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[1580]新・ことばの路地裏 第365回「えりすぐれた論文」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年03月27日 (木) 06時01分

えりすぐれた論文

 ウェブの産経ニュースで見かけた表現だ。

 竹市雅俊発生・再生科学総合研究センター長「優れた研究結果を発表することはもちろん重要な成果になります。それが2013年であろうが何年であろうが、えりすぐれた論文を発表することはうれしいことだと思っています」
 http://sankei.jp.msn.com/science/news/140314/scn14031423130019-n1.htm

 竹市センター長の談話を再現したものなのか、記者が聞き間違えて誤記したのか。
 「えりすぐれる」という動詞は認知されていない。正しくは「えりすぐられた」と受身の形で表現すべきところである。「えりすぐる」は「よりすぐる」とも言う。「える」は「選る」と書く。「すぐる」も「選る」と書くそうだ。どちらも五段活用の動詞である。漢字で表記すると「選り選る」となる。頭をひねらないと読めない。
 さて「えりすぐれた」という表現は、なぜ登場したのか。「すぐる(選)」は「多くの中からすぐれたものを選び出す。」(デジタル大辞泉)という意味で、「えりすぐられた」には、優れているという意味が含まれている。そして、「すぐる」には現代語では「優れる」となる下二段活用の動詞があり、「すぐられた」と「すぐれた」とは「ら」の有無の違いはあるが、語形の点で似ている。このように、意味の面、形式の面において類似しているために、混交が起きた、その結果であろうと推測できる。
 「えりすぐれた」という語形が広がる気配が感じられる。
(2014年3月27日)

[1579]新・ことばの路地裏 第364回「がめる」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年03月20日 (木) 04時33分

がめる

 今から50年前、中学生時代だったように思うが、「がめる」という動詞を使っていた。他人の所有物をこっそり奪い取るとかちょろまかすといった意味である。インターネットで検索してみると、北海道、博多、筑後などの方言であると出てくる。「ごんべの鳥取弁辞書」(http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/ka.html)にも「がめる」の見出しがあるが、「因幡方言」との注釈がついて、「非常に疲れる。(疲労などで)体が弱った状態になる。」という意味が与えてあり、自分が使っている語ではない。
 かつて、「ことば会議室 掲示板」(http://kotobakai.seesaa.net/article/8173600.html)で「ガメル」の語源が話題になったことがあった折にコメントしたことがある。2000年12月4日のことである。
 最近、江端義夫さんの論文「少年層の言語地図から始まる時勢語『ガメツイ』等の方言分布」(『愛媛国語学研究』第2号、1996年3月)を読んでいて、この語が言及されているのを知った。江端さんはこう言っている。「中国地方や九州地方の学生に『貪欲に人の者(ママ)を奪い取る』ことを『がめる』というかを聞くと、使うと答える。文献には載っていないだけのことかもしれないと思った。」(p.19)と。
 なぜ文献に記録されていないのだろう。意味が不穏当な出来事を表すからか。そんなことはないだろう。もしかしたら、50年前に鳥取県倉吉市の中学生の間で流行った言葉なのだろうか。ボクたち少年にとっては日常語であった。「がめられた」のような受身形や「がめてきた」のような表現で使ったような記憶があるが、はっきりしない。
 半世紀も前の事柄は、言葉とともに忘却の彼方に消え去ることがあると認識した。
(2014年3月20日)

[1578]新・ことばの路地裏 第363回「縦書き」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年03月13日 (木) 04時47分

縦書き

 ずいぶん古い記事から引用する。

「私は歌うときに、縦に書かれた日本語の歌詞を思い浮かべるんです。日本語も詩も本来、縦書き。それに即した抑揚やアクセントがあるわけでしょう。ところが楽譜は横書きですから、音符にあてはめて歌う形になると、詩の実感が薄れてくるんです。演歌は、すごく縦書きですよね。私も同じ」(『毎日新聞』(大阪本社版)1985年9月9日夕刊7頁「クラシック実力派 鮫島有美子」白石裕史記者)

 唱歌を歌った鮫島有美子のレコードが爆発的に売れているという状況でのインタビューである。第二作の「愛のよろこび」について「全編に若々しい現代感覚と濃密な日本ムードがある」と記者が評している。この「日本ムード」に通じるのが鮫島さんの言う「縦書き」である。記事の見出しに大きく「私の歌縦書き≠ネんです」と書いてあり、キーワードとなっているのだ。
 今日でも、そして、この記事が書かれた当時においても、新聞は縦書きを貫いている。しかし、ウエブではほとんどすべてと言ってもよいほど横書きになっている。演歌の歌詞も横書きである。
 しかし、鮫島さんは、日本語の歌を歌うとき、「縦書き」を意識して「詩の実感」を表現しているのである。
(2014年3月13日)

[1577]新・ことばの路地裏 第362回 「おとつい」と「おととい」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年03月06日 (木) 05時24分

「おとつい」と「おととい」

 一昨日のことを「おとつい」と言うか「おととい」と言うか。自分自身は主に「おとつい」と言い、「おととい」と言うこともある。個人の中で語形がゆれている。
 歴史的にみると「おとつい」が古い形で、これが変化してできたのが「おととい」である。筆者は鳥取県倉吉市の出身で、子どものころ地元では「おとつい」が優勢だった(現状は知らないが)と思う。倉吉では古い形を受け継いで使っていたことになる。
 古く万葉集に「乎登都日(をとつひ)」と表記されている。「おと」は「遠」、「つ」は「沖つ白波」「天つ風」「まつげ(目つ毛)」の「つ」と同じで「の」を表す格助詞、「い」は「ひ」の意と説明される。この「つ」が「と」に変わったわけである。
 鳥取県倉吉近辺では昔、兄弟のことを「おとどい」(アクセントは頭高型)と言っていた。父方の祖母が使っていた。「おとどい」は基本形が「おととい」である。新しい形の「おととい」が、この兄弟の意の「おととい」と同音衝突を起こすために一昨日のほうは「おとつい」の形を保持したという説明を読んだ覚えがある。
 自分のことを内省してみると、普段着のおしゃべりでは「おとつい」(アクセントは低低高低)を使うが、少し改まった場面では「おととい」(低低高低または低高高低)を使うという使い分けをしているように思う。
(2014年3月6日)

[1576]新・ことばの路地裏 第361回「承知。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年02月27日 (木) 05時10分

承知。

 報告や依頼などに対して「了解いたしました。」「了解しました。」と言う。短く「了解。」と表現することもあるが、これは相手が上司や先輩の場合には、失礼な表現として批判される。「了解です。」という言い方もある。動詞表現を名詞表現にしたもので、「感動です。」「感激です。」「驚きです。」などと同様である。
 フジテレビ系の金曜ドラマ『天誅 闇の仕置人』の中で毎回「承知。」というセリフが使われる。世の中の不正や悪を許すことができない村田正子(泉ピン子)が「許せない。許せない。サナ、天誅。」と言うと、正子と契約関係にある闇の仕置人、謎の女・サナ(小野ゆり子)が「承知。」と答える。
 サナは戦国時代の女忍者で、タイムスリップして現代に現れた。言葉づかいがぶっきらぼうである。「正義などわたしにはない。握り飯一つ分の仕事をする。ただそれだけ」と言って悪人に天誅を下す。
 「承知」は漢語サ変動詞で、了解、感動、感激なども同類である。これの語幹用法が「承知。」「了解。」である。「了解。」はしばしば見聞きするので違和感はないが、「承知。」はまだ聞きなれていないせいか、どうも落ち着かない。このドラマから出て世に受け入れられるかどうか、成り行きを注目したいところである。
(2014年2月27日)

[1575]新・ことばの路地裏 第360回 百聞は一見にしかず「居眠り」と「転寝」の違い 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年02月20日 (木) 05時15分

 フジテレビ系の新番組『日本語探Qバラエティ クイズ! それマジ!? ニッポン』の第1回(2014年2月2日)を見た。
 「知っているようで意外に知らない!? 分かっているようで意外と間違っている!?“日本語”をクイズにしてニッポンの魅力を再発見!!」(番組ホームページhttp://www.fujitv.co.jp/soremaji/index.html)という趣旨の番組だ。
 女性が机にうつぶせになって眠っている映像が流れ、「机で寝ている人、これは@うたた寝? それともA居眠り? どちらでしょう」との質問。回答者が「居眠り」と答え、正解。「居眠り 座って眠るという意味」「転寝(うたたね) 横になって眠るという意味」と解説が出る。「居」に座っての意味を与え、「転」に転がるの意味を与えて説明していた。映像を見せて該当する語を問うという新趣向の番組だ。言葉の意味をあれこれお言葉で説明するより映像を見せるほうが早い。まさに百聞は一見にしかずの手法である。
 ただ、転寝の説明で、居眠りと対照する意味もあってか、寝転がるという説明を加えたのは勇み足だ。転(うたた)にそのような意味合いはない。
 若干の問題点もあるけれど、映像を使って言葉の意味を説明するという、テレビならではの趣向が面白い。
 このほかに、机の上に書類などをきちんと立てて並べる動作は「整理」か「整頓」か、2本指でつまんだ塩は「少々」か「少量」か、濡れたタオルを絞っている動作を見せて「ひねる」か「ねじる」か、を問う問題などが出された。
(2014年2月20日)

[1574]新・ことばの路地裏 第359回「遊びのことば」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年02月13日 (木) 05時24分

遊びの言葉

 子どもが、集団遊びの仲間に入れてもらいたいことを申し出る際にかける言葉を調べたことがある。大きくなると記憶が不確かになることがあるが、調査したのは大阪府下にある短期大学1年生女子108人である。ほとんどが大阪府内または兵庫県から通っている。基本的に18歳で、その11年年前から6年前まで小学生だった人たちである。1994年5月に記述式で回答を求めた。
 一人で複数の形式を回答した例もあるので、延べ201例の回答を得た。これを集計すると、「入れて」75人、「寄して」58人、「混ぜて」33人、「寄せて」20人といったところが目につく。少数例としては「まして」5人、「いい?」「かてて」「まいて」「よしてくれ」「よっけて」「わたしもする」各1人がある。
 この回答から分かることはもっともよく使われたのが「入れて」である。「仲間に入れて」という意味である。続いて「寄して」「寄せて」で、「仲間に寄せて」という意味であり、「入れる」と同義である。「混ぜて」も「入れて」「寄して」「寄せて」と同様の部類に入る。共通語形は「入れて」である。大阪府を中心とする関西地方で調査したからであろう、「寄して」「寄せて」が相当数回答されている。
 「混ぜて」の形を回答した地域は次のようである。大阪府(摂津市、大阪市淀川区、南河内、東大阪市、尼崎市、豊中市、八尾市、堺市、吹田市、富田林市、寝屋川市)、滋賀県(近江八幡市、甲賀郡)、兵庫県小野市、奈良県奈良市、京都府。
 さらに、少数例だが、方言形が出てきている。「まして」が南河内、堺市、奈良(当麻町)、「まいて」が奈良として回答されている。「かてて」という形は大分県からきている学生が答えたものである。「かてて」は今では古語となった「かてる」(混ぜるの意)であり、「かてて加えて」という慣用的表現に残っている。
 語形の点で特徴的なのは、「いーれーてー」「よーしーてー」「よーせーてー」と音を伸ばして発音されることが多いことである。このように発音することによって、遊んでいる子どもたちにはっきりと聞こえ、親しみの気持ちも込められる。「まぜてまぜて」と繰り返すこともある。「よして」と言って聞こえないときは「よしてーな」と言い、さらに「よしてーや」と、より強く望む気持ちを表すこともある。すぐに聞き入れられないときには「入れてぇゆーてるやん」と訴えることもある。
 子どもの生き生きとした言葉遣いがうかがわれる。
(2014年2月13日)

[1573]新・ことばの路地裏 第358回「なまじ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年02月06日 (木) 05時07分

第358回 なまじ
 たぶん小学校の5年生か6年生の時だったのではないかと記憶している。国語の教科書に、黒船来航のことを扱った教材があった。その中に「なまじ応砲などして」うんぬんという表現があった。話の内容はほとんど忘れてしまっているのだが、この表現は半世紀にわたってはっきりと覚えている。先日、グーグルで検索してみたらヒットした。
 福沢諭吉の『福翁自伝』の一節にあった。読んでみると黒船来航ではなく、咸臨丸でアメリカに渡ったときのことである。咸臨丸がサンフランシスコの港に到着すると、祝意を表(ひょう)して陸から祝砲を打つというのだ。原文は次のようである。
 ********************************
 着港になれば指揮官の職として万端差図(さしず)する中に、かの祝砲のことが起(おこっ)た。ところで勝の説に、ソレは迚(とて)も出来ることでない、ナマジ応砲などして遣(や)り傷(そこな)うよりも此方(こちら)は打たぬ方が宜(い)いと言う。(『新訂福翁自伝』p.112「米国人の歓迎祝砲」岩波文庫)
 ********************************
 教科書にあったのはこの箇所だったのではないか。
 「なまじ」という副詞は「なまじっか」の形でも理解しているが、自分で使うことはほとんどない。理解語彙の一つだと言ってよい。なぜこんなに鮮明に覚えているのか。時々口ずさむ歌の一節に出て来る。村田英雄が歌ってヒットした「人生劇場」の中に「義理がすたれば この世は闇だ なまじとめるな 夜の雨」とある。この歌は作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男として昭和34年(1959年)4月に出て、世に知られるようになった。筆者が10歳、小学校4年生になる年で、この年に家にテレビが来た。村田英雄の歌は「王将」(昭和36年(1961年))とともによく流れてきていたと思う。
 「なまじとめるな夜の雨」と「なまじ応砲などして」とが奇妙に合体して副詞「なまじ」の使用例として自分の中で記憶にとどめられている。
(2014年2月6日)

[1572]新・ことばの路地裏 第357回「まんざらじゃない」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年01月30日 (木) 04時37分

まんざらじゃない

 気になる表現があった。見慣れない、聞きなれない表現である。
 「〜でもない」という形式の慣用的な語句に、「ほかでもない」「縁起でもない」「ろくでもない」「とんでもない」「屁でもない」「言うまでもない」「まんざらでもない」「なんでもない」などがある。これらは「も」を「は」に置き換えて表現すると、違和感をおぼえたり、存在しない表現になったりする。
 逆に「出る幕ではない」「言わないことではない」「たまったものではない」「捨てたものではない」などは、「は」を「も」に置き換えて表現すると存在しない表現になったり違和感を覚えたりする。
 問題にしたいのは「まんざらじゃない」である。元の形にすると「まんざらではない」となる。自分の知識の中では「まんざらでもない」と、「も」を使う。ところが、次のような表現を目にしたのである。

 以前から、50回目の出場となる今回限りの引退を表明していた北島(注:三郎)さん。終演後に「若い皆さんから『新しい紅白』が生まれると思います」と、紅白の未来について期待を込める一方で、「若い子たちに『かっこいい』といわれた。まんざらじゃないな」と語り、笑みをのぞかせるなど終始満足そうな表情を浮かべていた。
 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140102/ent14010216040008-n3.htm

 言い間違いかと思って検索してみると、使用例があった。「アメリカ娘もまんざらじゃないわよ」(曲名)「毎日生きるのもまんざらじゃないなって思えてしまった」(mojokosan.doorblog.jp/archives/35087318.html‎ )「三冬に撃たれ叩かれた若侍どもも、痛そうな顔をするが、まんざらではないらしい。」(『剣客商売』)。ただ、「アメリカ娘も」「毎日生きるのも」「若侍どもも」のように、表現中に「も」が出てくるのが面白い。北島さんの発言も、「そういわれるのもまんざらじゃないな」とすると落ち着くような気がする。
 「ではない」と「でもない」を比べると、「は」の場合は全部否定、「も」の場合は部分否定といった差があるように思われる。「そうではない」と「そうでもない」はそうだ。ただ、「まんざら」は語源が明確ではなく、何が否定されるのかが不明確だ。否定形式はとっているけれども、否定しているわけではない(わけでもない)。むしろ肯定していると言える。北島さんは「若い子たちに『かっこいい』と言われてうれしかった」のだろう。それをストレートに言わないで「いやではなかった」といった意味合いを込めて「まんざらじゃない」と表現したのかもしれない。
(2014年1月30日)

[1571]新・ことばの路地裏 第355回「里海」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年01月16日 (木) 05時41分

里海

 「里海」は最近発行された『三省堂国語辞典 第7版』に未登録の語である。生まれてまだ日が浅いと思われる。『デジタル大辞泉』を調べてみた。

 里海 人の手が加わることによって自然環境が保たれ、かつ生産性が高められている海岸部。里山の概念を海に当てはめたもの。

 既存の「里山」を元に造語されたものだと分かった。
 里山の語は、かつての同僚が里山の保全問題を扱っていたことから知るようになった。宅地等への開発が進んで、次第に消えていく傾向にあるようだ。
 海や海辺は自然のままにあるものだが、これに人の手を加えて自然環境を保ち、かつ生産性を高めるものとして位置付けるものが里海だということになる。
 環境省のホームページに説明があった。

 里海とは、「人手が加わることにより生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域」のことです。
 http://www.env.go.jp/water/heisa/satoumi/01.html

 由来については「平成10年に柳哲雄教授が『人手が加わることにより、生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域』と定義。」と説明されている。
 「里海(さとうみ)とは」
 http://www.env.go.jp/press/file_view.php?serial=11797&hou_id=9961

 里海は平成10年生まれ、今年で16歳になる語だ。『三省堂国語辞典』には、次回の改訂版で載せてほしい。
(2014年1月16日)

[1570]新・ことばの路地裏 第354回「整わない表現」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年01月09日 (木) 03時17分

整わない表現

 「ゲストの方がおいでいただきました」のように首尾がねじれたり、「さあ、ここからどんな展開になるかどうか」のような2か所の疑問表現や、「わたしはこの場面ではダブルプレーを取りにいくでしょうねえ」のような表現は、話し言葉ではよく聞かれる。その場で訂正するのも必要がないくらい、リアルタイムでは不自然さを感じない。
 ところが書かれた表現では反省したり内省したりする余裕が出てくるので、変だという気持ちが残ることがある。特に新聞記事にそういう表現を見つけると、校閲はどうなっている? と不審を抱く。
 こんな表現があった。

 民主党の前原誠司元外相は4日収録のTBS番組で、安倍晋三首相や閣僚の靖国神社参拝に関連し、「何らかの形でA級戦犯を分祀(ぶんし)し、外交問題化にすべきではない」と述べた。(MSN産経ニュース2014.1.4)
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140104/stt14010417320003-n1.htm

 ここで「外交問題化にすべきではない」に注目する。変だとの印象を持つ。助詞の「に」を削除して「外交問題化すべきではない」と表現するか、「化」を削除して「外交問題にすべきではない」と表現するか。どちらかにしたほうが適切だ。
 「外交問題」自体は動作性の概念を持たない名詞である。「外交問題化」となると動作性の概念を帯びた名詞になる。名詞として振る舞えば「外交問題化が懸念される」「外交問題化を取りざたする」「外交問題化に発展する」といった表現が可能になる。動作性の概念が顕著になると「する」を付けてサ変動詞になる。要するに、「外交問題化」という名詞として用いるか、「外交問題化する」というサ変動詞として用いるか、どちらか一つになる。
 このような整わない表現が、校閲を経ていると思われる新聞記事として出てくることに首をかしげるのだが、この例は発言を引用している点に特徴がある。前原元外相の発言を正確に引用したのであれば、文法的な問題はわきにおいて、正しい表現である。発言を多少変形して引用したのであれば、引用ミスである。
 発言内容を正確に引用することはもちろん大切なことだが、疑問のある表現だと気づいていれば適切な形式に整えて引用することも大切である。
(2014年1月9日)

[1569]新・ことばの路地裏 第353回「冷え切る」と「冷め切る」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年01月02日 (木) 05時59分

「冷え切る」と「冷め切る」

 人が住まない冬の家の廊下はとても冷たい。冷たさが足元から上に伝わってくる。家全体が冷え切っているのだ。真夏のビールは「よく冷えてますよ」と言われるのが美味しい。しかし、冷え切ったビールはどうだろう?
 熱くて飲めないお茶なども少し時間を置くと冷めて飲めるようになる。しかし、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」の一節、「別れの朝 ふたりは さめた紅茶 のみほし」の「さめる」は味気ないものだろう。二人の関係が冷え切ったのか冷め切ったのか。
 『デジタル大辞泉』には「冷え切る」の項はあるが、「冷め切る」の項はない。「冷え切る」も「冷め切る」も「愛情・熱意などがすっかりなくなる。」(デジタル大辞泉「冷え切る」)という意味を持ち、「冷める」の意味にも「高まっていた感情や興味が衰えたり薄らいだりする。」(デジタル大辞泉「冷める」)というのがある。だとすれば、「冷め切る」を立項してもよさそうなものなのに、それがない。不思議。
 「冷め切る」にこんな例があった。

 夫婦で金第1書記の後見人を務めてきたが関係は既に冷め切っていたとされ、9日の張氏の解任発表では「複数の女性との不適切な関係」も理由に挙げられた。(共同)
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/131209/kor13120916180005-n1.htm

 この例のように、「冷め切る」はごく日常的に使われると思うのだが。
(2014年1月2日)

[1568]新・ことばの路地裏 第352回「筋合い」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年12月26日 (木) 07時22分

筋合い

 「はず」「わけ」「つもり」などの形式名詞は決まった文末形式を持っている。一つは「だ」を付ける用法で、「山田さんが司会をするはずだ」「作業はこれから本格的な段階に入るわけだ」「8時までには帰るつもりだ」などとなる。もう一つは否定表現だ。これには、「だ」を否定にする「はずではない」「わけではない」「つもりではない」などと、形式名詞に「が」を付けて否定する「はずがない」「わけがない」「つもりがない」などがある。
 2種類の否定表現は意味が異なる。例えば「山田さんが司会をするはずではない」と「山田さんが司会をするはずがない」のように。「はずがない」「わけがない」「つもりがない」といった表現は、可能性や予定などをはなから否定する、完全否定の勢いを持っている。「はずではない」「わけではない」「つもりではない」などと言うと腰が引けているという印象を持つ。
 ところで、「筋合い」という名詞、これも形式名詞的だが、自分の頭の中には固定的な用法がある。「なになに{する/される}筋合いはない」という形式だ。これを「だ」を否定にした「筋合いではない」という形式にすると、いささか違和感を覚える。
 こんな表現があった。

 ・閉会後は知事が各会派へあいさつに回るのが恒例だったが、公明が「疑惑が解明されておらず、あいさつを受ける筋合いではない」と拒否。中止となった。
 http://www.asahi.com/articles/TKY201312130462.html?ref=com_top6_1st
 ・【甘口辛口】マー君175球に日本中感動! 米国人が口を出す筋合いではない
 http://www.sanspo.com/etc/news/20131105/amk13110505000000-n1.html

 理解できなくはないけれど、違和感がある。「あいさつを受ける筋合いはない」ときっぱり表現した方がよい。断固たる態度を表すことにもなる。「米国人が口を出す筋合いではない」は、この文脈では筋が通っているようにも思えるが、「米国人に口出しされる筋合いはない」とすると、ピリッと引き締まる。
(2013年12月26日)

[1567]新・ことばの路地裏 第351回「水泡になる」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年12月19日 (木) 05時51分

水泡になる

 「同じ釜の御飯を食べた仲」とか「ひざにきずを持つ」とか「顔の皮が厚い」とか「熱にうなされる」とか。慣用句をちょっと間違えると不自然な表現になる。「計画が水泡になる」という表現を目にした。正しくは「水泡に帰する」である。「帰する」という動詞は日常的に自由に使われるものではなく、慣用句的な用法の中で限定的に使われるものである。そのために、意識から遠のいているのだろう。「失敗に帰する」「責任を部下に帰する」のようにも使う。硬い表現である。
 つい最近発行された『三省堂国語辞典 第7版』を見てみた。「水泡」と「帰する」は、文体の分類で「文章語」としている。文章語というのは、「文章などでよく使われ、話しことばではあまりつかわれないことばです」と説明されている。また、「古語ではありません。あくまで、現代の文章や会話の中に見いだすことのできることば、つまり現代語の一部です」とも説明されている。
 文章語としての「水泡」「帰する」は、漢語に由来するものである。これを和語にすると、「水の泡になる」となる。「水泡になる」というのは、もしかしたら「水泡に帰する」と「水の泡になる」とが混交したものだろうか。
 「水の泡になる」というのも慣用句的な表現である。『三省堂国語辞典 第7版』の「水」の項目を見ると、「水の泡」が慣用句として出ていて、「せっかくの計画も水の泡だ」という例を示している。「水の泡になる」という慣用句的な動詞表現を名詞表現にしている。「台無しになる」を「台無しだ」とするのに似ている。少し性質が違うが、「了解しました」を「了解です」と表現することもある。しかし、さすがに「水泡になる」は「水泡だ」にはならない。
(2013年12月19日)

[1566]新・ことばの路地裏 第350回「恐妻家と恐妻」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年12月12日 (木) 02時51分

恐妻家と恐妻

 恐妻家といえば妻に対して頭が上がらない夫のことである。大正時代にはできていた言葉のようだ。
 「恐妻家」の「恐妻」は、語構成の点で、動詞「恐」と名詞「妻」が、妻を恐れるという意味で結合している。これは当然すぎるくらいに知られている事柄だと思われる。
 ところが、この規則に合わない例を目にした。

 恐妻ぶりで知られる松居(注:一代)は過去に、女優からのメールを発見し、嫉妬で怒り狂って船越(注:英一郎)の携帯を鍋で煮たことが週刊誌で報じられたことがある。
(Yahooニュース デイリースポーツ2013年11月25日
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131125-00000074-dal-ent

 この例の「恐妻」は形容詞「恐」が名詞「妻」を修飾する「恐ろしい妻」という意味である。同じ漢字が使われているにもかかわらず、意味が異なるの。このような例は初めて見たと思う。調べてみると、たいてい「恐妻ぶり」という形で使われている。こんな例があった。

 友達の奥さんは、私から見てもかなりな恐妻なのです。http://okwave.jp/qa/q597517.html

 恐妻家の主語は夫だが、恐妻の主語は妻である。
 恐妻家にはほほえましさを感じるが、恐妻には恐ろしさを感じる。
(2013年12月12日)

[1565]新・ことばの路地裏 第349回「すずしい光景」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年12月05日 (木) 20時04分

すずしい光景

 時代は古いが「すずしい」という形容詞の、今は使われていない語義の使用例を目にした。11月3日付の「産経抄」。もとは「産経新聞」11月1日付の「正論」で、文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司さんが書いていた「明治の『すずしい精神』想起せよ」を紹介したものである。新保さんは島崎藤村の『夜明け前』から引用して次のように述べている。

 「帝が群臣を従えてこの辺鄙(へんぴ)な山里を歴訪せらるるすずしい光景は、街道を通して手に取るように伝わって来た」と「光景」に「すずしい」と形容する印象的な表現をしている。「すずしい」とは、澄んでいてすがすがしいという意味であり、明治とは本質的に「すずしい」時代であった。

 『夜明け前』の原文は第二部下で、「山里をも」と「も」が付いている。(青空文庫)
 「すずしい」を『デジタル大辞泉』で調べてみると、語義の一つに「すがすがしく、きっぱりしている。」とあり、「言葉すずしく述べる」という例文が挙げてある。このような使い方は、現在ではまず見られないだろう。しかし、「明治とは本質的に『すずしい』時代であった。」と形容されると、「すずしい」の語義が拡散してしまう。『夜明け前』の「すずしい光景」は、群臣を従えて辺鄙な山里を歴訪する帝の巡幸にこそふさわしい。
(2013年12月5日)

[1563]お悔やみ申し上げます 投稿者:西村謙之助

投稿日:2013年12月01日 (日) 12時16分

 ご母堂さまの訃報に接し、驚いています。
倉吉高校(現倉吉東高)4回生で関西鴨水会の西村謙之助です。
吉市天神町の隣り近所に自宅があった頃、教員仲間の親同士が
懇意にさせて頂いていました。

 ここ、数年館は拙宅の宅地を駐車場として介護の方に使って
もらっていました。
 本年当初まで電話をさせていただいておりましたがご高齢ながら
しっかりとした口調で話されていました。
 心からお悔やみ申し上げます。

 

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[1564]ありがとうございます投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2013年12月01日 (日) 21時11分
西村謙之助様
お悔やみのお言葉をいただきましてありがとうございます。

[1562]新・ことばの路地裏 第348回「ってなる」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年11月28日 (木) 04時57分

ってなる

 若い人のおしゃべりを聞いていて耳に残る表現がある。「ってなる」である。「って」というのは引用の印で「と」に同じ。なになにとなる、という表現は、なになにになると比べて、若干固い印象を持つ。しかし、「って」となるとくだけた感じになる。
 この形式で引用されるのは、驚きとか感嘆といったこころの変化や感情を表す表現である。インターネットで検索してみると、以下のようなものが出て来る。

 「声優sugeeeeeeeeeeeってなったアニメのシーン」「一番ドット絵sugeeee ってなったゲームは」「オープニングかっけえええってなったゲーム」「カ、カッケェェエェェェッ!ってなった画像」「イラっとなった」「海KOEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEってなる画像貼ってけ」「・・・ふふ」ってなった画像はってけ」「「あっ、俺死んだわ」ってなった出来事書いてけ」「あれっ?てなった」「って聞いたら女が『チガ?ウ』って言ったから、他の店員とえっ…ってなった。」「『あー負けそうまぁいいか』ってなった時にセーブしたか覚えてなかった時」など。

 このように見てくると、感覚的な発話内容や心内発話がそのまま引用されていることが分かる。「ってなる」の「って」と「なる」の間に、「気持ちに」「感じに」「気分に」「雰囲気に」といった句が省略されているように感じる。それがないために、「ってなる」に、いささか舌足らずな印象を持つ。しかし、かといって、簡潔なので、うまい表現だとも感じる。一人や二人が使っているのではなく、かなり普及している表現なのだろう。
(2013年11月28日)

[1561]新・ことばの路地裏 第347回「映り込む」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年11月21日 (木) 05時09分

映り込む

 「ひかり」や「たたみ」のように動詞から派生した名詞がある。現象や動作が事物を表している。「片づける」から派生した名詞は「片づけ」だが、これは事物ではなく動作を表す。このように動詞から名詞へという道筋をたどることができる語は多い。
 ところが、名詞の形はあるのに、元になっていると考えられる動詞が、なくはないものの、普通に使われているとは思われないものがある。例えば、「いいがかり」の元となった「言いかかる(言いがかる)」や「通りすがり」の元となった「通りすがる」などは、名詞の形で使うのが一般的だ。
 こんな表現を見つけた。
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 15日、衆院厚生労働委員会で社会保障プログラム法案が強行採決されたとき、「反対、反対」と委員長席にかけ寄る民主党の山井和則元厚労政務官がテレビの中継にしきりに映り込んでいた。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131116/plc13111607010001-n1.htm[2013/11/16 8:30:22]
 ****************
 「写り込み(映り込み)」は『デジタル大辞泉』に以下のように記述されている。
 ****************
 1 (写り込み)写真で、滑らかな器物の表面に反射した他の像や光源が、画像として撮影されること。「―を避ける撮り方」
 2 テレビ受像器やパソコンのディスプレーなどの画面に室内外の物の像が映っていること。画面が見にくくなる。「液晶モニターは―が少ない」
 ****************
 説明から察するに、写真、映像といった分野の専門用語ではないかと思う。小型の辞書には登録されていない。それはともかく、「写(映)り込み」は結果として事物等が写(映)っていることを表している。人が意図的に、あるいは意志的にそうするという意味合いは感じられない。
 ところが、引用した表現は、結果としてそうなった(映り込んだ)と解釈することもできるが、政務官がテレビ中継の画面に写る(映る)ことをもくろんでそうした、と解釈できないことはない事例だ。
(2013年11月21日)

[1560]新・ことばの路地裏 第346回「米びつ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年11月14日 (木) 07時34分

 米びつ

 こんな記事を目にした。

 「かつては『いいとも』の裏番組のプロデューサーが田辺エージェンシーの幹部とすれ違いざまに“あんまり頑張りすぎるなよ”と声を掛けられたこともあるそうです。他局が視聴率でタモリを追い抜くと番組打ち切り説が流れるので、その牽制(けんせい)なのでしょう。『いいとも』が事務所の“米びつ”であることがよくわかります」(事情通)
 日刊ゲンダイ 10月24日(木)10時26分配信
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131024-00000008-nkgendai-ent

 わざわざ“ ”で囲って目立たせている。『精選版日本国語大辞典』によると、「A生活費を供給する者、また、稼ぎ手をいう俗語。」と説明してある。歌舞伎・富岡恋山開(1798)の「此羊は俺が米櫃だ。」という例を掲げている。
 この比ゆ的な意味と似た語として「ドル箱」がある。同じく『精選版日本国語大辞典』によると、「B収入の主要な源となるもの。金をもうけさせてくれる人。また、よく売れる商品。」として、『俗語辞海』(1909)を出している。
 「ドル箱」は自分自身よく知っている語だが、「米びつ」は初めて見かけたように思う。辞書に記載されている意味はほとんど同じである。本当の「米びつ」は、備えている家庭も多いだろう。しかし、円高ドル安の時代、ドルの威光にも陰りが見える。そんな時代にあって、記事の「事情通」氏にとって「米びつ」は日常の使用語なのだろうか。「ドル箱」がすたれ「米びつ」が復権したと言えるかもしれない。
(2013年11月14日)




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