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3.明治憲法制定の意義と瑕疵
(1)「明治憲法制定の最大の理由」 “欧化政策を徹底的に推進し、国力を高めなければ、日本の生きる道はない。 明治の元勲たちが、みずから欧米を視察し、西洋文明の力を見て分ったのは、 このような現実であった。”
“新政府が明治18年に内閣制度を作り、また、その4年後に明治憲法を発布 した最大の理由は政府にとって最大の懸案であった不平等条約の解消で ある。"
(2)「不平等条約解消への必死の努力」 “安政5年(1858年)幕府はアメリカをはじめとする西洋5カ国と通商条約 を結んで正式な国交を持つようになったのだが、ここで日本は決定的に不利な 条項を二つ押しつけられることになった。”
“その一つは関税自主権の問題である。もう一つが治外法権の制度である。”
“これを解消するためにどれだけ維新の元勲たちが必死であったかを、 まずわれわれはおもうべきではないだろうか”
−続く−
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| (108)投稿日:2003年10月08日 (水) 16時11分
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(3)「なぜプロイセン憲法が手本になったか」
“治外法権を撤廃し、一人前の国家になる−明治憲法もそうした危機意識から 生み出されたものであった。日本が諸外国から近代的な法治国家と見なされる ためには、やはり法体系の根幹となるべき憲法を制定しなければいけない。”
“議会制民主主義の最先進国はイギリスである。しかし、イギリスの憲法は 長年の慣習を積み上げた「不文法」であり、一巻の「憲法」とはなっていない。 また、アメリカやフランスは成文法の憲法ではあるが、共和制ということで、 天皇を戴く日本には合わない。”
“ドイツ帝国は1871年に統一を果したばかりの新興国家ではあるが、 鉄血宰相と呼ばれたビスマルクが辣腕を揮って、非常に国力が伸びていた。”
ドイツの憲法学者グナイストが言うには“ドイツ帝国はさまざまな国家を 統一して生まれた連合国家である。単一民族の国家である日本には参考にならないところもあるだろう。 それよりもドイツ帝国の中心となったプロイセン王国の憲法の方が貴国の国情に適している。”
ということで「プロイセン王国」の憲法が手本となっとのことですが、 ここに大きな瑕疵があったようです。
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| (109)投稿日 : 2003年10月09日 (木) 16時59分
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(4)「明治憲法には『首相』も『内閣』もなかった。」
“プロイセン憲法では「国王は軍隊を統帥する」と規定しているが、 これがそのまま明治憲法第十一条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という 条項になっている。”
明治憲法には「首相」という言葉も「総理大臣」「内閣」という文字は 無い。しかし、実際には内閣も首相も存在したが、これは憲法に規定 されたものではない。
これが“昭和に入って、軍部がこの明治憲法の「欠陥」に気付き、 政府を無視して暴走しはじめたのであった。”
“憲法に首相も内閣もなく、従って軍のことに政府が口出しできない ことが分ったとき、『昭和の悲劇』が始まった。”
(5)「致命傷は『不滅の大典』」
“明治憲法は、いわば突貫工事のようにして作られたわけだが、 それでも昭和になって軍が統帥権のことを持ち出すまで問題が 起きなかったのは、元老たちがいたからである。
元老というのは、天皇の諮問を受ける維新の功臣たちのことで、 当初のメンバーは伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、 西郷従道、大山巌であった。”
“彼ら元老が健在であった間は憲法の欠陥が表面化することは なかったのである。”
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| (110)投稿日 : 2003年10月10日 (金) 16時37分
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6)「実質上の憲法だった『教育勅語』」
“明治憲法は文明国の体裁を整えるための借り物にすぎないといっても、 国家を運営するにあたって、その「体質」にあった基本理念はあったほうがいい” “そこで作られたのが、憲法発布の翌年(明治23年=1890年)に出された 教育勅語であったと思われる。” “教育勅語がまず説くのは、日本人の伝統的倫理観である。 つまり、「親を大事にせよ」とか「友人や配偶者と仲良くせよ」、 「身を慎んで学業に励め」、「人格を修養せよ」というようなことである。” “このような個人的徳目を並べたのちに、「これからは国家に忠誠を尽くせ」 ということを言いたかったのである。”
“明治の日本は明治憲法と教育勅語の「二重法制」の国であったと言うことも 出来る”
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| (111)投稿日 : 2003年10月13日 (月) 16時33分
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(7)「貞永以来の二重法制国家」
“古代の日本は「律令体制」と言う呼び名のとおり、律令を基本法として 国家統治が行われていたわけだが、この律令は当時のCHINAからの輸入 物であった。明治政府がプロイセンの憲法を日本に輸入したのと、まったく 同じ構図である”
しかし、この律令体制は形骸化して鎌倉幕府の執権・北条泰時が出した御成敗 式目(貞永式目)は日本人の体質に適ったから長く力を持った。 “式目は政権が変わるたびに呼び名は変わり、内容も改訂されたが、その力は 江戸時代が終わるまで続いた。” “このような経験があったから、憲法と勅語の両立体制はけっして初めてのことでは なかったのだ”“憲法上に規定のない首相や元老制を設置しても誰も文句を言わな かったのは、そうした感覚が日本人の中にあったからだと思われる。”
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| (112)投稿日 : 2003年10月14日 (火) 16時29分
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(8)「生き残る唯一の道、富国強兵・殖産興業」
“欧米列国の植民地化政策に対して日本が生き残るための選択肢は、 急速に欧化政策を進めて国力を高める道しかなかった。”
“明治32年(1899年)に治外法権が撤廃され、明治44年(1911年)に 関税自主権も回復し、日本は名実ともに独立国になった。”
(9)「明治の指導者は“気概”の人たちだった」
“大目標のためには、潔く自分個人のことを捨てる―それが"気概"である。”
“明治維新以前の日本は、言うまでもなく、世襲が当たり前の世界であった。”
“彼らはあえて、それをやらなかった。というのはやはり『世襲をやっていては旧幕時代と変わらないじゃないか』という思いがあったからである。”
“国家存亡の秋に、こうした気概に溢れた指導者に恵まれた日本は、まことに 幸福な国であった。”
第1章はこれにて終えます。
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| (113)投稿日 : 2003年10月15日 (水) 13時55分
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