| No.296 12月14日の説教から |
|
| NAME:Take() |
クリスマスに向け、教会のろうそくは、毎週一本づつ灯っていきます。アドベント第3週の12月14日の礼拝で僕たちにあたえられた神様のみ言葉は、マラキ書3:19−24でした。 古代、戦争は一種の神さまの代理戦争だったとおもいます。ですから、祈り、そして、預言者を通じて神の言葉を聞き、勇気づけられ、奮い立ち、戦ったと思われます。そのような個所は聖書の中にもたくさん載っています。 しかし、ユダヤ教としての信仰から、新しい神様のみ言葉、すなわちイエスを通しての信仰理解は、180度変わります。 神様がついていながら負けてしまうのです。神様は相手より弱かったのです。
今回のイラクでの戦争も、アメリカでさえ、「憎しみの連鎖」は愚かしいことと知りながら、神がついている自分たちは勝つ、といい放ち続けています。神がやられることはない、あってはならない、勝利こそ真理、と信じて揺るぎえません。 しかし、イエスはそれを身をもって覆します。十字架の死を選ぶのです。
僕らが信じている神は、絶対神です。全てを統治しているのです。この世は、神様の作ったストーリなのです。 しかし、神は自分の分身であるイエスを最悪の死に方である十字架刑にするわけです。
牧師は、この説教の中で、神は、絶対神であるが暴君ではない。力は比べられないほど持っているが、それを自分のために使わない。 神は弱さとして真中にいる。 とメッセージされました。 このクリスマスも、きっと世界のアチコチで、力自慢をするでしょう。しかし、それは神の考えではない。これを機に猛省し、弱さを誇りたい。イエスのように…。
|