| No.152 3月30日の礼拝 |
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| NAME:Take() |
3月30日の礼拝は、ルカ9:28-36のみ言葉が与えられ、「栄光の意味」と題した説教を受けた。 先週に引き続いた聖書の個所、「誘惑に陥らないように…」という祈りをイエスはする。この「誘惑におちいる」と言う出来事、牧師は同じ事ならば、もう少し(楽に出来る)ほかの方法はないか?と考えることであると語られる。十字架で死なないでも罪からの開放はないのか?と神の必然以外の方法を模索することは、悪魔の誘惑であるから、神にその誘惑に陥らないように守ってほしいとの祈り。 そしてそれを山頂で祈ると、イエスが白く輝き、モーセとエリアが現れたと書かれている。そしてそれを見たペテロは、その栄光を保存したいと願うようになる。しかしその急な思いつきも考え終わらないように、答えはイエスに聞けと言い残し消えてしまう。 旧約に記された開放を求め、苦難を乗り越えてきた弟子たちにとっては、この栄光こそ、待ち望んだものだったのだろう。だからこそ、そのような思い付きを大声で語らせたのだと思う。 イエスの祈りとは、かけ離れた思い。神の望む救いとはかけ離れた思い。安直な事象への感動のみの意見。 弟子たちは理解できなかった。しかし、そんな弟子たちもイエスは自分のみ後を歩ませる。理解するという人間の業でなく、神の業で道を歩ませてくれる。理解できない彼らを見捨てはしない。 イエスと違い弟子たち自身は真っ白く神々しく輝かなかったかもしれない。しかし、月が太陽の輝きを浴びて輝くように、イエスという輝きによって、弟子たちはイエスの死後、輝きを持ち躍動感あふれる宣教をする。 決してきれいな表面ではない月。クレーターだらけで、本当にこの凸凹であの月夜になるの?と思われるような面。でも太陽の力は、その凸凹を隠して有り余る。 自分自身が栄光を受ける必要はない。ただ、神のみを信じて歩めば、イエスの栄光によって自分自身も輝く。
2003年03月31日 (月) 19時59分
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