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ことばの講座

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[1481]新・ことばの路地裏 第286回「せっせと編んだだよ」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年09月20日 (木) 05時33分

せっせと編んだだよ

 「かあさんの歌」という歌がある。この歌は筆者が小学生のころ、名古屋で大学生活を送っていた叔父が帰省した折に歌っていて聞き覚えたと記憶している。1956年の作品だそうだ。歌詞の一節に「(手袋を)せっせと編んだだよ」という表現がある。どこの方言だろうと気になっていた。
 筆者の故郷、鳥取県倉吉市の方言でも「行っただ」「飲んだだ」のような言い方がある。共通語では「言ったのだ」「飲んだのだ」のように「のだ文」になるのだが、倉吉市方言では「の」が入らない。過去形だけでなく「行くだ」「飲むだ」のように非過去形にも、「の」を介さず、直接「だ」を付ける。丁寧表現は「行ったです」「飲んだです」「行くです」「飲むです」のようになる。
 「かあさんの歌」の歌詞と共通するように思われる。しかし、他の部分の歌詞「もすぐ春だで」のような理由表現「だで」は倉吉方言にはない。
 あれこれ調べていると、この歌は窪田聡作詞・作曲ということを知った。窪田さんは1935年、東京の生まれだが、「戦時中、長野県信州新町の実父の実家に疎開」(ウィキペディア)していたそうだ。信州の方言に「編んだだ」のような表現があるらしい。「だで」もそうらしい。窪田さんが幼少期に疎開先で覚えた方言が歌詞に使われているのではないかと推測される。
(2012年9月20日)

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[1488]バーバリーブルーレーベル 通販投稿者:バーバリーブルーレーベル 通販
投稿日:2012年11月06日 (火) 17時29分
今日は~^^またブログ覗かせていただきました。よろしくお願いします。

[1487]新・ことばの路地裏 第292回「御意」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年11月01日 (木) 04時52分

御意

 10月18日に始まった木曜ドラマ『ドクターX~外科医・大門未知子~』(テレビ朝日系、中園ミホ脚本)を見ていて驚いた。もはや古語だと思っていた語が使われていたのである。「御意」。
 『日本国語大辞典』を引いてみると、鎌倉時代、江戸時代の語だと分かる。用法は3つに分類され、古い順に①「相手を敬ってその考えや気持をいう語。お考え。おぼしめし。みこころ。」、②「主君や貴人などの仰せ。おさしず。ご命令。」、③「(「御意のとおり」の意から)目上の人の意見や質問などにたいして、同意を示したり肯定したりするのに用いる。転じて、感動詞的にも用いる。ごもっとも。そのとおり。」とされている。③の用例として江戸時代の噺本の「御意でござります」と森鴎外の『最後の一句』の「御意でござりまする」があがっている。
 『ドクターX』の第1話で、久保院長の「彼以外でも手があいてる者は見学してください」との指示に対して、隣に並ぶ鳥居外科部長が院長に顔を向け、頭を下げて「御意承りました」と応じ、次いで寺山事務長と半田事務次長もともに顔を院長に向け頭を下げながら「御意」と答える場面がある。白い巨塔と言われる大学病院の権力構造を象徴している。
 『新潮文庫の100冊』を検索すると、『国盗り物語』『山椒大夫・高瀬舟』『焼跡のイエス・**懐胎』『放浪記』『羅生門・鼻』に③の用法の「御意」の用例が合計16例見られるが、感動詞的用法は『国盗り物語』に次の1例があるだけである。
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 義竜は待ちかねたように、
「おう、はやばやとよう来た。いま鷺山にいる佐久間七郎左とそちとは同郷のうまれであったな」
「おおせのとおりで」
「顔見知りか」
「御意」
「さればたばかって、七郎左をこの稲葉山城下につれてこい。事情はこうじゃ」
 と、お勝騒動の一件を話した。
 *************************
 さて、この古語然とした「御意」、ドラマの第2話でも冒頭から「御意承りました」「御意」と連発された。日常会話ではまず使われない表現であるにもかかわらず、大学病院という特殊ともいえる環境で頻繁に使用させることで、流行語にしたいといった目的でもあるのだろうか。
(2012年11月1日)

[1486]新・ことばの路地裏 第291回「善しにつけ悪しきにつけ」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年10月25日 (木) 04時55分

善しにつけ悪しきにつけ

 前衛短歌というのがあるが、総じて詩のほうがことばや景色を操作し、善しにつけ悪しきにつけ、何かモノをいうことを念頭に置かなければならない。(井坂洋子「原詩生活」4 ことばの莟『ちくま』№499,2012.10,p.34)

 「善しにつけ悪しきにつけ」というのは見慣れない言い方だ。正しくは「善きにつけ悪しきにつけ」だ。なぜこのような表現が出来たのだろう。
 古語の形容詞にはク活用とシク活用とがある。ク活用の例として「寒し」「低し」「易し」「遠し」などがある。その連体形はそれぞれ「寒き」「低き」「易き」「遠き」などである。シク活用の例として「悪(あ)し」「美し」「悲し」「寂し」などがある。その連体形はそれぞれ「悪しき」「美しき」「悲しき」「寂しき」などのように、必ず「し」が入る。
 古語の形容詞の特徴として終止形と連体形が異なる形になるということが言える。そして、連体形が名詞として働くことがある。例えば、「水が低きに就く」「易きに流れる」のような慣用的な表現にそれが見られる。
 「~につけ」という形式は「~につけて」と同じで、名詞及び名詞相当語句に付く。「何かにつけ」「うれしいにつけ、悲しいにつけ」「聞くにつけ」などの言い方がある。この場合、「うれしい」「悲しい」「聞く」は名詞相当語句である。
 このような決まりが意識されなくなったのだろう。「善し悪し」という言い方があるので「善し」が単独で名詞のように振る舞うという誤解が生まれたのだと解釈できる。インターネットで検索してみると、「善し(良し)につけ悪しきにつけ」という形式が少なからずヒットして驚いた。自然の変化だとみなして放置することもできるけれど、井坂洋子という、筆者と同い年の詩人が書いた文章に出てきたので驚きの度合いも大きい。
(2012年10月25日)

[1485]新・ことばの路地裏 第289回「俺がだいてやる」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年10月11日 (木) 04時30分

第289回 俺がだいてやる

 文字面からすると「抱いてやる」の意味に取れ、場合によってはセクハラ発言になりかねない。しかし、これは富山県の方言では有名で、方言番付で東の小結の地位にある。「奢(おご)ってやる」という意味だ。
 「おごってやる」と「だいてやる」との間に、どんな関連があるのか、共通語のルールでは分かりにくいだろう。実は「だいて」は「出いて」と書き、「お金を出してやる」「お金を払ってやる」という意味である。ここに、サ行五段活用動詞のイ音便という共通語にはないルールが関係しているのである。
 鳥取県倉吉市では子どもの遊びに「蜂がさいた」というのがある。二人が向かい合って、手の甲を出し、順番に甲をつまみながら、イチがさいた、ニがさいた、サンがさいた、と続け、ハチがさいたのところでブンブンブンブンと言いながら蜂が襲うマネをするのである。「さいた」というのは「刺した」のことであり、ここにもサ行五段活用動詞のイ音便が現れている。
 このようなイ音便の現象は、調べてみると先の富山県、そして倉吉市のほかに、出雲、長崎、佐賀、石川、岐阜、愛知、南信州、遠州などの記録があるようだ。よく例に出てくるのは「出いた」「さいた」である。
 これまでこのタイプのイ音便は地方における進化形だと思っていた。五段活用動詞は語末の音によって9種類(9行)に分かれるが、サ行だけ音便がない。このことから地方でそれが使われ、すべての行で音便が成立するのだと見なしていた。しかし、事実はそうではなく、かつて存在したサ行五段活用動詞のイ音便は廃れたのだということを論文で知った。
 依田恵美(2005)「中央語におけるサ行四段動詞イ音便の衰退時期をめぐって」(注)(『待兼山論叢 文学篇』39)という論文である。これによると、「中央語においてサ行四段動詞イ音便は『さす』を除き17世紀半ば頃に衰退したと考えられる」とのことである。この論文で中央語というのは京阪地方を指す。ここで使われていたものが九州や中国、東海に伝播し、現在、方言として残っているということである。ただし、若年層では廃れていて、高年層に残っているということのようだ。
(2012年10月11日)
(注)http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/8955/1/KJ00005352939.pdf

[1484]新・ことばの路地裏 第288回 弱(じゃく)(接尾語) 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年10月04日 (木) 05時33分

第288回 弱(じゃく)(接尾語)

 接尾語「弱」は「端数を切り上げたとき、数を表す語の下に付けて用いる」(デジタル大辞泉)もので、「500人弱の聴衆」は例えば実際には492人だが、端数の92を切り上げて500にするものである。また、20万円弱の給料は20万円には達しない額である。一方、「強」は「数量を表す語に付いて、実際はその数よりも少し多いことを表す。数の端数を切り捨てたときに用いる」(デジタル大辞泉)ものである。「500人強の聴衆」といえば、500人を少し上回る、例えば510人くらいの聴衆を指す。20万円強の給料は、20万1300円くらいを指すだろう。これは常識だと思っていた。
 ところが、こんな例に出くわした。
 グラフの数値が41.0なのに、解説に「16~19歳では(ア)を選択した人の割合が4割弱となっており、」と記述されていたのだ。(平成23年度国語に関する世論調査の結果の概要pdf版p.19)
 常識的に言えば、41.0は4割強となるはずである。
 「4割弱」の使用例を検索してみた。
 38.1%を4割弱、4割近くと表現した例があり、37%、38%、39.2%はいずれも4割弱と表現されていた。40を超える数値に4割弱と表現した例は、ざっと検索した限りでは見つからなかった。単なる間違いだと思いたい。世論調査の書籍版が出るのを待って確認したい。
(2012年10月4日)

[1483]新・ことばの路地裏 第287回「斜めに言う」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年09月27日 (木) 04時31分

斜めに言う

 珍しい言い方を聞いた。NHKドラマ『眠れる森の熟女』(脚本、篠﨑絵里子)第2回(2012年9月11日放送)の中でのセリフである。
 既婚者の銀行員の相沢浩史(羽場裕一)が中学の同級生で雑誌編集者の森山春子(森口瑤子)とSNSで知り合い、妻に離婚してほしいと申し出る。こんな発端でドラマが始まり、相沢が森山の部屋でうたたねして起きた場面である。
  ******************************
  森山:あー、起こしちゃったー。ご飯できてるよ。
  相沢:あー、ごめん。寝ちゃった。
  森山:疲れてるんだよ。せっかく仕事早くおわったんだから、早めに家に帰ってゆっくり寝たら。
  相沢:大丈夫だよ。
  森山:無理しないでね。
  相沢:してないよ。
  森山:じゃなくて、離婚。わたしさあほら、一度離婚してるじゃない。夫よりも仕事を選んだ女なわけですよ。それが今さら人さまの家庭を壊してまで幸せを手に入れようなんて、虫が良すぎるっていうかさあ。前に占いに行ったらね、あなたはもうけものみちを突き進んでるんだから、まっとうな人生はあきらめなさいって言われちゃった。まあ女一人で生きていく覚悟は出来てたわよ。でも、そんな言い方されなくてもねえ。
  相沢:本気で言ってるの。そうじゃないなら、そうやって、(右手を肩あたりに上げて斜めに振り下ろすような動作で)斜めに言うのよそうよ。おれ、ひどいことしてるって自覚してるよ。でも幸せになりたいから森山と一緒にいたい。昔の気持、自分でもびっくりするほど消えてなかったから。もし森山が同じように思ってくれてるなら、逃げないでよ。ちゃんと幸せになろうと思おうよ。
  ******************************
 「斜めに言う」というのは、真っ直ぐに言わない、つまり本音や正直な気持ちを隠して話している状態、斜(しゃ)に構えた言い方を表していると考えられる。初めて耳にする表現である。インターネットで検索してもヒットしない。似た言い方に「(物事を)斜めに見る」があると思うが、このような見方や考え方で物を言うということで理解したい。今後、同様の表現があるかどうか、観察していきたい。
(2012年9月27日)

[1480]新・ことばの路地裏 第285回「マジガチ本気」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年09月13日 (木) 05時02分

マジガチ本気

 ドラマ『トッカン 特別国税徴収官』(第5話 日本テレビ系 2012年8月15日)を見ていて自分にとって新しい表現を耳にした。
 場面は婚活パーティー。
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 鍋島木綿子(鈴木砂羽):意外にいいメンツ揃ってるでしょ?
 涼宮深樹(井上真央):意外です。木綿子さんがこういうとこ来てたなんて。(鍋島が顔をそむける)結婚したいっていうのは聞いてましたけど。
 鍋島:(怒ったようにワイングラスを、音を立ててテーブルに置いて涼宮に向き、険しい表情に強い語気で、しかし周囲には聞こえないように)マジガチ本気よ。焦ってんのよ。(鼻で大きく息を吸い、はき出す)
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 「マジ」も「ガチ」(「ガチンコ」の短縮)も知っていたが、二つ続けるのは初耳だった。いずれも、本当に、真剣にという意味を表し、述語「本気」の程度を強調している。険しい表情に強い語気で発話していることが程度の強さを物語っている。
 「本気よ」の部分でイントネーションが若干上昇調になっている。これは直前の涼宮の発言内容「結婚したい」に対する強い肯定を表している。「マジガチ本気で結婚したい」という関係を表していると考えられる。少し間(ま)を置いて「焦ってんのよ」と発話している。これは「のだ文」であり、「木綿子さんがこういうとこ来てた」こと、すなわち「自分が婚活パーティーに来ている」ことの理由を表している。
 わずか15秒弱の映像だが、たくさんの情報に満ちている。
(2012年9月13日)

[1479]新・ことばの路地裏 第284回@なんだかの理由」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年09月09日 (日) 18時38分

なんだかの理由

 語源がはっきり理解できないためなのか、音の似た、間違った語形で使っている言葉がある。
 小学生のころ(1960年前後)、教科書を読むときに、ダ行音をラ行音に間違えて、特にドをロと発音する同級生がいた。コドモをコロモと発音し、ジドウシャをジロウシャと発音する類である。「なんらか」を「なんだか」と発音して使うのは、この逆である。同級生の例は子どものころにありがちな誤用で、やがて修正されるのだが、「なんだか」の例は成人の誤用であり、正しいと思い込んでいるフシもあり、指摘されるまでは直らないと思われる。
 「なんらか」は「なんら」に「か」が付いた形である。「なんら」は「何ら」である。「ら」は接尾語だが、意味がはっきりしない。このあたりに誤用が生じる理由があるのかもしれない。
 「なんだか」は、原因や理由や事情がはっきりとは分からない状態を表している。このような不明確な状態での原因や理由や事情といった意味合いで「なんだかの原因」「なんだかの理由」「なんだかの事情」というような言い方が生まれたのではないかと想像されるのである。
 ところで、「なんら」は、「問題はない」とか「関係はない」のように、否定表現といっしょに使い、否定を強調する副詞である。この場合には「ら」が「だ」に言い間違えられることはない。つまり、「なんだ問題はない」「なんだ関係はない」というような言い方は観察されないのである。
 にもかかわらず、「なんらかの」のほうは「なんだかの」と言い間違えられる。不明確だという意味と、ラ行音とダ行音とが似た発音だという事情が相まって生じたのではないかと考えられる。
 「願わくは」を「願わくば」と言い間違えたり書き間違えたりすることがしばしばある。間違いだと認識しない人も多いと思われる。多くの人が間違った形を使うようになると新しい語形として認知されるようになる。これと同様のことが「なんだかの」にも適用される日が来るかもしれない。
(2012年9月6日)

[1477]新・ことばの路地裏 第283回「てんで」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年08月30日 (木) 04時08分

てんで

 否定表現と呼応する副詞「てんで」が肯定文に使われる例がある。
 金田一春彦がかつてこんなことを言っている。
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 たとえば昔の人は「てんで」とか、「ぜんぜん」という言葉は「てんで物にならない」とか、「ぜんぜんなっていない」と打ち消しに言ったけれど、今の人は「てんでおもしろい」「ぜんぜんいい」などということを言う。(金田一春彦「日本語は乱れているか」p.9、講談社ゼミナール選書『変わる日本語 現代語は乱れてきたか』1981年)
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 「ぜんぜん」が肯定表現とともに使われることは今ではよく知られている。これに対して「てんで」の場合は否定表現との呼応はよく知られているが、金田一が指摘するような「てんでおもしろい」という表現はあまり知られていないのではないかと思われる。
 『新潮文庫の100冊』を検索したところ、「てんで」の用例が45例あった。このうち、明らかに否定形式と呼応するものが33例ある。肯定文での使用だが否定的な内容を表すものとして、「てんで鈍い」(3例、すべて山本周五郎『さぶ』)、「てんでダメ」(2例、いずれも曾野綾子『太郎物語』)、「てんでだらしがない」(井上ひさし『ブンとフン』)、「頭はてんで旧式」(『太郎物語』)のような例がある。
 これらに該当しないものは程度を強調する用法である。使用例は多くはないけれど、以下の例があった。「てんで嘘っぱち」「てんで口実なんだ」(いずれも『太郎物語』)、「ぼくのお粥まだ? こちとら、もうてんでお腹がすいちゃったい!」(北杜夫『楡家の人びと』)
 こういった「てんで」は筆者自身、ほとんど使わないものである。使用例から推測すると、東京では使われているもののようだ。
 ただ1例、用法がうまく説明できない例があった。「第一彼の頭に日本画と西洋画の区別などがてんであったかどうかも疑わしい。」(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』の中の「鉄斎」)これは「疑わしい」を修飾しているとみなせば否定的内容を修飾する肯定文となる。しかし文中の位置が離れている。あるいは、「てんから」と同じ意味・用法を持っている例だと理解するなら、「{あたまから/最初から}あったかどうか」という関係として解釈できる。自分ではまったく認識していない用法である。
(2012年8月30日)

[1476]新・ことばの路地裏 第282回「女子大生の日」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年08月23日 (木) 04時49分

第282回 女子大生の日

 8月16日は女子大生の日だそうだ。由来を調べてみた。
 大正2年(1913)8月16日、東北帝国大学(現在の東北大学)が4人の女子の受験を認め、3人の合格を発表した。今から99年前のことである。
 ところが、この当時はまだ女子大生という用語はなかった。学生といえば男子だけの時代である。そこへ女子が入ってきたのだから女子学生という用語が生まれてもよさそうだ。しかし、女子学生という用語がいつから使われだしたのかははっきりしない。
 女学生というのは旧制の高等女学校の生徒のことであるから、大学に学ぶ女子の学生ではない。筆者が大学生だった1969年から1973年の期間に女子大生という用語が使われていたり実際に使っていた記憶が乏しい。女子学生と呼んでいたと思う。
 そこで、『新潮文庫の100冊』を検索してみた。
 「女子学生」は1950年代から1960年代の6作品に使用が見られた。大江健三郎『死者の奢り』(1957年)『飼育』(1958年)、吉行淳之介『砂の上の植物群』(1964年)、倉橋由美子『聖少女』(1965年)、石川達三『青春の蹉跌』(1968年)、五木寛之『風に吹かれて』(1968年)。1970年以降では渡辺淳一『花埋み』(1970年)、藤原正彦『若き数学者のアメリカ』(1977年)、曾野綾子『太郎物語・大学編』(1976年)、宮本輝『錦繍』(1982年)の4作品に見られた。
 一方、「女子大生」は1970年代と1980年代の5作品に見られた。立原正秋『冬の旅』(1975年)、曾野綾子『太郎物語・大学編』(1976年)、筒井康隆『エディプスの恋』(1977年)、宮本輝『錦繍』(1982年)、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)である。
 これを見ると、女子学生は1950年代から1960年代に使用され、女子大生は1970年代半ば以降に使用されていることが分かる。したがって、筆者の記憶もあながち曖昧だとは言えないということになろう。『太郎物語・大学編』と『錦繍』には女子学生、女子大生両方の語が使用されていることも興味深い。
 ところで、一つ気になることがあった。『花埋み』は日本で初めての女性の医師、荻野吟子(1851-1913)をモデルにした作品だが、文中に「飛ぶ鳥落す勢いの森有礼に一介の女子学生が体当りしたのだから、その意気だけは買わなければならない。」とあり、女子学生の語が使われている。しかし、荻野吟子は私立の医学校を出て医師になったのであり、女子の大学生ではなかった。筆者の渡辺は、用語の時代考証はしないで自身になじみのあった女子学生という用語をこの作品で使用したものと考えられる。
(2012年8月23日)

[1474]新・ことばの路地裏 第281回「デス族」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年08月16日 (木) 05時54分

デス族

 「デス族の氾濫」(『NHK 放送研究と調査』2012年8月号 p.87 田中伊式)という記事を読んだ。デス族の特徴のひとつは、丁寧に否定するとき、マス族が「ありません」と言うところを「ないです」という形式で表現することである。この現象については、1980年代後半に気付いた。当時は違和感を覚えたものだが、聞き慣れた。自分でも使っている。非存在だけでなく、「知りません」「分かりません」のような否定も「知らないです」「分からないです」のようにデスを使う。ただし、過去形については「なかったです」と「ありませんでした」、「知らなかったです」と「知りませんでした」、「分からなかったです」と「分かりませんでした」などについて、デス形の方がデシタ形より優勢であるとは、まだ断言はできない。
 記事によると、「本来であれば、動詞を使って表現すべきところを、『名詞+です』の形にするというのも、デス族の特徴だ」と言う。「両親に感謝しています」の代わりに「両親に感謝です」という表現を聞いて、記事の筆者は「のけぞるくらい驚いた」と述懐している。
 デス派が台頭してくると、当初は限定的な用法だったのが、広範囲の現象として現れることになる。非存在の「ないです」から、動作の否定の「~ないです」に拡大し、さらには「名詞+です」に至る。「了解です」「納得です」「オーケーです」は至極一般的に使われているだろう。駅のホームの生のアナウンスでは「急行○○行きの到着です」と言っているそうだ。これには気がつかなかった。これから耳を澄まして聞き取りたい。
(2012年8月16日)

[1473]新・ことばの路地裏 第280回「トトリコ豚」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年08月09日 (木) 06時07分

トトリコ豚

 鳥取県倉吉市のJR倉吉駅前にあるホテルのレストランで見かけた掲示。店長に聞いてみた事柄が、ホームページに書かれていた。
 ととりこ豚という名前は、韓国語で“どんぐり”を意味する「トトリ」と、スペイン語で“おいしい”を意味する「リコ」から名付けられました。(注1)
 このネーミングにはたぶん高級食材として有名なイベリコ豚が下敷きになっていると思われる。「どんぐり」を意味する韓国語のトトリと、生産地である鳥取県(大山山麓)の「とっとり」を掛けているのも面白い。どんぐりを飼料とした豚の飼育は日本では初めてだそうで、1年に100頭しか供給できない希少価値がある。
 ところで、店長と話しているとき、「トトリコぶた」という発音で話が展開していたのだが、インターネットで検索してみると、「トトリコトン」だったのだ。アルファベットでも「TOTORICO TON」と表記されている。(注2)響きがユーモラスだ。
 名称を知ったので、いつかこれを使った料理を味わってみたい。
(注1)http://www.dandan-netshop.jp/products/category.html?category_id=49
(注2)http://www.totorinet.jp/data/dpleaf.pdf

[1472]新・ことばの路地裏 第279回「大正百年」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年08月02日 (木) 05時39分

第279回 大正百年

 1968年は明治百年で賑やかだった。明治の満100歳の誕生日に当たる10月23日には政府主催の記念式典が行われた。この当時、浪人中だった筆者は、明治百年のことをよく覚えている。というのも、大学入試の日本史の問題に明治百年がらみで明治のことや百年の歴史などが出題されるのではないかといったことが受験界の話題になっていたからだ。
 明治は遠くなりにけりという句がある(注)が、明治元年からは144年が過ぎ、明治の最後の年、明治45年からでも100年が過ぎた。ということは、大正元年から数えて今年は満100年に当たるのである。大正元年は明治天皇が崩御した1912年7月30日と同日にスタートした。
 岐阜県の日本大正村というところで大正百年を祝う行事が行われたそうだ。昨年にも四日市市本町通り商店街で大正百年祭という催しがあったらしい。このように、大正百年は明治百年と違って小規模での催しであり、政府が取り組む行事もなかったのではないか。不思議なことである。残念なことでもある。
 大正といえば、大正デモクラシー、大正ロマン、大正モダンといった言葉が思い出される。比較的自由な時代だったのではないかと思われる。足かけ15年という短い期間だったせいだろうか、明治の45年間、昭和の64年間にはさまれて、存在感が乏しいようにも、平成の今日から見て、思われる。
 大正百年という言葉自体が耳目を集めなかった。しかし、確実に今年は大正百年である。そのことを記憶にとどめるためにも、「大正百年」という言葉を記しておこう。
(注)降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男(1931年の作品)
(2012年8月2日)

[1471]新・ことばの路地裏 第278回「なるほどね」と「なるほどですね」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年07月26日 (木) 05時46分

第278回 「なるほどね」と「なるほどですね」

 相手の発話内容を聞いて同意したり、または事態の推移や展開を見て納得したりするとき、「なるほど」と言う。どうということのない語のように思えるが、使い方には制限があるように思われる。
 どことなく上から目線といった空気を感じてしまう。したがって、親子ほどのように、かなりの年齢差がある年下の人にこの語で同意・納得されると違和感を覚えるのである。
 「なるほどね」や「なるほどな」の形式は、親しい間柄では問題はないだろう。この印象が「ね」や「な」がない形式にもつきまとうのだろうか。
 「なるほどですね」というのは「なるほどね」の丁寧形のように見える。丁寧形だからそれほど親しくない間柄で使われるのだろうか。上から目線的なニュアンスは伴わないだろうか。なんとなく違和感を覚える。「なるほどですね」を「なるほど、そうですね」のはしょり形だと考えれば違和感も薄らぐような気もする。
 しかしながら、依然としてすっきりしない。
 「なるほど(ね)」は確かに同意や納得を表し、時には感嘆の気持を表すこともある。しかし、同意や納得には程度差があるのではないか。全面的な同意や納得もあるけれど、いったん同意や納得をしておいて、自分の意見や考えを表明するという使い方もある。「なるほどね、君の言うことにも一理ある。しかし、別の考え方もあると思うよ」
 このような用法、いわば反論の前置きといった用法があることが、「なるほど」「なるほどね」「なるほどですね」などには潜んでいる。そこに相手が示す同意や納得を額面通りに受け取れない居心地の悪さを感じると言えないだろうか。
(2012年7月26日)

[1470]新・ことばの路地裏 第277回 「眉」を含む慣用句 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年07月19日 (木) 05時28分

第277回 「眉」を含む慣用句

 「目は口ほどに物を言う」と言う。言葉を口に出して言わなくても、その人の心の内、気持が目の表情で分かるという意味だ。「目で物を言う」「目が物を言う」「目顔で知らせる」という言い方もある。これと似た機能は眉も持っている。目の表情が、目の上にある眉にも現れるのだ。それを「眉を上げる」「眉をひそめる」「眉を曇らす」「眉を開く」などと言う。
 驚いたときに目を丸くして、それに連動して眉が上がることがある。しかし、慣用句の「眉を上げる」は、眉をつり上げることで、怒った様子を表す。「柳眉を逆立てる」というのは、美人が怒る様子を表す。
 「眉を開く」はひそめていたり曇らしていたりした眉間が開くことで、心配事などが解消して明るい顔になることを表す。「愁眉を開く」と同様の慣用句である。
 「眉を上げる」「眉を開く」「眉を曇らす」という慣用句は使った記憶がないし、見たり聞いたりした記憶もおぼろげだ。これに対して、「眉をひそめる」は使った実感がある。「顔をしかめる」と似たような表情だが、意味には少し違いが感じられる。「眉をひそめる」のは心配事や不快感の表れで、「顔をしかめる」のは主に不快感の表れだと思われる。
 ちょっと厄介なことだが、「眉をしかめる」という表現もある。自分では使った記憶が薄い。さらに厄介なことに、「ひそめる」も「しかめる」も「顰める」と書く。「眉を顰める」と書いてあるとき、どう読むのだろうと悩むときに、眉はどんな状態になっているのだろうか。
(2012年7月19日)

[1469]新・ことばの路地裏 第276回「火ぶたが落とされた」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年07月12日 (木) 05時13分

第276回 火ぶたが落とされた

 慣用句の使い方は難しい。うろ覚えのときには使うのをためらう。しっかり覚えていると思って使うと厳密には正しい使い方ではないということもある。
 言葉は長い間、いろんな人に使われているうちに形式や意味が変わることがある。これは仕方のないことである。変わったあとの形式や意味を、一般的なものだと理解しているときにはそれを堂々と使うことになる。
 「決戦の火ぶたが落とされました」という表現があった。(東照二『選挙演説の言語学』ミネルヴァ書房、2010年、p.18)
 違和感を覚えた。
 そもそも「火ぶた」というのは「火縄銃の火皿の火口をおおうふた」(デジタル大辞泉)のことで、「火ぶたを切る」という慣用句は、火ぶたを開いて点火の準備をするという意味が転じて、「戦いや競争を開始する」ことを表す。
 ところで、「火ぶたが切って落とされた」という表現を日常よく耳にする。これの元になっている「火ぶたを切って落とす」という表現は、「幕を切って落とす」と「火ぶたを切る」との混交(コンタミネーション、contamination)であり、間違いだ、と辞書に書いてある。
 だとすると、「火ぶたが落とされました」というのは誤用の混交形をはしょった形式で二重の誤りを犯していることになる。
 もっとも、混交形がすべて間違いだというわけではない。広く使われるようになると、それが慣用となることがある。よく指摘される例として、次のものがある。
 「とらえる」と「つかまえる」からできた「とらまえる」
 「やぶる」と「さく」からできた「やぶく」
 京都の方言だと思われる「におぐ」は「におう(臭)」と「かぐ(嗅)」からできたものだろう。
 選挙の演説で「火ぶたが落とされました」という表現を聞いても、演説の本筋とは関係がないし、聞いていても聞き流されるだろう。そうすると、厳密にいえば誤用となる表現も誤用だと意識されることもなく存在しつづけて、やがて安定的な用法の座を獲得することになるのかもしれない。
(2012年7月12日)

[1467]新・ことばの路地裏 第275回「おもんばかる」と「おもんぱかる」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年07月05日 (木) 05時35分

「おもんばかる」と「おもんぱかる」

 当て字といえば、ダイヤモンドを金剛石と書き、オルガンを風琴と書き、クラブを倶楽部、カタログを型録と書くような、外来語に漢字表記を当てるものが思い当たる。これ以外にも、漢字の訓読みは、漢字が表す意味を和語で言い換えたものであって、一種の当て字と言えるだろう。
 山を「やま」と読み、水を「みず」と読むことはほとんど誰でも知っている。陽炎とかげろうはどちらが先にあったのだろう。和語のかげろうの意味を陽炎と当て字したのだろうか。逆に、陽炎をかげろうと読んだのだろうか。
 昆虫のかげろうは「蜻蛉」と書く。音読みするとセイレイ。証拠はないけれどセイレイと読む蜻蛉にかげろうという訓読みを与えたのではないかと思う。国語辞典によると、昆虫のかげろうは《飛ぶ姿が陽炎(かげろう)の立ちのぼるさまに以ているところからの名》(デジタル大辞泉)と説明されている。陽炎が蜻蛉になったということである。なかなか興味深い発想だ。今日ではこのような連想は思い浮かばないだろう。
 ところで今回のテーマの「おもんばかる」である。「慮る」と書いて「おもんぱかる」と読むものだと、長年信じていた。ところが新聞記事にこう書いてあって驚いた。

 冒頭、首相は「ねじれ国会の中で今を生きる国民のために、あるいは将来世代をおもんばかって、大きな改革の第一歩を踏み出せたことは大きな意義がある。何としても今国会中に成立させたい決意だ」と述べた。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120626-OYT1T01030.htm?from=main1

 野田首相の発言として引用してあるということは首相自らが濁音で「おもんばかる」と言ったということであろうか。それならば、発話を忠実に文字化したということになる。濁音で「おもんばかる」という言い方があるのか思って国語辞典で「おもんぱかる」を参照してみると、驚くことに《「おもいはかる」の音変化。古くは「おもんばかる」》(デジタル大辞泉)と書いてあったのである。半濁音の「おもんぱかる」ではなく濁音の「おもんばかる」の方が古い形式だったというのだ。
 これからは、「慮る」って、訓読みが難しいね、今は「おもんぱかる」って読んでるけど、古くは「おもんばかる」って、濁音で発音していたらしい、と説明することにしよう。
(2012年7月5日)

[1466]新・ことばの路地裏 第274回「茫然自失としている」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年06月28日 (木) 05時00分

茫然自失としている

 「茫然」は「茫然と立ち尽くす」「茫然と画面を眺めていた」のように副詞として使い、主体が「あっけにとられている様子」を表す。原因はさまざまだろうが、意外なこと、予想外なこと、衝撃的なことなどが自分の身に起きたときの心の様子である。
 「徹吉はしばらく茫然と机の前に坐っていた。」
 これは北杜夫の『楡家の人びと』の用例である。十年余に及ぶ原稿用紙3015枚の労作『精神医学史』を書き終えて、満足と充足感が訪れてもよいはずなのに、「生ぬるい虚脱と空白感だけがべっとりと刻まれてい」る徹吉の状態を描いている。
 「自失」は動詞で、自分を見失ってぼんやりすることである。
 「茫然」と「自失」が結合して「茫然自失」という複合語ができる。品詞は「自失」の部分が担い、全体で動詞である。従って「茫然自失する」という形で使う。
 こんな表現を目にした。

  「少年は重大事故の重みを受け止められず、ぼうぜん自失としている印象だ」と語った。
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120425-00000007-mai-soci

 「自失」のあとの「と」は不要である、「ぼうぜんと」と言うはずのところを、「自失」を加えたために整わない表現になったのではないかと想像される。あるいは、「茫然自失」の意味はしっかり把握されているけれども、用法にすこしほころびができたと言った方がよいかもしれない。もしかしたら「泰然自若としている」という形式が頭をよぎったのだろうか。
(2012年6月28日)

[1465]新・ことばの路地裏 第273回「からまわる」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年06月21日 (木) 04時39分

第273回 からまわる

 この語は通常、国語辞典には登録されていない。しかし、最近読んだ小説の中に2回使用されていたので取り上げてみることにした。
 動詞の連用形が派生名詞になる例は多い。光(光る)、曇り(曇る)、畳(たたむ)、通り(通る)など。
 二つの動詞が結合した複合動詞が派生名詞を作る例もある。「とおりがかり(とおりかかる)」「きがえ(きかえる)」がその例である。
 動詞「まわる」を後項に持つ複合動詞を並べてみる。

   あばれまわる、あるきまわる、うごきまわる、およぎまわる、かぎまわる、かけまわる、ころげまわる、さがしまわる、つけまわる、でまわる、とびまわる、にげまわる、のたうちまわる、はいまわる、ふれまわる、みまわる、もちまわる、あばれまわる、あるきまわる、うごきまわる、およぎまわる、かぎまわる、かけまわる、ころげまわる、さがしまわる、つけまわる、でまわる、とびまわる、にげまわる、のたうちまわる、はいまわる、ふれまわる、

 これらは具体的な動作を表すことが中心的な用法である。「でまわり」「ふれまわり」「とびまわり」などと言わないことはないけれど、動詞の用法が基本だろう。ただ、「みまわり」「もちまわり」は普通に使われる。
 一方、後項が「まわり」の形で名詞になる例も多い。

   うちまわり、そとまわり、おおまわり、こまわり、かねまわり、くびまわり、こしまわり、どうまわり、むねまわり、みぎまわり、ひだりまわり、さきまわり、とおまわり、ちかまわり、とけいまわり、みずまわり、よまわり、りまわり、とくいさきまわり、ねんしまわり

 これらは前項要素が名詞であり、「さきまわる」というような動詞としての用法はまれである点が特徴的である。ただし、前項が動詞の「みまわり」「もちまわり」は例外である。
 このように見てくると、「からまわる」という語は異例であることが分かる。『日本国語大辞典』には、初版(45万項目)にも第二版(50万項目)にも登録されていない。
 小説で見かけた用例は次のものである。

   漢文を書いたつもりはないが、文章がやや硬すぎたようだ。思いのたけをこめた、しかも思いが空回って無用に難解になってしまった手紙を、当事者以外にも読まれたとは。馬締は恥ずかしくなった。(三浦しをん『舟を編む』p.93)
   それは、真剣かつ滑稽なラブレターだった。妙に漢字が多い。文章もぎこちなく、当時の馬締は相当緊張していたようだ。どうにかして相手に心を伝えたいと願うあまり、空回ってわけのわからないことになっている。(三浦しをん『舟を編む』p.183)

 もっとも、この小説には「からまわり」も1例ある。

   このラブレターを読むかぎりでは、馬締はちっとも言葉を使いこなせていない。不器用で、熱意が空回りしてしまっている。(三浦しをん『舟を編む』p.185)

 「からまわる」は、作者独自の用法だろうか。あるいは一部ではすでに使われていて、この作品に2例も現れたのだろうか。
(2012年6月21日)

[1464]新・ことばの路地裏 第272回「見え消し」 投稿者:むささびとびのしん

投稿日:2012年06月14日 (木) 04時52分

第272回 見え消し

 最近、会議で聞く用語である。例えば要項の変更を行う場合。前年度の要項が示され、そこに二重線を付し、右隣に変更後の文言を書き入れた資料が配付される。委員長が説明する際に「見え消しになった部分を、記載のように変更する」のように言うのである。初め、委員長の言い間違いかなと思っていた。検索してみると「見え消し」という用語はヒットするから、言い間違いではないようだ。
 自分自身が国文科の出身だからだろうか、40年以上にわたって「見せ消(け)ち」という用語を使い続けてきている。国語辞典には「見せ消ち」はあるが、「見え消し」はまだ登録されていないようだ。『デジタル大辞泉』では「見せ消ち」を「誤写・誤記の文字の訂正のしかたの一。写本などで、もとの文字が読めるように、傍点をつけたり、その字の上に細い線を引いたりするなどして、誤りであることを示す。」と説明している。
 「見せ消ち」もそうだが、この「見え消し」方式による修正は、修正前の字句があって分かりやすい。しかし、新たな加筆による修正の場合は見え消し方式は使えないから、太字にしたり斜体にしたり下線をつけたりするといった別の方法を取ることになる。さらに、規程や計画案などでは新旧対照方式で左欄に旧規程等、右欄に新規程等を記してある。この方式では加筆修正の部分がはっきりする。しかし、表組みにするために大きなスペースが必要になり、無駄も生じる。
 見え消し方式にせよ新旧対照方式にせよ、結果的になんらかの定稿ができるわけだが、それは「溶け込み方式」とか「溶け込み版」などと呼ばれているようだ。かりにこのような方式のものが修正案として出されたとすると、どこがどのように変更されているのかわからないから、審議に手間取ることも考えられる。字句の修正が一度で終わればいいけれど、複数回繰り返されることもないわけではない。このようなことを考えると、見え消し方式にも意味があると思える。
 かつて手書きでレポートや論文を書いていた時代にはこの見え消し方式で書き直すことを繰り返していた。完全に消し去るのは、アイデアを消し去るように思えて、もとの用語が見える形で残しておきたかったのだ。ワープロで文書を作成するようになってからは、バージョンが変わるごとにプリントアウトして保存する方法を取っていた。推敲の過程が残り、判断のゆらぎを振り返ることもできる。
(2012年6月14日)




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