて早くも流行していた→大正末年ごろにはニットーの書生節でレコード化されていた、→昭和10年に日本ビクターが藤山一郎版でリメイク企画し発売された−ということになるのかと思いますが、今まで歌謡の原作者の存在がまったくわからなくなっていて、今回ムタ様の調査により初めて判明したということですね。 藤山一郎版ではレーベルに作詞:渋谷白涙、作曲:高木青葉で両方とも演歌師と記載されています(ちなみに渋谷白涙は、上原敏の『男ならりゃこそ』など流行歌も手がけています)。大正時代に『埃及の夕』の書生節を歌っていた側の人々ということになりますね。それにしても、ビクターが再レコード化する際、鈴木雄雄氏についてわからなかったのものでしょうか。
大正時代は「オリエントレコード」(東洋蓄音器、のちに日蓄に吸収)という駱駝印のレーベルもある位、当時公開の洋画の影響からか?、オリエンタルな砂漠の隊商の侘しいさすらいのロマンというイメージがある程度大衆に浸透していたのでしょうか。砂漠の隊商ものというジャンルがあるとすれば、松平晃の『沙漠の旅』とか藤山一郎の『三日月娘』などの曲が入りそうです。その哀愁味は、管理人のT&T様が書かれている『流浪の旅』のような「さすらい歌謡」のジャンルに一脈通じるものがあります。
2012年05月27日 (日) 14時24分
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訂正 |
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From:ふろあ
「藤山一郎版ではレーベルに作詞:渋谷白涙、作曲:高木青葉(両方とも演歌師)と記載されています」
文中の件で、上記の記述に改めます。
2012年05月27日 (日) 14時30分
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From:ムタ
私が原作者について調べたというわけではありません。しつこく Google 検索を繰り返していたら,不意に次のようなデータがヒットしました。
曲名: 埃及の夕 読み: エジプトノユウベ 作曲: 鈴木雄雄 作詞: 鈴木雄雄 歌い出し: サワラの果てに日は落ちて 歌い出し(階名): ミミファラ・シシシミ・ドドドシ・ラ 資料表題: 音楽新楽譜 第237号(大正10年7月号) 出版者: 音楽社(発行) 出版年: 1921(T10).
2年前に発表された文献で,大阪音楽大学音楽博物館所蔵資料の内,大正期の歌の資料約2800曲について上の項目のようなデータを一覧表にしたものの一部でした。明治期の歌 3900曲余についてもネット上に公開されています。このような表の作成をされている方々のお仕事に敬意を表したいと思います。
2012年05月27日 (日) 21時59分
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From:ふろあ
語弊がある表現で記してしまい、どうもすいませんでした。大阪音楽大学所蔵の文献資料というのは前にご説明されていましたのでそれは分かっていました(ネット掲示板に自分の考えを率直に述べるというのは難しいなと痛感しています)。
なお、私は実物資料最優先で、次に信頼のおける文献資料、ネット検索は情報が玉石混交なので参考程度という考え方だったのですが、ネット検索による資料の利活用というのももう少し重視する必要があるなと思いました。
2012年05月28日 (月) 04時37分
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From:ムタ
ふろあ様 ご心配 おかけしてすみません。最初から詳しく述べると文が長くなりすぎるので,機会があればその時に話しをさせてもらおうと日頃から思っています。それで ふろあ様の [1550]のご投稿にも,実は喜んで説明をさせていただきました。どうぞ率直なご意見をお願い致します。
ネットの世界はまだまだ不思議な世界で,知らないことが一杯あるような気がします。
2012年05月28日 (月) 08時48分
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