| No.235 24日の説教から |
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8月24日、僕らが与えられた聖書の個所はルカによる福音書12:35−48でした。「主の来臨にそなえる」と題された説教を聞いて、いつものように思ったことを…。 「キリスト教はご利益宗教ではない」と僕らクリスチャンはよく言う。 祈ったから、信仰深いからその祈りが聞き入れられやすいものではない。神様のみ心のままに僕らは生かされているだけだ。そういう意味だろう。 だから信仰者だが無心論者に近い位置にいるのではないか…。牧師はそう口火を切った。ショックな言葉、一瞬拒否反応を示しながら、かみ締めるたびになんとなく理解をしていく。 マタイより後に記載されたルカ福音書。インマニエル(主共にいる)事を強調するマタイに比べて、ルカは(再臨の)待ちの姿勢だ。おすがりする神は今はいない留守の間。 しかし確かなことは、誰もが生涯の終わりが必ずくること。その審判(主人の帰宅時)まで僕ら(しもべ)は留守を守らなくてはいけない。 不完全な人間(僕らは)、留守を充分に守れないかもしれない。しかし、大切なのは留守を守れないのはあたりまえだという考えや留守の間主人の目がないからやりたい放題という考えから脱出することだ。 いつ主人が帰ってくるか(この世の生涯を終えて神の御前に行くのか)は主人のみ知っている。そのときに主人に顔向けができない、などということがないように生きていきたい。
2003年08月30日 (土) 22時00分
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