| No.373 2月29日の礼拝から |
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この日、僕たちに与えられたみ言葉は、マタイによる福音書4:1−11。荒れ野の誘惑、として有名な個所だ。 イエスは40日間の断食をし、本能的に「飢えた」状態になっていた。そこに、サタンがやってきた。 このサタンという言葉は、黒くてしっぽのはえた生物(?)を思い浮かべ非科学的で受け入れにくい言葉だと思う。分かりやすい言葉、若しくは人間側からみた言葉でいえば、人間が陥りやすい誘惑、とでも訳せるだろう。 ここでイエスが受けた誘惑は3つだ。 一つは空腹のイエスに向かって、パンをあげようという誘惑。実は、これは食品のパンだけではない、と牧師は言う。虚無な人生、食べるだけ、自分の命を満足させるだけの人生ではないだろう?神の言葉=イエスの歩んだ道も大切だろう?というメッセージだ。人生とは何か、を考えることを再考させたことだ。 2つ目の誘惑は、エルサレムの塔の上から飛び降りても神の子なら大丈夫だろう、という「神となる誘惑」「権力者としての証としてのしるしを見せつける」誘惑だ。 そして3つ目は世界の国々をあげよう、という誘惑。天下支配の誘惑。 神と自分を対等化するのは、そして天下支配は、人間の持っている最大の欲望かもしれない。様々な宗教家、国家トップ、などがその時代時代で2つの権力を取ろうと策略し、行動していたし、今もしている。 それに背を向けることが如何に難しいかは、イエスの生涯とその最期の十字架の死を見れば分かる。 その難しさを再度語ろう。サタンは、外からサタンと分かるようなおろかなことはしない。それはスパイなどもそうだが、わからないように忍び込むもののプロだからだ。だから、少しでも気を抜くと、権力とか繁栄(財力)を求めてしまう。
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