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[1559]新・ことばの路地裏 第345回「キモ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年11月07日 (木) 04時30分

20131107 キモ
 つい最近知った言葉が実はずっと以前から使われていたということはよくある。その言葉が見えない、聞こえないエリアにいたのだろう。あるいはエリア内にはいても、人との接点がなかったのだろう。
*********************
「au版iPhone 5とiPad mini (セルラー)を両方使っても月額最低使用料金が7000円を下回る」。これはかなり魅力的なプライスと言えるのではないでしょうか。
なぜ7000円を下回るのか。キモは二つあります。
http://macbook.blog83.fc2.com/blog-entry-1249.html(2013年11月1日)
*********************
 調べていて、読売テレビアナウンサー、道浦俊彦さんの「新・ことば事情」に行きあたった。2010年のこととして書かれている。2010年3月13日付読売新聞夕刊の連載コラム『いやはや語辞典』で、上野千鶴子東京大学教授が書いている「キモ〜無教養な『平成言文一致』」を引用している。学生のレポートに「この論文のキモは」という表現があったそうだ。
 『デジタル大辞泉』の「きも(肝)」の項に出ている。
*********************
 4 物事の重要な点。急所。「話の―」
*********************
 『日本国語大辞典 第二版』にも出ている。曰く、
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 E物事の重要な点。急所。
*********************
 確かに、意味の上では関係があるように見える。しかし、用例は1390年頃の「長短抄」という作品や江戸時代の滑稽本からのもので、今日の使用例とつながっているとは考えられない。
 グーグルで検索すると、以下のような例が出て来る。
「労働法のキモはすべて『桃太郎』が教えてくれる。 ―リーダーなら知らなきゃヤバいマネジメントの必須知識」(書名)、「モテ部屋のキモは消臭にあり!?」、「ライディングテクニックでコーナリングの”キモ”はなんだと思いますか?」、「エイジレス美のキモは髪! 有名人の知られざるヘアケア方法。」、「車田漫画のキモは?」、「進化に乗り遅れるな!事業継続のキモは『脱テープ』バックアップ」、「チョコッと『ウンミリヤ』コーデのキモは『キレイめコーデ』」、「そもそもこのゲームのキモは『兵站』」など。
ほとんどがカタカナ表記である。
 重要な点、肝心なところ、秘訣、といった意味で使うのがいまどきのキモである。
(2013年11月7日)

[1558]新・ことばの路地裏 第344回「見切れる」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年10月31日 (木) 05時13分

見切れる

 TBSのドラマ『半沢直樹』の最終回が視聴率42.2%を記録した。これに関連する記事を読んでいて、初めて目にする言葉に出合った。全く知らないことばに出合うと、軽い戸惑いを覚える。語構成上の仕組みが解明できない。意味の透明性が理解できない。

 『半沢直樹』の最終回のワンシーンに珍場面があったのである。半沢直樹が大和田常務を土下座させたあと、部屋を退出する際に画面の端にカメラマンが見切れているのである。これは制作陣も気づかなかった凡ミス。(ガジェット通信)
 http://getnews.jp/archives/423222

 記事の中の「見切れている」である。『デジタル大辞泉』にちゃんと登録されている。知らないと調べることもできない。知って初めて調べてみた。次のように記述されている。

 1 テレビ放送や演劇で、本来見えてはいけないものが見えてしまう。「裏方スタッフが―・れる」
 2 写真や映像で、フレームに人物などの全体が収まらず、一部が切れている。「集合写真で端の人が―・れる」

 記事での使い方は1の意味である。「見切る」も類義語のようだ。(「見切れ、見切れる、見切る」(テレビ画面や舞台において、余計なものや人がはみ出て視聴者や観客に見えてしまうこと」)(Wikipedia「業界用語」)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD%E7%95%8C%E7%94%A8%E8%AA%9E

 インターネットで検索してみると、次のような説明が出てくる。
 舞台用語で、「舞台裏をお客様の視線から隠すためにつく道具」のことを「見切り」という。「客席から見えるものを切る、といった意味あい」だという。そして、「見切りが不十分で舞台裏が見えてしまうことを『見切れる』(みきれる)と言います。」とある。(「舞台・演劇用語」http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/meaning/mikireru.htm
 この「見切る(見切り)」が「見切れる」に派生する過程に意味のねじれがある。「見切れる」を順当に理解しようとするなら、「見切る」ことができるという可能の意味になる。しかし、客の「視線から隠す」ということができるという意味ではなく、逆の、視線から隠せないという意味に「見切れる」が使われている。「見切り」という道具が「切れる」、切れてはいけないのに切れてしまう、すなわち、機能を失い、見切りの後ろにあるものが現れる、という意味になったのではないか。「見切れる」は「見切る」の可能動詞ではなく、「切れる」が自発(自然可能)として用いられているのである。
 最近は本来の意味とは正反対の『デジタル大辞泉』2の意味で使われることがあるようで、頭が混乱する。
 すっきりと説明できたとは言えないが、見切り発車で見解を示しておくことにする。
(2013年10月31日)

[1553]住みよいまちづくり 投稿者:ぽん子

投稿日:2013年10月23日 (水) 11時25分

毎週木曜日の更新を楽しみにしている読者の一人です。

「心臓」は、昭和10年生まれの母がよく使っていました。過ぎた(?)度胸にあきれたり、感心したりしたときに「(なんと)心臓やなあ〜」と言っていました。

突然で申し訳ないのですが、最近、少々気になっている言葉があります。「安心・安全の(/な)町作り」や「住みよいまちづくり」というフレーズです。選挙演説や広報誌で非常によく耳にし、目にします。イメージのよいキャッチフレーズとして使われているように思いますが、複合語の前の部分である「まち」だけに係るような語が修飾語として用いられるのに、何だか落ち着かないものを感じます。「明るいまちづくり」とは、「まち」が明るくなるのをか、「つくりかた」が明るいものであるのか・・・・。(前者の意味で使われている場合が多いと思いますが。)

そこで、質問なのですが、十分市民権を得た表現として流通している語でこのようなパターンの複合名詞はほかにもたくさんあるのでしょうか。そもそも、これは昔からよく使われていたものなのでしょうか。気になっています。

小ネタとして何かの際に取り上げてご解説いただけたら、大変幸甚に存じます。不躾なリクエスト、お許しください。

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[1554]投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2013年10月24日 (木) 04時51分
ぽん子さん いつも楽しみにしてくださって、ありがとうございます。ボクの母は昭和3年の早生まれです。
「心臓」は時代を感じさせる言葉ですね。
「住みよいまちづくり」という複合語は構成の上ではしょりが感じられます。「住みよいまち」と「まちづくり」を「まち」を軸にして結合しています。
このような表現は探したら他にもあると思います。「自動車の運転手」というのも「自動車の運転」と「運転手」を結合しています。これが「自動車のドライバー」になると結合が見えなくなります。
興味深いテーマを示してくださいまして、ありがとうございます。
これからもご愛読のほど、よろしくお願いします。

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[1556]投稿者:ぽん子
投稿日:2013年10月24日 (木) 18時10分
早速ご教示くださいまして、まことにありがとうございます。
いきなりスレを立ててしまい、それこそ「心臓だった!」と感じておりました。

なるほど「市バスの運転手」など、複合語だと意識することなしに私自身使っております。使っているうちに結合部分が見えなくなっていくのですね。一語意識が強くなるというか・・・。「ドライバー」となればもう完全に一語だと認識します。

複合語に動詞が含まれていると、結合意識が残りがちになるようにも思います。係り受けが絡んでくる(と感じてしまう)せいでしょうか。

「醜い嫁いびり」「息子の嫁選び」「おもしろいパン作り」「小さな町おこし」などは、結合のさせ方、とらえ方によって意味が変わります。
音声で伝えるときは、アクセントによってうまく処理しているのだと思いますが・・・。(ただ、「住みよいまちづくり」は、アクセント的にもちょっと例外であるように思います。「住みよい」の直後にいったん下がっています。にもかかわらず、「町」までを意味的にくっつけてしまうとは、その「結合力」に恐れ入ります。)

複合語の「はしょり」と「結合」の妙を感じさせる例、またさがしてみたいと思います。

先生、どうもありがとうございました。感謝申しあげます。

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[1557]投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2013年10月28日 (月) 18時25分
ぽん子さん

こんにちは。ご返事が遅くなりました。申し訳ありません。

「醜い嫁いびり」「息子の嫁選び」「おもしろいパン作り」「小さな町おこし」など

面白いですね。

複合語の「はしょり」と「結合」の妙

まさにその通りですね。

[1555]新・ことばの路地裏 第343回「筆順と書き順」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年10月24日 (木) 04時52分

筆順と書き順

 標題について違いを尋ねられたので調べてみた。
 一般的には書き順と呼んでいるように思われるが、インターネットで「筆順」「書き順」を検索すると、書き順(筆順)、筆順(書き順)、筆順・書き順といった表記が見られ、また、「筆順フォントで漢字の書き順を勉強しよう」という表現もあった。
 文部省が昭和33年(1958年)に『筆順指導の手びき』という書物を出した。その目的を次のように記している。

  学校教育における漢字指導の能率を高め,児童生徒が混乱なく漢字を習得するのに便ならしめるために,教育漢字についての筆順を,できるだけ統一する目的を以て本書を作成した。(1.本書のねらい)(注 句読点はコンマ(,)と句点(。)で表記されている)

 これに先立って、筆順の定義をしている。

  筆順とは文字の形を実際に紙の上に書き現わそうとするとき,一連の順序で点画が次第に現わされて一文字を形成していく順序であるといえよう。(1.本書のねらい)

 筆順といえば漢字のものと考えられているのではないかと想像するが、同書に「漢字ばかりでなく,かな,ローマ字等についても,同じことが言える。」と記されている。
 また、小学校学習指導要領国語には、「各学年における書写に関する事項」の「第1学年及び第2学年」に「点画の長短や方向,接し方や交わり方などに注意して, 筆順に従って文字を正しく書くこと。」と決められている。
 以上のことから筆順という用語は文部省(当時)が作ったものであり、現在も学習指導要領において使われていることが分かる。
しかし、文字を書く順序という意味で書き順。これの方が筆順より言いやすいし、小学校低学年の児童にも分かりやすい。
 「飛」「必」の筆順は大学生のころに自覚したように思う。カタカナの「ヲ」の筆順も大学生のときに教わった。「凹」や「凸」は何画か、「淵」や「肅」や「壺」はどういう順序で書くかなど、悩んだことがあった。現在では「漢字の正しい書き順(筆順)」というサイトがあり、漢字だけでなくひらがな、カタカナ、数字、アルファベットの書き方も教えてくれる。(http://kakijun.jp/
(2013年10月24日)

[1552]新・ことばの路地裏 第342回「心臓」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年10月17日 (木) 04時38分

心臓

 「心臓が強い」ということを短く「心臓だ」という言い方がかつてあった。辞書によると、「厚かましいこと、ずうずうしいこと、押しが強いことなどの意の、俗な言い方。」(『デジタル大辞泉』)とある。最近は耳にすることがないように感じる。おそらく古い時代の流行り言葉のようなものだったのではないだろうか。子どものころ、母が使ったのを聞いた覚えがある。
 谷崎潤一郎『細雪』にその使用例があった。

 「年増の女はみんな心臓や。僕の知つてる北の芸者で、これはもう四十以上の老妓やねんけど、東京へ行つて電車に乗つたら、わざと大阪弁で『降りまツせえ』と大きな声で云うて**ねん、そしたらきつと停めてくれはります云ふ女があるねんが」(世界名作全集45 筑摩書房、1960年、上巻 p.135上段)

 辞書に書いてあるように、「厚かましい」とか「ずうずうしい」とか、マイナスの評価を伴っている印象もある。しかし、『細雪』での使用例は、気の弱い人には真似のできないような、物おじしない、度胸があるといったプラス評価を伴っているとも感じられる。
 あるブログに、見出しだが「かみながら最後まで言うのだって相当な心臓だよね」という例があった。残念ながら筆者のプロフィールは不明である。
 http://plaza.rakuten.co.jp/comugicha/diary/201303200000/
 「心臓が強い」の意の「心臓」に対して、「心臓が弱い」と言い、気が弱い、臆病だという意味を「ノミの心臓」という。「厚かましい」とか「ずうずうしい」というのは「心臓に毛が生えている」という表現が当てはまる。
 緊張したりすると心臓がドキドキしたりバクバクしたりする。胸の鼓動だ。胸はバクバクしないが、キュンとして胸キュン。中学時代(1962年ごろ)の技術家庭科の先生が「ドキがムネムネ」と言っていた。この表現はトニー谷のギャグだったようだが、「クレヨンしんちゃん」のアニメソング「ユルユルでDE−O!」の歌詞の中にも出て来る。
(2013年10月17日)

[1551]新・ことばの路地裏 第341回「薄色」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年10月10日 (木) 07時04分

薄色

 川端康成の『千羽鶴』のことを調べようと、ネットを歩いていて、翻訳家の松野町夫さんの「文脈依存文の効用と定冠詞の威力 『千羽鶴』と”Thousand Cranes”」という記事に行き当たった。http://langsquare.exblog.jp/8806189/
 ここに「薄色のカアネエション」の解釈を巡る考察がある。「薄色」とはどんな色なのか、と。松野さんは「絵志野」の三の使用例を挙げている。

 もらって帰った志野の水指に、菊治はやはり白ばらと薄色のカアネエションを入れてみた。(新潮文庫版『千羽鶴』絵志野 三 p.95)

 この「薄色」を「薄い色」と理解して、何色なんだろう、薄桃色だろうか、淡黄色なのだろうか、色がはっきりしないとしている。読み進めていくと、同じ絵志野の三の終わりの部分に、次のように書かれていて納得がいくと述べている。

 白と薄赤との花の色が、志野の肌の色とひとつに霞むようだった。(同上p.101)

 これで解決したように思われる。しかし、必ずしもそうとは言えない。
 薄色というのは、辞書に記述されている「染め色の名。薄紫色。」と解するのが適切である。単なる「薄い色」ではなく、特定の色を表す語である。
 実は『千羽鶴』には、「薄色」の語が引用例も含めて3回出てくる。いずれも「薄色のカアネエション」である。一つは絵志野の三以前の一にある。

 花は白ばらと薄色のカアネエションとであったが、その花束が筒形の水指によく似合っていた。(同上p.80)

 そして、もう一つは絵志野の次の章である。

 この水指を文子にもらって来た時、菊治はさっそく白ばらと薄色のカアネエションとを入れたのであった。(母の口紅 一 p.105)

 川端は「薄赤」と表現して「薄色」の種明かしをしたのではなく、薄色の類似の色として薄赤と書いたのではないか。ただ、薄赤より薄紫のほうが、より適切だとは思われる。
(2013年10月10日)

[1550]新・ことばの路地裏 第340回「結わえる」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年10月03日 (木) 05時00分

結わえる

 向田邦子の「父の詫び状」を新潮朗読CDで聞いていて、自分ではあまり使わない言葉が耳に入ってきた。「結わえる」という動詞である。「結ぶ」とか「縛る」とか「たばねる」といった動詞と類義関係にある。原文は以下の通りである。

 冬になると、風邪を引くという理由で、子供はお風呂は一晩おきであった。その代り、お風呂に入らない晩は湯タンポを入れてくれる。夕食が終って台所をのぞくと、祖母が草色の大きなヤカンから、湯タンポにお湯を入れていた。把手(とって)のついた口金を締めると、チュウチュウとシジミが鳴くような音を立てた。それを古くなった湯上りタオルで包み、子供用のは蹴飛ばして火傷(やけど)をするといけないというので、丁寧に紐でゆわえるのである。(向田邦子『父の詫び状』「子供たちの夜」文春文庫 2006年新装版第1刷、2013年9月15日第21刷 p.74)

 「結わえる」という動詞を使った記憶はほとんどない。子どものころに使っていたかも知れないというかすかな記憶である。
 この用例では、湯たんぽをタオルで包み、そのタオルがはがれないように紐でしばるということである。これに似た動作はしたことがあるけれど、そのことを言葉で表現した記憶がない。仮に口に出して言うとすれば「縛る」だろうか。
 廃品回収のときに古新聞を出す。このとき、広報では、束ねてひもで縛るとか、束ねてひもで結ぶといった表現をしている。「新聞紙・雑誌は分けてまとめ、結わえてください」(軽井沢三沢パーク)、「新聞、雑誌、本、段ボール、牛乳パック それぞれひもで結わえる 発泡スチロール 結わえるか市販透明袋」(倶知安)のように「結わえる」を使った例もある。また、「新聞紙、雑誌類、ダンボール、飲料用紙パック、紙製容器包装の5つに区分し、それぞれひもで束ねてください」(熊谷市)のように、「結ぶ」ことを前提にしたもの、「(新聞は)袋に入れずにひもで結んで出してください」(盛岡市)のように、「束ねる」を前提にしたものなどもある。地域による差があるのかもしれない。
 今の湯たんぽには袋状のカバーが付いている。驚いたことに「抱っこ湯たんぽ」といって、お腹の冷えを予防する、お腹にあてて使う湯たんぽもある。寝るときだけに使うものではなくなっている。
(2013年10月3日)

[1549]新・ことばの路地裏 第339回「いつ来たねん!?」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年09月26日 (木) 05時10分

いつ来たねん!?

 もう18年も前のことになる。卒業生が情報を寄せてくれた。マンガを読んでいて、おや?と思う表現があったというのだ。大阪の高校生のセリフとして「いつ来たねん!?」と書かれていた。そのコマのコピーも添えてあった。
 森田まさのり作「ろくでなし」(『週刊少年ジャンプ』1995年8月7日号 p.20)
 普通は「いつ来たんや」となるべき所である。
 「ねん」はもっぱら非過去形に付くもので、過去形に付く表現は、耳にしたことも目にしたこともない。前田勇『大阪弁』(朝日選書、1977年、p.155-156)に「ねん」の説明がある。
 「ね」に「ん」を添えたもので、「ね」は「のや」のくずれたものである。「ねん」といえば念入りな言い方で、「ね」とだけいえば、ぞんざいな言い方となる。
(簡略化して引用「どないした言うのや」「どないした言うねや」「どないした言うね(ん)」)
「のや」が溶け合って、「ね」になってしまう。この「ね」に余情をこめる時の形が、先刻の「ねん」というわけである。

 もし「ねん」が「のや」に置き換えられるのだとすれば、「いつ来たのや」ということになって、不自然な表現とは言えない。
 ところで作者の森田まさのり氏は1966年、滋賀県栗東市(旧栗東町)出身で、高校卒業まで過ごしている。もしかしたら、「したねん」は滋賀県の言葉なのかもしれない。そう思ってインターネットで検索していたら、「とほほ〜見聞録」というブログの記事「2005年07月24日大阪弁についての考察」に行き当たった。
 http://blog.livedoor.jp/tohoho_kenbunloku/archives/50006385.html
 これに次のような記述がある。
 (滋賀県)栗東辺りの人(子供?)は、大阪弁ながら、ちょっと変わった言い回しをする。
「なぁ、なぁ〜、先生、私昨日◯◯ちゃんと遊んだねん!」
 この『遊んだねん』というところだ。
 ほかに「したねん」「食べたねん」の例も示している。
 これで腑に落ちた。
 滋賀県栗東市は滋賀県で湖南地方と呼ばれ、京都の方言色が強いとされる。とすれば、京都でも「動詞の過去形+ねん」が使われているのだろうかという興味も湧いてくる。
(2013年9月26日)

[1546]新・ことばの路地裏 第337回「しちゃう」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年09月12日 (木) 05時42分

しちゃう

 大阪の方言で「ちゃう」というのは「違う」という意味である。「ちゃうちゃう」と2度繰り返して否定したり、「チャウチャウちゃうんちゃうん」などと言ったりする。共通語のカジュアルな表現「しちゃう」というのは「してしまう」が縮約された形である。
 カジュアルな表現であることから、フォーマルな発話場面では使用が抑制されるだろうと考えられる。フォーマルな発話場面と目されるものの一つに国会での質疑応答の発話がある。「しちゃう」はあまり使われないだろうと予想できる。
 昭和22年5月20日の第1回国会から昭和32年12月31日までの約10年半の期間で検索すると583件出てくる。平成2年1月1日から平成11年12月31日までの10年間で検索すると2482件出てきた。格段の差があることが分かる。その途中の期間を調べてみると、昭和40年にヒットした「愛して愛して愛しちゃったのよ」(浜口庫之助作詞・作曲)や昭和41年にヒットした「困っちゃうな」(遠藤実作詞・作曲)以前と以後とで検索結果の数に差があった。ヒット曲以後は、それ以前と比べて倍増とも言えるほど増加している。平成に入っても、件数が減少する気配はない。
 現在の国会における質疑応答で「しちゃう」の使用は当たり前だと思われる勢いである。昭和の時代に、どんな人がどんな使い方をしたのか、ちょっと調べてみた。
 小川友三参議院議員(1904年生まれ、埼玉県出身)がたくさん使っていると思われた。昭和23年12月から昭和25年4月までの間に11件出てきた。「しちゃう」専用ではなく「してしまう」の形も使っている。
 「生ましちゃう」「売っぱらっちゃう」「取れなくなっちゃう」「使っちゃう」「殖えちゃう」「対立をしちゃう」「外しちゃう」「取られちゃう」「下って来ちゃう」「干上がっちゃう」「怒っちゃう」「負けちゃう」「負かしちゃう」「落っちゃう」などである。「半年後に売ってしまう。売っちゃって自分の資産状態を零にしてしまう」「これを負けちゃう、切捨ててしまう」というような「しちゃう」と「してしまう」が共存する例も見られた。発話内容からみると、決してカジュアルだとは言えない。そんな状況で「しちゃう」が使われているというのは、「しちゃう」のどんな機能だと理解するのがよいだろうか。
 余談ながら、面白い例に「正当防衛というようなことになってしまっちゃうんです」(昭和25年7月29日第8回国会、大蔵委員会、由井賢太郎議員)というのがあった。これは正しい用法とちゃう。
(2013年9月12日)

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[1548]訂正投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2013年09月22日 (日) 08時09分
「チャウチャウちゃうんちゃうん」を最後の「ん」を省いて「チャウチャウちゃうんちゃう」に修正します。

[1547]新・ことばの路地裏 第338回「落語のギャグ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年09月19日 (木) 08時07分

落語のギャグ

 歩きながらウォークマンで上方落語を聞いている。昔はラジオに聞き入ることが普通にあったが、最近は、なにかをしながら音楽を聴いたり朗読を聞いたりしている。『特選米朝落語全集¢譏Z集』(東芝EMI株式会社)の中に収録されている「焼き塩」。聞いていて、文字の関するギャグが出てくる。「司」という漢字を教えてもらうという場面。巧みな教え方だと感心する。

○「ちょっと、教(おせ)てもらいたいんやがな」 △「何が」 ○「つかさ、ちゅう字がわからんちゅうてんねん」 △「あぁ、わしにそんなこと聞いたかてわからん、魚屋(さかなや)の大将に聞いてみ、あいつなかなか学者や」 ○「魚屋の親父(おやっ)さん」 魚「なんじゃい」 ○「ちょっと、あの字ィ教えてもらいたいんやがな」 魚「なんちゅう字や」 ○「つかさ、ちゅう字がわからん言うてんのや」 魚「つかさ、あぁ、つかさかい。あれはお前、同じくちゅう字を二枚に下ろして、骨付きのほうや」
……えー、まことに、魚屋らしい教え方があったもんでございます。
(落語「焼き塩」桂米朝 平成元年10月17日)

 もう一つは凝っている。当て字にまつわる誤解である。

□「えぇ、あいつがなんやて、置手紙して行(い)たて」 女「そうやがな、あんたが留守やちゅうたらな、手紙読んでもろといてくれ…」 □「あいつこの頃お前、手習いに行て、ちょっと字が書けるようになったら生意気に置手紙やなんて、何をすんのやいな、えぇ。見てみィ、みみずののたくったような字書きやがって。えー、借りた羽織は七(質のこと)に置いた、……何をさらすねん、あいつ。三日だけ、ちゅう約束で貸したったのに、黙って質に置きやがって、なんちゅうことすんねん」
 言うてると、
◎「おう、手紙読んでくれたか」 □「お前はえげつない男やなあ。三日だけちゅうて頼むさかい羽織貸したった、なんでわしに黙って質(ひち)に置いたりすんねん」 ◎「そんなことするかい、返しに来たんやないかい。お前が留守やちゅうさかい、そこの棚の上へ置いた、ああ、その棚の上に乗ってるやろがな」 □「へぇ、あ、ほんにあるなぁ。そやけどお前、これ借りた羽織、七(ひち)に置いたと書いたあるやないかい」 ◎「お前字ィ知らんな、そら『七夕(たなばた)』の『たな』という字やがな」
(落語「焼き塩」桂米朝 平成元年10月17日)

 語ってこその落語だが、付録を参考に文字に記してみた。
(2013年9月19日)

[1545]新・ことばの路地裏 第336回「ゲテモノ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年09月05日 (木) 04時33分

ゲテモノ

 ふだんは耳で聞き、話の中で使うことがあっても、どんなふうに表記するのか、気にも止めない言葉がある。そのうちの一つが「ゲテモノ」である。「げてもの」と平仮名で書くよりカタカナで書いた方が、その意味がよく表されているように感じる。
 織田作之助の『夫婦善哉』読んでいて「下手もの料理」(新潮文庫版p.13)という表記を見つけた。当て字かと思って辞書を調べた。「下手物」と書くことを知った。
 「下手物」の本来の意味は「並の品。粗雑で安物の工芸品。」(デジタル大辞泉)であり、その反対語は「上手物(じょうてもの)」。
 しかし、現在では「普通とは違って、風変わりなもの。」(デジタル大辞泉)という意味で使っている。「下手物食い」とか「下手物趣味」とか「下手物好き」などの複合名詞がある。「下手物食い」は「いかもの(如何物)食い」とか「悪食(あくじき)」と似ている。
 高校時代に映画鑑賞で見た『世界残酷物語』の中で蟻を食べる場面を見て驚き、現在までも記憶に残っている。文化的な価値観の違いだから、善し悪しを云々することは難しい。刺身のような生魚を食べることを好まない文化もあるし、ねばねばした納豆を食べない人もある。
 先日、新聞に「食糧危機克服へ『虫を食べよう』 国連専門機関が報告」という記事(朝日新聞http://www.asahi.com/international/update/0515/TKY201305150453.html)があった。食糧危機を克服する方策だという。世界には1900種以上の虫が食用にされているそうだ。イナゴの佃煮はよく知られているだろう。蜂の子も食用にされる。
 「普通とは違って、風変わりなもの」という判断は何を基準にするのだろう。何が普通で、何が風変わりなのか。ゲテモノという語にはマイナスのイメージが伴っていると考えられるが、一つの基準で断じることには慎重であったほうがよいだろう。「変わっている」とか「変だ」と捉えないで「珍しい」と捉えると、「珍味」として珍重されることにもある。
(2013年9月5日)

[1544]新・ことばの路地裏 第335回「ですな。ますな。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年08月29日 (木) 04時52分

ですな。ますな。

 終助詞の「な」と「ね」との間には、共通点もあるが、相違点もある。「あのね。」「あのな。」「よく降るね。」「よく降るな。」「暑いね。」「暑いな。」「にぎやか(だ)ね。」「にぎやかだな。」「雨(だ)ね。」「雨だな。」「降る(暑い・にぎやか・雨)だろうね。」「降る(暑い・にぎやか・雨)だろうな。」地域差や男女差もあるようだ。聞き手が自分と同等か目下かの場合、自分と親しい場合に使われる。
 丁寧な物言いは、聞き手が自分より目上の場合や親しくない場合に丁寧語を使う。「あのですね。」「よく降りますね。」「暑いですね。」「にぎやかですね。」「雨ですね。」などのように、「ね」は丁寧語と相性がよく、自然に使える。ところが、「な」はどうだろう。
 「あのですな。」「よく降りますな。」「暑いですな。」「にぎやかですな。」「雨ですな。」などは、若い人が普通に使う丁寧表現にはならない。かなりの年配者、しかも特に男性が使うという印象を伴う。「よう降りまんな。」「暑いでんな。」「にぎやかでんな。」「雨でんな。」などは大阪では女性が使っても違和感がない。
 「ですな。」「ますな。」には尊大な感じも伴う。『国会会議録検索システム』で検索してみた。「ですな。」は、昭和が5545件、平成が933件だった。「ますな。」は、昭和が1583件、平成が246件だった。どんな議員が使っているかとの興味で発言者を入れてみた。

 人名の後のカッコ内の数字は生年。
 麻生太郎(1940) ですな。24件、ですね。210件、ますな。3件、ますね。150件。
 石原新太郎(1932) ですな。11件、ですね。34件。ますな。8件、ますね。14件。
 鳩山由紀夫(1947) ですな。0件、ですね。27件、ますな。0件、ますね。7件。
 渡部恒三(1932) ですな。0件、ですね。29件、ますな。0件、ますね。11件。
 角田義一(1937) ですな。35件、ですね。76件、ますな。20件、ますね。36件。
 穀田恵二(1947) ですな。22件、ですね。316件、ますな。3件、ますね。93件。
 谷川秀善(1934) ですな。13件、ですね。56件、ますな。2件、ますね。35件。

 1947年生まれの鳩山と穀田以外は1930年代生まれである。年齢が関係するかとも思われるが、必ずしもそうとはいえない。穀田は多用する人のようだが、「ね」の形もたくさん使い、そのほうが多い。個人的な問題とみなすこともできるだろうが、「な」と「ね」をどのように区別しているのかという興味もある。
(2013年8月29日)

[1542]新・ことばの路地裏 第334回「ぞよ。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年08月22日 (木) 06時09分

ぞよ。

 高校時代に数学の教師が、授業運営に協力的でない生徒達に対して注意を発した。非協力的な態度が続くと進度が遅れるという趣旨の発言だった。その中に「遅れますぞよ。」といった言い回しがあり、生徒間で話題になった記憶がある。
 『デジタル大辞泉』は「ぞよ」を次のように説明している。

 [連語]《終助詞「ぞ」(古くは係助詞「ぞ」の文末用法)+間投助詞「よ」》断定した内容を、さらに念を押す気持ちを表す。…なのだよ。…だぞ。

 『精選版 日本国語大辞典』は次のように説明している。
 
 (終助詞「ぞ」(古くは係助詞の文末用法)に間投助詞「よ」が付いたもの)「ぞ」の聞手に対する指定的な強い働きかけを、幾分やわらげながら「よ」によって更に念を押す。ぞとよ。

 どちらの辞書にも源氏物語の用例が挙げてある。いかにも古い表現である。
 『新潮文庫の100冊』で検索すると24例ヒットした。『破戒』『羅生門』『国盗り物語』の各6例、『山椒大夫』に3例、『剣客商売』に2例、『ブンとフン』に1例である。時代小説にふさわしい表現で「そのうらみは深いぞよ」「見ていたぞよ」(ともに『剣客商売』)のように使われている。前記の作品では最も古い『破戒』には、「全く、天の助けだぞよ」「へえ、もう今日で六日目だぞよ」のような例があるほかは、「ない」が訛った「ねえ」に付いた「ねえぞよ」が4例あった。
 「ぞよ」には、古いといった印象のほかに、俗っぽいという印象も伴っている。数学教師の使用例は、地元では聞いたことがないもので、当時は時代がかっていると感じたものである。
 『国会会議録検索システム』では昭和22年の第1回から現在までの66年間に5件ヒットした。昭和37年、38年、43年、45年、59年に各1件である。面白い表現として次の2例を挙げておこう。

 ・「差別してはございませんぞよ。」(63 - 参 - 内閣委員会 - 17号 昭和45年05月12日 社会党 山崎昇 当時47歳くらいか)
 ・「だが、これは外務大臣とも相談しまして、大臣折衝でやる課題じゃないぞよ。」(101 - 衆 - 大蔵委員会 - 13号 昭和59年04月11日 自民党 竹下登 当時60歳)

 どんな口調で発話されたのか知りたいところである。
(2013年8月22日)

[1541]新・ことばの路地裏 第333回「でしょうよ。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年08月15日 (木) 05時30分

でしょうよ。

 個人的にはほとんどまったく使用しない表現だが、聞くと多少の違和感を覚える形式がある。下降調のイントネーションで発音される「でしょうよ。」及び「だろうよ。」である。デショウ、ダロウによって推量の気持を表し、かつ、ヨによって主張を表していると思われる。違和感を覚える原因は、相手を非難する気持を感じることにある。「何不自由のない暮らしができるならいいでしょうよ。」とか「君はそれでいいだろうよ。」のような文の後には「でも」とか「だけど」といった逆接の関係で不満といった気持が述べられる、そんなパターンを想像するのである。
 「国会会議録検索システム」でも若干ヒットした(第1回国会から現在まで全215件)。例えばこんな例がこの表現の用法にピッタリしている。

 阿部(知子)委員 何が違っているのと聞いたんだから、もう少し誠意ある答弁がある【でしょうよ。】(162 - 衆 - 厚生労働委員会 - 23号 平成17年05月18日)

 これが「でしょうが。」と言い切りになると、不満の気持ちがより強く感じられる。

 しかし、タリバンの指導部は、アフガニスタン政府との交渉は拒否しているんですよ。話す気はないと答えているんですから。これが事実【でしょうが。】(平岡委員「アブドラ国王には仲介を依頼しようとしている」と呼ぶ)事実【でしょうが。】まずそれを認めてくださいよ、あなた。話し合いたいと言っても相手が嫌だと言っているんだから。その嫌だと言う人に我々は接触するすべがないんだから、そういった形で交渉のしようがない【でしょうが。】(麻生内閣総理大臣 170 - 衆 - 国際テロリズムの防止及… - 3号 平成20年10月17日)

 ところで、「でしょうよ。」という表現が、方言として使われている地域があるそうだ。茨城県では「ここ違ってるでしょうよ。」というのは「ここ違ってますよ。」という丁寧な物言いだそうだ。(「茨城弁大辞典」http://www.ibaraking.com/basic/ibarakiben/dic.cgi?mode=frame2&cate=18)共通語と区別が付きにくいために、誤解を招く危険もありそうだ。
 「でしょうよ。」と丁寧形で言うのはまだしも、「だろうよ。」の形になると、かなりきつい口調になる。これが国会でも使われた例(ヒットしたのは第1回国会から現在まで3件のみ)があるから驚く。

 ・結論がつかぬで終わった問題なんです。それをあなたが簡単に割り切るなんて、無理【だろうよ。】そんなことは、あなた、国際連盟でさんざん討議しても結論がつかぬです。(昭和42年03月28日)
 ・百株ぽんと売らずに何回かに分けて売ることもある【だろうよ。】(平成06年06月15日)
 ・だけれども、上限を国が決めるなんてこんなばかな話はない【だろうよ。】(平成16年04月21日)

 それぞれの発言の口調まで伝わってこないけれど、読んで想像する限りでは、強い違和感を覚える。
(2013年8月15日)

[1540]新・ことばの路地裏 第332回「ぼっち席」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年08月08日 (木) 04時50分

ぼっち席

 先日、新聞を見ていて「ぼっち席」の文字が目に飛び込んできた。(『朝日新聞』2013年7月27日夕刊1面)
 見出しはこうだ。
 
 「ぼっち席」気楽にランチ(縦書き3段)
 京大学食に1人席(縦書き1段)
 ついたてで周囲気にせず(横書き27行)
 学生の心を反映(縦書き1段)
 神戸大でも導入(縦書き1段)

 「ひとりぼっちへの周囲の目線を気にせず食事できることから『ぼっち席』と呼ばれ、定着」しているのだそうだ。独りぼっちでする食事を「ひとり飯」とか「ぼっち飯」と呼ぶらしい。一人でする食事と独りぼっちでする食事との間には、本人の気持ちのなかでは大きな違いがあるのだろう。
 「ぼっち」という語もある。集団の中で、一人、中に入れない状態、また、その人のこと。中に入りたいのに入れないというのが「ぼっち」の悩みである。
 そもそも「ぼっち」は「独りぼっち」から「独り」を省いた語である。では、「ぼっち」は何かと、国語辞典を見て驚いた。『デジタル大辞泉』に、「『ひとりぼうし』」の音変化。『ひとりぽっち』とも」と注記してある。「独り法師」。ダイダラボッチ(大太法師)の「ボッチ」と同源だったのだ。
(2013年8月8日)

[1539]新・ことばの路地裏 第331回「違うべきだ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年08月01日 (木) 05時26分

違うべきだ

 ソニー損保のCF(瀧本さんとクルマくん 確率篇)の中にこんな表現がある。

 瀧本美織は考えた。
 たくさん走る車と、あまり走らない車。走る距離が違えば事故にあう確率も違う。それなら保険料も違うべきだ。だからソニー損保の自動車保険は走る分だけ。この仕組みが支持されて、ダイレクト自動車保険、9(きゅう)年連続売上げナンバーワン。http://sonysonpo.same64.com/sonysonpo039.html

 この中の「違うべきだ」という表現に違和感を覚える声がツイッターやYahoo知恵袋などに現れている。助動詞「べきだ」は無意志の自動詞「違う」には付きにくいのではないかという疑問であろう。「違える」とか「変える」にすると座りがよくなる。「違っているべきだ」としても座りがよくなる。
 「違うべきだ」に感じられる違和感や不自然さは、何に起因しているのだろうか。
 動詞「違う」には複数の意味がある。このCFのメッセージでは「走る距離が違えば事故にあう確率も違う。」に使われている「違う」と「それなら保険料も違うべきだ。」の「違う」とは同義だろう。すなわち「差がある」という意味である。もしそうなら、「差があって当然だ」「差があってしかるべきだ」という意味であり、「違って当然だ」とも言えて、問題はないはずだ。
 動詞を「異なる」に変えてみるとどうなるだろう。「走る距離が異なれば事故にあう確率も異なる。それなら保険料も異なるべきだ。」これは問題がない表現である。ただ、「違う」と比べて「異なる」は幾分硬い印象がある。
 ネット上で「違うべきだ」の他の使用例を検索してみた。
 「話し言葉と書き言葉は違うべきか?」「それなら前にやった小道具は違うべきだとか」「温泉養生も違うべきだ」「そこは会社によってスタンスは違うものだと思うし、違うべきだと思う。」「日本とアメリカのスタンスは違うし、違うべきなのだ。」「他の安定的職場と守り方が違うべきだと思う。」「男と女は違うべきなのだ。」「グリップの形は個人個人で違うべきだ」「文化が違えば売る商品も違うべきだ。」などの例がヒットし、『コークの味は国ごとに違うべきか』というタイトルの書物が発行されていることも知った。
 さらに、『国会会議録検索システム』で検索した。昭和22年の第1回国会から、現在の第183回国会までの約66年間のヒット件数は124件だった。平成年間のヒット件数は22件だった。昭和22年から昭和42年までの20年間で67件、昭和43年から昭和63年までの20年間で35件だった。「違うべきだ」は頻繁に使われる表現ではないけれど、国会においては昭和の方が平成より、比較的多く使われていたと言えるだろう。
 参考までに、一番古い使用例を示しておく。

 その会議を構成する構成員の事情が――実は中労委あるいは地労委の場合もそうでありますが、労働委員会の場合は違うわけでありまして、それぞれの階級を代表する者と、それから中立的な者との組合せによつてできておるという構成の特殊性から考えると普通一般の決議のとり方よりは当然【違うべき】ものと私は思うのであります。(第3回 衆議員 労働委員会 10号 昭和23年11月27日)

 「違うべきだ」という表現は、耳慣れないけれども、文法的に間違いだとは言い切れない。
(2013年8月1日)

[1538]「お見合い」 こんな用法もあったんだ。 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年07月26日 (金) 06時40分

WEBの記事を読んでいて、すっかり記憶の底に眠っていた用法に気が付いた。

「逆転された場面(7回裏)は、味方の守備の乱れ(フライをファーストとセカンドがお見合いしヒットにする)からでした。」
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/hs/2013/columndtl/201307250008-spnavi

「見合い」には、以下の用法がある。

み‐あい〔‐あひ〕【見合(い)】 [名](スル)
1 見合うこと。また、その状態。「土俵上での―が続く」
2 結婚の相手を求めて、男女が第三者を仲介として会うこと。「いい人がいれば―してもいい」「―写真」
3 両方がうまくつりあっていること。対応すること。「収支の―がとれる」
4 囲碁で、ほぼ同等の価値のある二つの方向への着点を双方が選択できる状態。
5 隣接する住宅の窓が、それぞれ相手の方向に設けられていること。互いの生活空間が見えるため、設計上、嫌われる。
(デジタル大辞泉)http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/210749/m0u/

この記述の「2」の用法が野球にも使われたものだろう。相撲では、立会前に行事が両力士に対して「見合って」と言うことがある。これは、「みあう」の「1」の用法だ。ただし、相撲では「お見合い」の形は使わない。

み‐あ・う〔‐あふ〕【見合う】 [動ワ五(ハ四)]
1 互いに相手を見る。顔を見交わす。「二人はじっと―・った」
2 つりあう。対応する。「仕事に―・った給料」
3 皆で見る。大勢で見物する。
「市をなして行きもやらで―・ひたり」〈宇治拾遺・一〉
4 出くわす。その場に居合わせる。
「はからざるに僧正に―・ひ奉りにけり」〈著聞集・二〉
(デジタル大辞泉)http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/210751/m0u/%E3%81%BF%E3%81%82%E3%81%86/

見合い」の「4」「5」の意味は専門用語の領域での意味で、今日、初めて知った。

[1537]新・ことばの路地裏 第330回「いかがなものか」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年07月25日 (木) 05時47分

いかがなものか

 あまり口にしない表現だが、これを多用する政治家がいることに気がついた。麻生国務大臣である。総理大臣のときにも多用している。その多さは他の総理大臣と比べてみるとよく分かる。( )内は在任日数。

  小泉純一郎(1980日)34回
  安倍晋三(166日)2回
  福田康夫(365日)0回
  麻生太郎(358日)43回
  鳩山由紀夫(266日)4回
  菅直人(452日)0回
  野田佳彦(482日)2回
  安倍晋三(約6ヶ月)0回

 小泉は約5年半で34回だが、麻生は1年で43回である。さらに麻生は現在国務大臣として答弁に立っていて、今年の半年間で21回使用している。いかに多用しているかが分かる。
 この「いかがなものか」という表現は「婉曲な疑問・批判の表現」(デジタル大辞泉)とされている。持って回った疑念の表明であり、含むところのある批判の表現だと言える。このような心理を反映して、丁寧な表現にすることもある。麻生には「思います」「思っております」「存じます」などを後続する例が45%ある。また、「いう」を介して「意見」「ご心配」「こと」などの名詞につなぐ形式を約48%使っている。
 これに対して小泉の用法には麻生とは異なったものが見られる。「思います」「思っております」などを後続する例は約26%と少ない。特徴的なのは、「いかがなものかと」で言い切る用法が47%あることである。麻生では4.5%しかない。麻生が丁寧にかつ慇懃に表現しているのに対して、小泉は短く簡潔に表現していて対照的である。次に好対照をなす例を示しておく。

 今御答弁を申し上げたとおりでありまして、官房長官という立場が、主に基本的にここに出てきておるというのが国会議員としての仕事だと思いますので、それを補佐する官房副長官というのが一緒に出てくるということも【いかがなものかと】存じますし、また、そういった意味でこれまでも官房長官が主たる答弁者ということになっておるということだと思っておりますので、それを変えるというつもりは今ございません。H21.3.9
 一部を取り上げて全体を評価して批判するのは【いかがなものかと】。与党議員でも大臣でも、反論なり討論なりするのが国会ですから、大臣は反論しちゃいけないという理由なんか何にもないんですから。これは自由でしょう。私は、余り、一部だけ取り上げて全体を評価するのは【いかがなものかと】。H13.11.13
(2013.7.25)

[1534]新・ことばの路地裏 第329回「ないべき」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年07月18日 (木) 05時49分

ないべき

 「べきだ」の否定形は「べきで(は)ない」であって、「ないべきだ」という形は、一般的には、ないとされる。しかし、実際には使われている。
 『新潮文庫の100冊』(翻訳作品を除く)で「ないべき」の形で検索したがヒットしなかった。『国会会議録検索システム』では、昭和の約40年間で12例、平成の約25年間で68例確認できた。実数としては少ないけれど、平成年間に増加したように見える。なぜこのような表現が生まれたのだろうか。
 古語の「べし」の否定形は「べからず」で、否定表現に「ざるべし」がある。否定形式の「ざる」が現代語で使われなくなったために、「ない」に置き換えられたという考え方ができる。しかし、「べきで(は)ない」という形式が安定的に使われていることからすると、「ないべきだ」は異質である。
 用法を見ると、特徴があることに気付く。「原価に入るべきですか入らないべきですか。」(昭和23年12月6日衆議院予算委員会)や「変えるべきか変えないべきか」(平成25年6月6日衆議院憲法審査会)のような対比的並列用法が多い。この用法は全用例80例中67例で、約84%を占めている。「変えるべきか変えるべきでないか」という対比方式も考えられるが、表現が冗長になるきらいがある。「〜べきか…ないべきか」のように、一種脚韻を踏んだ形式のほうが語呂もよい。脚韻を踏むという点では「変えるべきか変えざるべきか」の形式もあるが、これは古いという印象を伴う。
 ハムレットの悩みの表現、“To be, or not to be. That is the question.”の訳語のように、肯定表現「生きる」に対応する反対語「死ぬ」があればスムーズな対比並列ができるけれど、たいていの場合には文法的な否定形式を使うことになる。したがって、「ないべき」の形式が生まれたのだと考えられる。
 「ざるべき」は古い印象が伴うと言った。昭和で「ざるべきか」の形式は150件ヒットする。「ないべき」の12例に比べるとはるかに多い。平成では53件ヒットする。「ないべき」の57例に比べてほぼ等しい。つまり、平成では「ないべき」の勢力が増してきていると言える。「ざるべき」から「ないべき」へと新旧交代しているのである。
(2013年7月18日)

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[1536]投稿者:むささびとびのしん
投稿日:2013年07月18日 (木) 16時40分
上に

[1030]中国語の略語 投稿者:正保

投稿日:2003年05月20日 (火) 07時25分

人形焼さん、しん先生

中国語ではローマ字を使うこともときにはあるでしょうが、普通はSARS は「非典」です。Google で実に358,000件ヒットします。

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[1033]非典(SARS)投稿者:かずお
投稿日:2003年05月20日 (火) 09時53分
私も先日BSの中国からのテレビニュースで街頭の垂れ幕の映像の中に「非典・・・SARS」の文字を見つけました。
ただ私は非典は非典型の意味かと錯覚しました。
非典こそSARSの中国語の原語なのですね。
別な中国語のHPには急性呼吸器症候群という訳語も書いて
ありましたが、非典も急性呼吸器症候群もともにSARSに
対応するのでしょうか?
また日本のマスコミはSARSを日本語読みではサーズと統一
したのかと思うほどにサーズが大勢を占めていますが、
一昨日NHKのニュースでエス・エイ・アール・エスと読む
アナウンサーに出会いました。まだマスコミで読み方を
サーズに統一してはいないようですね。 

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[1034]非典は伝染性非典型肺炎の略投稿者:かずお
投稿日:2003年05月20日 (火) 09時59分
Yahooで非典を検索すると120件ヒットし、その中の
http://www.wellbemedic.com/sars/20030425_wb02.html
によれば「非典」は「伝染性非典型肺炎の略語」と
書いてありました。
日本語の非定型肺炎は語感が似ていますが
これはマイコプラズマ肺炎のことでSARSではありません。




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