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[1607]新・ことばの路地裏 第386回「イクボス」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年08月21日 (木) 06時29分

イクボス

 最近、イクボスという言葉を知った。イケメンが先行し、そのあとゴロを合わせるかのようにイクメンが登場した。イケメンは「イケてるメン」で、カッコいい男性のこと。イクメンは育児に積極的に取り組む男性のことで、イクは育児のことである。イケメンもイクメンも語構成の観点から意味の透明度が高い。
 ところがイクボスというのは複雑な概念を凝縮してできた語であり、単純にイクとボスを足し算して理解できるような語ではない。
 NPO法人ファザーリング・ジャパンが提唱した語のようだ。次のように説明されている。
 ***************************************************************
 「イクボス」とは、職場で共に働く部下・スタッフのワークライフバランス(仕事と生活の両立)を考え、その人のキャリアと人生を応援しながら、組織の業績も結果を出しつつ、自らも仕事と私生活を楽しむことができる上司(経営者・管理職)のことを指します(対象は男性管理職に限らず、増えるであろう女性管理職も)。
 (NPO法人ファザーリング・ジャパン2014年2月18日「イクボスプロジェクト」始動!)
 http://fathering.jp/news/%E3%80%8C%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%80%8D%E5%A7%8B%E5%8B%95%EF%BC%81
 ***************************************************************
 この説明からはイクの意味がつかみにくい。NHKのクローズアップ現代(2014年6月16日放送)で「育児や介護など、部下の私生活に配慮できる上司のこと」(http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3514_1.html)と説明され、イクが育児と関係することが分かり、ボスが上司のことだと分かる。そして、イクとボスの関係も理解できるが、省略されている部分がたくさんあるので語構成の観点から説明するのはかなり難しい。
 イクメンという語を下敷きにしていることが大前提となってはいるのだが、育児だけではなく介護のことも含まれている。さらにボスが男女の別なく上司のことを表す。こうなると、イケメンやイクメンが男性だけを表していたのとは異質だということになる。イクボスという語は、おそらく当初はかなり限定的な概念だったと想像されるのだが、内容が盛りだくさんすぎて、受け皿としての語形が十分に効果を表していないことになる。
(2014年8月21日)

[1606]新・ことばの路地裏 第384回「ゆとる」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年08月07日 (木) 05時45分

ゆとる

 「ゆとり」というの語源は明らかではない。この語が動詞化することは想定外のことと思われる。しかし、「料理」を動詞化した「料る」という語がある。理(り)を連用形の活用語尾だととらえたものだ。これと同様に「ゆとり」の「り」を連用形の語尾ととらえると、基本形を「ゆとる」とする動詞が生まれる。
 2000年代の初めの約10年間にわたってゆとり教育が行われた。学校は土曜日の授業がなくなり完全週5日制となった。ゆとりを重視した学習指導要領が施行され、教科の授業時数も減少した。このような教育を受けて育った世代をゆとり世代と呼ぶ。しかし、学力の低下がこのゆとり教育の影響だととらえられ、新たな学習指導要領が策定され施行されて現在に至っている。
 ゆとり教育を受けたゆとり世代。この関係付け自体には問題はない。しかし、「ゆとり」という語はネットスラングで「『精神的に稚拙な人』を指す蔑称」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E4%B8%96%E4%BB%A3)として使われているようだ。これがきっかけでゆとりの動詞化が起き、「ゆとってる」といった表現が現れてきたと推察される。
 先日、ドラマの中でこんな会話例を見つけた。「ST赤と白の捜査ファイル」第2話(2014年7月23日22時から日テレ系)

 百合根友久(岡田将生):少しはほめてくれてもいいんですけど。
 赤城左門(藤原竜也):ゆとり世代め!
 百合根:昔のえらい人にゆってください。僕たち、好きでゆとってきたわけじゃありませんから。
(僕たち好きでゆとってきた訳じゃありませんから!!! http://masakiokada.blog.fc2.com/blog-entry-764.html

 「ゆとってきた」というのは「ゆとり世代め」とののしられたことに対して、自分の意思でゆとり教育を受けてきたわけではないと言い訳をする場面で使われている。

 こんな会話例もあった。

 草男 (略)ゆとり教育するじゃないですか。安心するじゃないですか。ゆとって育つじゃないですか。
 原田 ゆとって!(笑)
 草男 ゆとって育つじゃないですか。ゆとりな感じでいくじゃないですか。(略)
(三浦展・原田曜平『情報病─なぜ若者は欲望を喪失したのか?』角川Oneテーマ21、2009年、p.203)

 一見、肯定的なとらえ方のように聞こえるが、実は直後に否定される。
 ゆとりがある状態は好ましいけれど、ゆとり教育というフィルターを経て生まれた「ゆとる」、この動詞で表される事態は決して好ましいものではないという複雑な事情があるようだ。
(2014年8月7日)

[1605]新・ことばの路地裏 第383回「ともった」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年07月31日 (木) 05時08分

ともった

 共通語でこれに相当する形式は「と思った」である。引用の助詞「と」の母音oと動詞「思った」の語頭母音oが一つになって「ともった」の形式ができていると考えられる。動詞のテ形が補助動詞と組み合わさって「〜ている」が「〜てる」(寝てる)になり、「〜でいる」が「〜でる」(騒いでる)になる。「〜ておく」が「〜とく」(待っとく)になり、「〜でおく」が「〜どく」(積んどく)になる。このような例に似ている。
 「ともった」の形式で引用される形式は基本的に文である。平叙文と疑問文が引用される。命令文も引用されるが、これは直接的な命令行為の文ではなく、「さっさとしろ」「やんでくれ」のような心の中で願う気持ちを表す願望の文である。
 過去形の「ともった」があるならば他の形式もあるかと言えば、ほとんどない。非過去形の「ともう」は、内省してみても不安定だ。希望の「ともいたい」、仮定の「ともえば」、命令の「ともえ」などはあまり使われないと思われる。ただ、仮定でも「ともったら」の形は使いそうだ。
 書きことばで「ともった」となるのはたいてい「灯がともった」の例である。「と思った」の例の「ともった」は、話しことば専用であり、かつ、文字化されにくい形式だと考えられる。なぜ文字化されにくのだろうか。もしかして方言的な形式ではないかともったりする。
(2014年7月31日)

[1604]新・ことばの路地裏 第382回「老人」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年07月24日 (木) 04時24分

老人

 老人福祉法は65歳以上の人の「心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を講じ、もつて老人の福祉を図ることを目的とする」法律(昭和三十八年七月十一日法律第百三十三号)である。昭和38年(1963年)といえば、東京オリンピックの前の年、筆者が14歳、中学2年生の時である。この当時、65歳の人は、中学生の目から見て紛れもなく老人であり、祖父母も、おじいさん、おばあさんと呼ぶのにまったく抵抗がなかった。
 しかし、今日の高齢化社会において、65歳は老人と呼ぶのにちゅうちょする年齢だといえよう。筆者は約一か月前に満65歳に達した。介護保険の適用を受ける年齢であり、これ以前には給与から控除されていた介護保険料を、自前で納付しなければならなくなった。その保険料の月額は、65歳以前の2.7倍である。
 老人福祉法が生きているかぎり、この扱いは避けることができない。
 「村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん」という童謡「船頭さん」(竹内俊子作詞、河村光陽作曲)は昭和16年(1941年)の作品である。還暦を迎えた60歳は老人として尊敬されたと思われる。
 井上ひさし作『ナイン』の一節にこんなことが書かれている。少年野球団の監督をしているビリヤード屋の大将が、「暑気中りを起こしてひっくり返ってしまった」、それは「六十を四つも五つも過ぎていたんだから、これは責められない」(講談社文庫版)と。東京タワーができた昭和39年(1964年)の出来事を回想する設定である。この時代にあっても、65歳は体力的に無理のきかない年齢として捉えられている。
 暑気中りは今でいう熱中症に相当するものだろうが、何も65歳でなくてもかかるものだ。しかし、老人は特に注意が必要だ。
 気分の上ではまだまだ老人の仲間入りをしたくないと思うが、老人福祉法の適用を受ける年齢になったということはしっかり理解しておきたい。
(2014年7月24日)

[1603]新・ことばの路地裏 第381回 ○○所の読み方 ショかジョか 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年07月17日 (木) 05時09分

○○所の読み方 ショかジョか

 ○○所という形の語の読み方は、音読みの場合、ショかジョか、どちらかであり、場合によって、ショともジョとも読むことがある。
 保育所の読み方にはホイクショとホイクジョの両方があった。ほかの語ではどうだろう。『デジタル大辞泉』を使って「しょ」の後方一致検索でざっと調べたところでは、ジョで終わるものもヒットし、約200語あった。このうちショのものが約160で、残りの約40が濁音のジョだった。ショともジョとも読むものが7語あった(預かり所、御茶所、勧化所、閑所、見所、三所、本所)。ほとんどが古い語で、現代語ではショかジョのどちらかにほぼ定まっているように思われる。
 ところが、個別に見てみると、辞書の見出し語の発音と自分自身の発音とのあいだに差があったり、もう一方の発音もすることがあるといった例があることに気づいた。
 測候所、研究所、停留所、収容所、出張所、診療所、製鉄所、療養所、保養所、保健所は見出し語としてはショの読みとなっているが、個人的にはショと読んでも違和感を覚えない。西日本といった地域的なものがあるのだろうか、世代的なものだろうか。所の読みに清音が多いということの影響を受けてジョと読むものも清音で読むようになったという個人的な事情も考えられる。
 7月16日のNHKニュース7で武田真一アナウンサーが「ケンキューショ」と清音で発音した。『NHK日本語発音アクセント辞典』は「ケンキュージョ」で、「〜ショも」と付記している。武田アナウンサーは熊本市の出身のようだが、これが関係しているのだろうか。
(2014年7月17日)

[1602]新・ことばの路地裏 第380回「保育所」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年07月10日 (木) 04時49分

保育所

 さて、この語をどのように読むのだろうか。読み方は2通りある。「ほいくじょ」と「ほいくじょ」である。この施設は児童福祉法に次のように規定されている。

 第三十九条  保育所は、日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳児又は幼児を保育することを目的とする施設とする。

 残念なことに読み方が記されていないために「所」をジョと読むかショと読むか明確ではない。そこで手元の辞書を引いてみた。

 「ほいくじょ」を見出しとする辞書
 『新明解国語辞典』第5版、『三省堂国語辞典』第7版(語釈末尾に「ほいくしょ」))、『明解日本語アクセント辞典』(1979年)、『新明解日本語アクセント辞典』(2001年)、『三省堂現代新国語辞典』(第3版)(語釈末尾に「ほいくしょ」)、『三省堂現代国語辞典』(第2版)(語釈末尾に「ほいくしょ」)、『例解新国語辞典』三省堂(第5版)、『現代国語例解辞典』小学館(第2版)

 「ほいくしょ」を見出しとする辞書
 『岩波国語辞典』第6版、『明鏡国語辞典』(第2版)、『新潮現代国語辞典』((語釈末尾に「ほいくじょ」)、『日本国語大辞典』(第2版)、『大辞林』(第3版)、『デジタル大辞泉』

 ここから、三省堂の辞書は、『大辞林』を除いてすべてジョだということが分かる。「ほいくじょ」を見出しにする辞書で、語釈のあとに「ほいくしょ」ともいうことを記しているものが3種類あるが、逆の「ほいくしょ」を見出しにして「ほいくじょ」を注記扱いにしているものはない。
 いったいどちらが主流なのだろう。子どもたちが通っていたところは市立の施設で「ほいくしょ」と呼んでいた。アクセント辞典では平板型か尾高型だが、我が家では低低低高または低低高低で発音していた。この異例のアクセントでは「ほいくじょ」とは発音しにくいように感じる。
 ジョかショか。所の読み方には固定的な語もあれば、両方の読み方が行われているものもある。これは改めて調べてみなければならない。
(20140710)

[1601]新・ことばの講座 第379回「アクセント」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年07月03日 (木) 04時43分

アクセント

 生まれ育った鳥取県倉吉市はアクセントの点で東京式アクセントの地域に分類される。ただし、東京のアクセントではない。京阪式アクセントとは明らかに異なっている。
 小学校の低学年のころから唱えてきた掛け算九九の一つひとつは語だろうか、句だろうか。はたまた文だろうか。語でないことは明らかだ。というのは、例えば6×5=30という式を「ロクゴサンジュー」と唱える。この時、クとサにアクセント核がある。つまり、ゴとンの部分で音が下がる。語にはアクセント核が一つあるか、一つもないかのどちらかであり、アクセント核が2つ存在することはない。「ロクゴサンジュー」にはアクセント核が2つあるので、語ではないということになる。「ロクゴ」と「サンジュー」の2語が結合した句と考えられる。句が独立して表現されていると考えればよい。
 しかし、ロクゴサンジューには6掛ける5は30だ、という文相当の意味が含まれているから文のような句だと考えることもできる。
 九九はインイチガイチに始まってククハチジューイチに至るまで、一の段から二の段、次いで三の段のように順番に唱えて覚えた。各段は全体として、平板ではあるがイントネーションのような音調が伴っている。句としてのアクセント、段全体のイントネーションは長年変わらず唱えている。
 秋永一枝さんの過去の論文(「日本語の発音─イントネーションなど」『講座日本語教育』第2分冊、早稲田大学語学教育研究所、1966年)を読んでいて、アクセントが自分のものと異なっていることを知った。秋永さんが「かけ算口調」と仮称している記述の中に「ニニンガシ」があった。これのアクセントが句頭のニと句末のシにアクセント核があることを示していた。これには驚いた。東京人は(秋永さんは東京は両国の生まれ)そう唱えるんだ。筆者は句頭のニを低く、2拍目のニを高く発音する。ニサンガロク、ニシガハチ、ニゴジューは同じだった。
 今さら変えることもないけれど、還暦を過ぎるまで東京のアクセントを知らずに生きてきた。このような九九は人前で唱えることがないから知らないままで過ぎてきたのだろう。
(2014年7月3日)

[1600]新・ことばの路地裏 第378回「とは思います」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年06月26日 (木) 04時31分

第378回 とは思います

 同僚から聞いて以来、注意して聞いていると、インタビューに対する回答を述べるとき、「〜とは思います」という表現があちらこちらで聞かれることに気が付いた。「〜と思います」というのが無色の表現だとすると、「は」が入った表現は、引用内容を際立たせて強調する勢いを持った表現である。そして、背後に、その内容を否定する気持ちが含まれているという印象を持つ表現である。つまり、「〜とは思います。しかし、必ずしもそうではありません。」といった対比性を帯びている。
 先日、聞こえてきたのをメモしておいた、こんな表現がそれに該当する。

 せいぜい楽しみたいなとは思っています。

 どうして直接的に「(せいぜい)楽しみたいと思っています」と言わないのか。「せいぜい」の用法も気になるところだ。「な」も、過剰だと感じられるほど多用される。「思っています」は「思います」と比べて自分の思いを客観化した形式である。総じて、この用例は、よく言えば自分の気持ちを冷静に分析した感想、悪く言えば冷めた、他人事(ひとごと)のようにみなした感想だと言えるのではないか。
 レトリックとして客観を装うというのも分からないではない。インタビューに対して主観を抑えて回答するという姿勢も、必ずしも悪いわけではない。しかし、「〜とは思います」とか「〜とは思っています」のような、「は」を入れた表現を聞くと、なんだかなあ、と嘆きたくなる。
(2014年6月26日)

[1599]新・ことばの路地裏 第377回「声を大にする」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年06月19日 (木) 08時22分

第377回 声を大にする

 「声を大にする」というのは慣用句である。したがって、実際に声を大きくしなくても、強調するという態度があれば使用することができる。しかしながら、小さな声であっては意味がない。たいていは「声を大にして」の形で動詞を修飾する用法である。修飾される動詞は「言う」「主張する」「訴える」といった、相手に対して意見等を表明し伝達する意味を表すものである。単に発話するというだけでは使えない。例えば「おしゃべりする」「話す」「談笑する」「語る」などは被修飾語にはなりにくいと考えられる。
 自分自身が使った記憶が乏しいので内省ができにくいので、どんな表現があるのか、国会会議録検索システムで検索してみた。
 「言う」「叫ぶ」「申し上げる」が多く出てくる。また、「強調する」「警告を発する」「説明する」「要求する」「要望する」「力説する」などもある。珍しい使い方だと思われるのが「今勝間田委員が声を大にして私をなじられますけれども」(昭和34年2月10日、衆議院予算委員会、岸信介国務大臣)という例で、これらは文字通り大きな声を出しているのだろうと想像できる。直前の勝間田清一委員の発言内容は「あなたは総裁としての責任を果すべきである。同時にその上に総理としての責任を果すべきだ。どうしますか。二大政党の話し合いがそこで成立しますか。」のように詰め寄る勢いのものである。
 声を大にするというのは声を荒げる、怒気を含んだ声になるというのではない。切実感や緊迫感を伴って事態の実現、成立を願う態度を表しているのである。
(2014年6月19日)

[1597]新・ことばの路地裏 第375回 国語辞典の最後の見出し 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年06月05日 (木) 05時26分

第375回 国語辞典の最後の見出し

 国語辞典はたいてい五十音順に項目が配列されている。最初はどの辞書も「あ」で始まる。最後はどんな見出しだろう。
 小型の国語辞典を見てみよう。『新明解国語辞典 第7版』は「けちんぼ」「あかんぼ」「かくれんぼ」などに見られる造語成分「んぼ」である。『岩波国語辞典 第7版』はそれを「んぼう」として登録している。『三省堂国語辞典 第7版』は感動詞の「んーん」である。『三省堂国語辞典』は「んぼ」に相当する造語成分を「ぼ」として載せている。
 同じ辞書でも最後の見出しは版によって変わっている。『三省堂国語辞典』を見ると、初版が「んず」、第2版が接続助詞「ので」の俗語形の「んで」、第3版から第6版までが感動詞の「んんん」(表記は「んーん」)で、第7版で「んーん」の形を見出しにしている。
 ところで、「んーん」はどのように記述されているのか、興味がある。

 @ひどくことばにつまったときや、感心したときなどの声。うーん。A〔女/児〕〔二番目の音(オン)を下げ、または、上げて〕打消しの気持ちをあらわす。ううん。

 〔女/児〕というのは女性語及び児童語という分類を表す。第6版までは女性語だけを認めていた。〔二番目の音(オン)を下げ、または、上げて〕という発音上の注記は秀逸である。
 五十音順で「んーん」より後に位置する語はもはや存在しないだろう。『岩波国語辞典』は「ううん」の形を見出し語としているが、『新明解国語辞典』にはこれに相当する形が見当たらない。
(2014年6月5日)

[1596]新・ことばの路地裏 第374回「デート」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年05月29日 (木) 04時51分

デート

 Facebookの記事に、デジタル大辞泉の「デート」の記述が話題にされていた。

「男女が日時を定めて会うこと。『恋人と―する』」と書かれている。「日時を定めて会う」は必要な条件だろうかとか「何となく出かけて、何となく食事をしたり、買い物をした場合は【デート】に当てはまらなくなるのでは?」といった疑問が出ている。(https://www.facebook.com/Daijisen/posts/678468068866064

 小型の国語辞典を数点調べてみた。デートの主体は「恋人」(三省堂国語辞典)、「愛し合う男女」(新明解国語辞典)、「(親しい)男女」(岩波国語辞典)、「異性」(明鏡国語辞典)などである。異性であることで共通している。その関係が恋人、愛し合う、親しいなどと工夫されている。三省堂国語辞典では「夫婦でデートする」を用例に出している。
 デートの用例を調べてみると、主体が母親と娘の場合もある(「今日はママとデート」)。ドラマで母と娘の役で共演した二人の場合もあった(「小泉ママとデート」)。夫婦でデートというのは当たり前のことだと思われる。
 基本的には異性の行動である。その関係を恋人とか親しいとか限定するとはみ出る部分があるので、異性というのが無難だ。ただ、母と娘という場合もあることを注記する必要はあるだろう。
 各記述で気になるのは「会うこと」としている点である。会うこと自体がデートの目的ではない。会って、映画を見たり食事をしたり遊園地で遊んだり買い物をしたりして楽しい時間をすごすことがデートの中身である。「会って楽しむこと」と規定しておくのがよい。
 以上のことから、次のように定義する。

 主に異性が(時間と場所を決めて)会って楽しむこと。「夫婦でデートする」「ママとデート」「デートの約束」

(2014年5月29日)

[1595]新・ことばの路地裏 第373回 「全然」の用法をどう評価するか 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年05月22日 (木) 04時20分

「全然」の用法をどう評価するか

 副詞「全然」の用法について、飯間浩明さんは、「『全然』の下は否定形で結ぶのが伝統的」というのは、都市伝説(根拠のない噂話)であることが、ほぼ定説になってい」ると述べている。(『三省堂国語辞典のひみつ』三省堂、2014年、p.36)
 この「定説」を国語辞典はどう評価しているのか。小回りのきく小型国語辞典3種(三省堂国語辞典『三国』、岩波国語辞典『岩国』、新明解国語辞典『新明解』)を調べてみた。
 『三国』第7版(2014年)では、打消しを伴う用法や完全にという意味での用法について、戦前からともに使われた、戦後打消しを伴う用法が特に広まった、と歴史的背景を説明し、程度を強調する用法(「いつもの授業とちがって全然楽しかった」)や、質問に対する応答の用法(「この服、変じゃないかな」「ううん、全然かわいいよ」・「行ってもいいですか?」「全然来てください」)を話し言葉として認めている。
 『岩国』第7版(2009年)では、すっかり、全面的に、の意での用法(「心は全然そこに集中していた」「全然同感だ」)のうち、非常に、断然の意に使うのは誤用であると評価している。
 『新明解』(2012年)では、「古くからあった否定表現を伴わず、『非常に』の意を表わす用法も最近は多くなった」と、現象の広がりを認め、特に評価を与えてはいない。
 このように、三者三様の扱いが観察される。三つのうち『岩国』第7版の刊行が、一番古いのだが、次回の改訂─4、,5年後であろうか─で「誤用」の評価が消えるかどうか、興味深い。
(2014年5月22日)

[1594]新・ことばの路地裏 第372回 独断と偏見 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年05月15日 (木) 05時00分

独断と偏見

 二つの語「独断」と「偏見」を接続する形式として並立助詞「と」「に」「や」「やら」「だの」「か」などがある。このうち、もっとも多数の例が観察できるのが「独断と偏見」である。「偏見と独断」のように語順を入れ替えた例も、多くはないが、観察される。「独断と偏見」は慣用的な組み合わせと言ってもよさそうな座りの良さが感じられる。
 国会会議録検索システムを利用して第1回国会から最近のものまでを対象に「独断と偏見」を検索した。その結果、81件89例がヒットした。
 使用例を整理してみると、大きく二つの用法にまとめることができる。一つは用例数がほぼ半数の44例あったもので、発言者自身のこととして「私の独断と偏見」などと表現される。自分の意見が客観的ではないかもしれないという体裁をとって控えめに意見を述べるという気持ちを込めたものである。公の場での発言だから「独断」と「偏見」を額面通りに受け取るわけにはいかない。
 こんな例があった。

 ・あなた方内局は、このごろユニホームにどうも押されっぱなしであるという私は確固たる独断と偏見を持っておるんですが、その議論はしませんが。(昭和55年11月27日 参議院 内閣委員会 秦豊議員の発言)

 「確固たる独断と偏見」を持っているという、持論の表明における修辞的用法の極みともいえるだろう。

 もう一つは「独断と偏見に満ちた報告書」とか「独断と偏見に基づく不当な中傷」といった形式を使って意見や判断などの内容を批判するものである。これには修辞的なニュアンスはなく、客観性を持たない判断であり、バランスを欠いた偏った意見、つまり偏見であると断じるものである。
 さらに矛先が「大臣の独断と偏見である」とか「当局が独断と偏見でやってきた」として第三者や相手に向かう場合には痛烈な批判となる。次のような例があった。

 ・それは大臣の独断と偏見ではないか。(中略)これは大臣の独断と偏見である。(「国民的コンセンサスを見出しつつある今日、」こう言われているのは、それは大臣の独断と偏見ではないか。(中略)決して国民的コンセンサスを得ている問題ではない。これは大臣の独断と偏見である。(昭和59年7月5日 衆議院社会労働委員会 池端清一委員の渡部恒三国務大臣に対する質疑))

 ・それは全く事実と反しますし、ちょっと言葉遣いは悪いですが、先生の独断と偏見だと思います。(平成5年2月17日 衆議院予算委員会 小沢一郎証人の高沢寅男委員に対する答弁)

 「偏見」という語には差別といった意味合いを感じてきたのだが、「独断」と結びつくとその意味合いは感じられない。
(2014年5月15日)

[1593]新・ことばの路地裏 第371回 酒癖、とぎ汁、頭突き 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年05月08日 (木) 04時34分

酒癖、とぎ汁、頭突き

 二つの語が複合するとき、後項要素の語頭音が濁音になることがある。これを連濁と呼ぶ。本と箱で本箱(ほんばこ)、谷と川で谷川(たにがわ)、段々と畑で段々畑(だんだんばたけ)などのような例がある。
 連濁になるものだとばかり思っていた語が、かならずしもそうではなかったことを知った衝撃は大きい。
 『NHK放送研究と調査』2011年7月号に、太田眞希恵「『のど』は“イガラッポイ”?“エガラッポイ”?〜語形のゆれに関する調査(平成22年8月)から〜」(注)(pp.64-83)という論文がある。この中で、「『酒癖』『とぎ汁』は連濁形が圧倒的多数,『頭突き』は清音へと変化中」という項目がある。
 『NHK日本語発音アクセント辞典』は1951年版以降すべての版(1966年版、1985年版、1998年版)で「トキ゜シル」という非連濁のみを掲載してきたというのである。国語辞典を中心とする他の辞書(昭和30年代以降の刊行)では、「『戦後昭和』の時期には濁音形『トギジル』を主見出しで掲載する辞書はなかった」(p.64)。平成22年に実施した「語形のゆれに関する調査」では、非連濁形の「トギシル」が12%、連濁形の「トギジル」が87%という結果が出ている。「汁」を後項要素とする複合語が「とぎ汁」と「みそ汁」以外はすべて(18語)連濁形であることが影響を与えたのかもしれないと推測している。とはいえ、非連濁形が主見出しに掲げられてきていたことが驚きであった。
 「酒癖」についても、アクセント辞典ではすべて非連濁形の「さけくせ」を掲載している。それが調査では、非連濁形が6%で、サケグセという連濁形が93%という結果であった。
 「頭突き」は相撲用語では「ズズキ」の形を採用しているが一般語は清音でアクセント辞典に掲載している。調査では「ズツキ」が71%、「ズズキ」が28%だった。ただし、年代差があるとしている。「『ズツキ』と発音する人は、60歳以上では62%だが、20代では87%と、若い年代ほど清音が多い」(p.66)と指摘し、「今後は『ズツキ』という清音形へと収れんしていくものと考えられる」(p.66)と予測している。地域差については「北海道では『ズツキ』と発音する人が83%いる一方で、四国では55%であった」(p.66)として図を載せている。使っているワープロの変換では「zutuki」と入力すると頭突きに変換する。
 自分自身は「とぎ汁」と「酒癖」は多数派で、「頭突き」は相撲用語として理解して使用していたようである。
(注)http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2011_07/20110706.pdf
(2014年5月8日)

[1588] 投稿者:ぽん子

投稿日:2014年05月03日 (土) 15時00分

 インターネットの動画で「むすびすし」のCMを視聴しました。確かに安田成美さんは「むすびずし」と言っているように聞こえますね!「す」か「ず」か、完全にはわからないような感じでうまくやり過ごしています。
 私が清音に違和感を覚えたのは「ちら〜しずし〜な〜ら」というサブちゃんのフレーズ(こちらは永谷園の寿司太郎)が耳になじんでいるからかもしれません(^^;  あるいは「むすびすし」は、Sの音が多いなあと感じたからか・・・。
 一点お教えいただきたいことがございます。「『回転寿司』と書いてあれば間違いなく連濁で」、「複合語の後項要素になると連濁でも非連濁でも読め」るとのことですが、「回転寿司」の「寿司」は複合語の後項要素とはみなされないのでしょうか?  

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[1589]投稿者:ぽん子
投稿日:2014年05月03日 (土) 15時10分
操作を誤り、返信のつもりがスレを立ててしまいました。「1588」が新たな書き込みとなってしまい、大変申し訳ありません。

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[1590]複合語の後項要素の連濁投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2014年05月04日 (日) 07時26分
ぽん子さん
説明が舌足らずだったようです。回転寿司寿司は後項要素です。寿司が後項要素になる複合名詞は圧倒的に連濁形が多いです。間違いなくと言ったのは明確な根拠があるわけではなく、印象です。

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[1591]ありがとうございます投稿者:ぽん子
投稿日:2014年05月05日 (月) 01時17分
 ご教示くださり、ありがとうございます。
稲荷寿司、押し寿司、柿の葉寿司、熟れ鮨、巻き寿司、祭り寿司、蒸し寿司、ばら寿司、鯖寿司、鮒寿司・・・、私自身は全部濁って「ずし」と発音しています。

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[1592]投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2014年05月05日 (月) 18時47分
ぽん子さん
連濁形になる鮨が圧倒的多数ですね。

[1585]新・ことばの路地裏 第370回「回転寿司」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年05月01日 (木) 05時13分

回転寿司

 大きな辞書には探す語が必ず出てくると信じている人がいるかもしれないが、決してそんなことはない。辞書が発行された年以後に発生した語は当然ながら登録されていない。ちなみに、回転寿司は『日本国語大辞典』第4巻(1973年7月1日第一版第一刷発行)には載っていない。かつて、「過疎」の語を調べようと国語辞典を調べたが出ていなかったといって苦情を述べる記事を読んだことがある。
 回転寿司という語が『三省堂国語辞典』に載ったのは2008年1月10日発行の第6版からである。研究社『新和英大辞典』第5版(2003年7月発行)には「回転」の小見出しとして「回転寿司 a conveyor belt sushi bar」と出ている。
 回転寿司の形態は1958年に初めて大阪に登場したそうだ。しかし、回転寿司という用語はまだできていなかった。形態と呼称が全国に普及するのは1990年代末期以降かと思われる。
 それはさておき、辞書の見出しには「かいてんずし」のように濁音化した形が載っている。この文章をここまで読んできた方もおそらく濁音化して「かいてんずし」と黙読しているだろう。
 ところが、表記の面では「回転すし」と書いてある店が多いと、塩田雄大さんが書いている。(『放送研究と調査』2012年11月号「ことば言葉コトバ」欄、p.15「『回転すし』から、思うこと。」)また、飯間浩明さんも、『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか?』(携書、2013年)の中で、「酢たこ」「真たこ」「新巻さけ」「銀さけ」「ズワイかに」「たらばかに」などのように、濁点のない表示が多いと観察し、「どうも、濁点がないのは、あくまで文字の上だけのことのようです。」(p.68)と述べている。先日、晩ご飯を食べに入った店で季節のもの「目には青葉山ほととぎす初鰹」の初鰹を食べた。メニューには「初カツオたたき」「初カツオ塩たたき」などとカツオが清音で書かれていたが、声に出して注文するときには「はつがつおしおたたき」と発音した。
 先日買った豆腐の名前が「グラサンドーフ」とカタカナで表示してあった。しかも連濁を生じていた。めずらしいと言うべきか。
(2014年5月1日)

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[1586]投稿者:ぽん子
投稿日:2014年05月03日 (土) 02時51分
 こんばんは。路地裏ウォッチャーの一人、ぽん子です。毎週、楽しく勉強させていただいております。
 私も「回転すし」は表記と発音が違うなあと感じておりました。「ずし」にすると「寿司」の意味がとりにくい(一瞬、立ち止まる)し、たとえ濁点がなくてもみんな勝手に濁音で読むだろうとの理由で、視覚的に「すし」であることを選んだのかな?となどと思っておりました。
 ところが、最近、テレビのCMで連濁になっていないものを見(/聞)きました。安田成美さんが出ているミツカンの寿司酢のCMです。酢飯でおむすびを作りましょう、と呼びかけているのですが、明らかに「むすびすし」と言っています。歌も流れていて、その中でも「むすびすし」が連呼されています。連濁の方が言いやすく、聞きやすいと感じるのですが、清音の「すし」です。視覚の方に引っ張られたのでしょうか? それとも言いにくい「すし」の方が歌の中ではおもしろく響くと思われたのでしょうか? 初めて聞いたときはショーゲキを受けました。「グラサンドーフ」とは真逆の現象ですよね。

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[1587]投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2014年05月03日 (土) 06時27分
ぽん子さん、おはようございます。いつもご覧いただきまして、ありがとうございます。
「回転寿司」と書いてあれば間違いなく連濁で「かいてんずし」と読みますよね。漢字の「寿司」はやんどくでは「すし」ですが、複合語の後項要素になると連濁(のほうが多いと思いますが)でも非連濁でも読めます。仮名表記であれば、かな文字なので清音で読むことになるのでしょう。しかし、「すし」という仮名表記が漢字の「寿司」と同じ機能(音だけでなく意味も表す)を持っていると理解すれば、「回転すし」と書いて「かいてんずし」と読んでもよいという理屈が成り立ちそうです。
「むすびすし」というのは知りませんでした。cmを聞いてみました。たしかに清音の「むすびすし」ですね。でも、発音しにくいとは感じませんでした。冒頭の安田成美の発音は連濁形に聞こえた(レッツむすびずし)のですが、錯覚でしょうか。

[1584]新・ことばの路地裏 第369回「液状化」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年04月24日 (木) 04時04分

液状化

 この言葉を初めて知ったのは1995年1月17日に発生した阪神大震災のときである。神戸市のポートアイランドで液状化現象が発生しているというニュースだった。地面がどろどろになったポートアイランドの映像がテレビ画面に映し出されていた。液状化とは「地震などの振動によって地盤が液体のような状態になること」(デジタル大辞泉)である。
 この現象は1964年6月16日の新潟地震(大きく傾いたアパートの写真を覚えている)のときにも生じたそうだ。
 この語を国会会議録検索システムで第1回国会から検索したら、1962年から現在までの間で403件ヒットした。その中で、1962年4月19日の参議院農林水産委員会での例は次のものである。
 「農薬の種類により、今後粉剤から液状化してくる」(斎藤誠政府委員)という例である。これは、農薬の空中散布において粉剤から液体状のものに変わってくる可能性を述べたものである。
 また、こんな例もあった。
 「アイスクリームとかパンとか菓子類、これはほとんど添加糖を加えまして液状化してあるわけです」(1963年2月11日、衆議院決算委員会、鈴木繁男説明員)
 液体化するという意味である。
 この2例以外は地震による地盤の液状化のことを言ったものと考えられる。その最初の例は1964年7月3日の衆議院災害対策特別委員会における久田俊彦説明員の発言で、新潟地震を受けてのものである。
 国会ではこの例に始まって、以来、多数、使用されている。
 ところが、ごく最近(4月8日)、この語が比ゆ的に使われている例を知った。

 渡辺代表辞任で「政界が液状化する」と維新議員(見出し)
 維新の会の馬場伸幸衆院議員は「政界全体が液状化していくのではないか」と語った。
 http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140408-OYT1T50020.html?from=ytop_main2

 「デジタル大辞泉」にこの用法が記述されていることから、かなり以前から使われていると思われる。うかつなことであった。「(比ゆ的に)活動の拠り所となる組織の支持力が衰えること。また、社会にさまざまな動きが生じ。不安定になること。」(デジタル大辞泉)と説明されている。このような用法は国会議員が使うようになったのか、マスコミが初めに使ったのか。いずれにしても、地震の影響による深刻な被害を表す液状化の語を、国会議員が国会の外で比ゆ的に使うというのは、どういう神経なのか。
(2014年4月24日)

[1583]新・ことばの路地裏 第368回「するようにしてください」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年04月17日 (木) 05時42分

するようにしてください

 小学校高学年のころの思い出である。校内放送で放送部員が児童を呼び出すときに「〇〇さん、職員室に来るようにしてください」という表現を使っていた。これは定型化していると思われるくらい頻繁に使われていた。その都度(というのは大げさだが)「行くように努力しさえすればいいんだな。結果として行かなくてもいいんだな」と屁理屈を心の中でつぶやいていた。「下校時間になりました。帰るようにしてください」といった放送もあったように覚えている。
 最近、森山卓郎著「『ようにする』命令形の文と『ように』型指示文」(『日本語学』2014年4月号、vol.33-4)という論文を読んだ。これによると、次のように指摘されている。

 「ようにする」命令形の文は、「ように」節の状況を一つの状況のタイプとしてとりあげ、その実現を要求する命令文である。(p.48)

 このことから、発話時に限定された現場性、緊急性を持つ「行きなさい」「行ってください」といった命令文とは違って、「脱現場性」(森山の用語)の命令文だということになる。子どもなりの屁理屈もあながち間違っているとは言えない。とは言え、このような表現が使われたのは、婉曲的な表現にして強制的なニュアンスを抑制する効果があると考えられる。
 放送部員が教員の代わりに指示をしているということを考慮に入れると、児童の口からは「職員室に来なさい」「職員室に来てください」などの直接的な命令文は使いにくいと思われる。教員が直接放送するなら、高圧的、威圧的な響きを持つ「職員室に来なさい」「帰りなさい」といった形式が使われるだろう。
(2014年4月17日)

[1582]新・ことばの路地裏 第367回「破る」と「破く」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年04月10日 (木) 07時12分

「破る」と「破く」

 「破る」と「破れる」とは、それぞれ他動詞と自動詞として、形態的にも意味的にも対応関係がある。また、「破る」の類義語に「破く」がある。「破く」は「破る」と「裂く」とが混交してできた語だとされる。そして、他動詞「破く」に対して自動詞「破ける」が形態的にも意味的にも対応している。
 「破る」は子どものころから使っていたが、「破く」は長じてから使うようになったと思う。いつごろだったかはっきりとは覚えていないが、大学生のころからだったかと思う。「破く」を使うときには、個人的な印象だが、ちょっと気取った感じを伴っている。ところが、「破る」の自動詞「破れる」は、これも子どものころから使っているのだが、「破く」の自動詞「破ける」も、子どものころから使っている。「破ける」の使用に当たって気取った感じはなく、俗語的な印象で使っているようだ。
 個人的な語感で、「破く」が気取った感じ、「破ける」が俗語的というのは、形態的、意味的な対応関係にあると思われる一対の語としてはアンバランスである。もしかしたら「破く」の使用に気取った感じを伴うのはきわめて個人的な事柄なのかもしれない。
 「破る」と「破く」、「破れる」と「破ける」は類義関係にあるのだが、それは具体的な事物に関する場合であって、抽象的な事物の場合には「破く」と「破ける」は使えない。「破る」の対象となる抽象的な事物として「約束」「おきて」などがあるが、これらには「破く」が使えない。「破れる」の対象となる抽象的な事物として「夢」「競争」「結婚」「均衡」などがある。これらには「破ける」は使えない。
 こういった使い分けは何歳のころからできるようになったのだろうか。
(2014年4月10日)

[1581]新・ことばの路地裏 第366回「最高よな。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年04月03日 (木) 06時04分

最高よな。

 終助詞を複合して使う例に「わね」「わよ」「わよね」「わな」「よね」「よな」などがある。動詞「行く」を例にとると、「行くわね」「行くわよ」「行くわよね」「行くわな」「行くよね」「行くよな」などとなる。形容動詞「最高」を例にとると、「最高だわね」「最高だわよ」「最高だわよね」「最高だわな」「最高だよな」「最高だよね」などとなる。ところが、形容動詞の場合、「だ」を省いて「最高よね」「最高よな」と表現することもできる。名詞の場合も「面白い映画よね」「面白い映画よな」となる。
 「最高よね」「面白い映画よね」という表現は、主に女性が使う形式だと思われるが、「最高よな」「面白い本よな」という表現は、男女ともに使う形式で、砕けた会話場面で使われるようだ。
 自分自身の使い方を振り返ってみると、「最高だよな」「面白い映画だよな」は使うと思うが、「最高よな」「面白い映画よな」という表現は、使った記憶がない。「だ」を入れないと落ち着かない気がする。
 「やっぱ聖闘士星矢って最高よな(プチレビュー)」という使用例があった。(http://ioh.blog50.fc2.com/blog-entry-347.html)「よね」と違って「よな」の場合は独白調といったニュアンスが感じられる。対話の場合なら相手は対等の関係だろうと思われる。
(2014年4月3日)




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