| No.247 9月28日の説教を聞いて |
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| NAME:Take() |
「髪結いの亭主」と表される男がいる。働きもせず、奥さんの働きで喰い、パチンコ三昧の毎日。奥さんが疲労で倒れると青い顔をして「おまえ無しじゃあ生きていけない」と甲斐甲斐しくコンビニで弁当を買って来てはチンしてあげる。さりとて元気になれば、また働く事もなくパチンコ屋に入り浸り、「今度儲かったら海外旅行に連れて行ってやるから」と夢物語を奥さんに言う。 一方隣のご主人はいたって生真面目に、寝ている奥さんを起こさないように勝手に起き、トーストと牛乳を流し込み満員電車に揺られて仕事場に行く。たまにの休日は、奥さんは友達の買い物。一人残って日曜大工と庭の手入れ。ローンで買った家だから大事に使いたい。 でも残業帰り自宅に帰り既に寝ている奥さんを見て、寝顔しか見ていない関係、夫婦の幸せについて考えるとため息が出てしまう。 2組の夫婦は、いや4人は幸せか?と問われれば、それは当事者しかわからないが、多分幸せなんだろうな。…というのがこの日の説教(聖書の箇所はルカによる福音書15章11節から32節、説教題は「新しい人間」)を聞きながら思ったこと。 2人の兄弟。気になるのは僕は兄の方だ。「頑張ってしまう」ことに対して「楽しんで」いないことが問題だと、牧師は語る。「感謝」していないことが問題なのだろう。神が伴なってくれていることという一番重要なことが、空気のようなあたりまえな事と感じてしまった時に、それよりレベルの低い事に一喜一憂してしまう。ヨブ記を髣髴させる内容。 夢を見ながら自堕落な生活をしながらも、奥さん(神様との関係)が通常と違った時に思い起こして慌てふためく男。いつもと全く変わらないドラマチックがないことに若干の不満を抱えながらもそれを破って破天荒な事が出来ない男。 いずれの男も自分のできる生活をしているに過ぎない。そしていずれも神様が伴ってくれている事に変わりはない。安心して満足な毎日を過ごしたい。
2003年09月29日 (月) 12時53分
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