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[1533]新・ことばの路地裏 第328回 鑑みる対象はニ格かヲ格か 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年07月11日 (木) 05時59分

第328回 鑑みる対象はニ格かヲ格か

 動詞「鑑みる」の格支配について調べてみた。基本的にはニ格支配で「時局に鑑みて決定する」(デジタル大辞泉)のように使う。ところが、「重要性を鑑みて」のように対象をヲ格で表現する例もある。
 国会会議録検索システムで、平成22年6月26日から平成23年2月9日までの間について検索した。「かんがみ」の形で1151件ヒットした。「をかんがみ」の形では227件ヒットした。「にかんがみ」の形では1016件ヒットした。これは奇妙な数値である。「をかんがみ」と「にかんがみ」の合計数が、1243件で、「かんがみ」の1151件を超えてしまうのである。全数を点検することが望ましいことは言うまでもないけれども、大雑把な傾向を見るだけに留めておく。
 「をかんがみ」の227件が「かんがみ」の1151件に占める割合を計算すると約20%である。これをひとつの目安として、小さいデータで検証してみることにする。
 平成20年6月26日から平成23年2月9日までで「かんがみ」が100件ヒットする。これを全件見てみると、1件に2例出現する例が4件あった。合計104例を全部当たってみた。
 その結果は以下の通りである。カッコ内に割合を示す。
  〜にかんがみ 86例(83%)
  〜をかんがみ 16例(15%)
  〜もかんがみ 2例(2%)
 15%という数値は、さきに見た「をかんがみ」が「かんがみ」に占める割合の約20%より少ない。しかしながら、無視することはできない数値である。
 なぜ対象がヲ格で示されるのか。
 おそらく「考える」と混同しているのだろう。
 「かんがみる」というのは「過去の例や手本などに照らして考える」(デジタル大辞泉)という意味であり、考えることよりも「照らす」こと、基準になるものと比べることのほうに意味の重点がある。従って対象をニ格で示す方が一般的である。
 次の例は明らかに「考える」という意味で使われている。
 「地域主権改革を進める上では、それぞれの地域性というもの、独自性というものをしっかりとかんがみまして、そういった上で行政サービスをつくり上げるということではありますが、」(平成22年11月19日の参議員予算委員会)
 このような格の交代は複合動詞の場合にも観察される。「読む」はヲ格を支配し、「ふける」はニ格を支配する。これが「読みふける」という複合動詞になると、「本を読みふける」とも「本に読みふける」とも表現される。基本はニ格支配だと考えられるが、ヲ格もかなり使われているように感じられる。
(2013年7月11日)

[1531]新・ことばの路地裏 第327回「〜ばなと思います。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年07月04日 (木) 05時05分

〜ばなと思います。

 条件表現に「ば」「たら」「と」「なら」の四つの形式がある。このうち、「ば」と「たら」を対比して説明することがある。「ば」が比較的公的な場面で使われ、「たら」が比較的私的な場面で使われるといった対比は理解されやすいだろう。
 この「ば」や「たら」を、条件節だけ示して、「○○すればと思います。」「○○したらと思います。」のような言い方をすることがある。「ば」や「たら」の後には「よい」とか「けっこうだ」とか「幸いだ」とかの語が省略されていると理解される。これがさらに願望の意味を込めて「○○すればなと思います。」「○○したらなと思います。」のように言う。このような形式は、どちらかと言えば私的な場面で使われるのではないかと思うのだが、そうでもないようだ。
 国会会議録検索システムで検索してみた。
 より厳密に対比するためにはいろんな形式も検索しなければならないが、とりあえず「ばなと思います。」と「たらなと思います。」を比べてみる。
 「ばなと思います。」戦後の昭和の約40年間で0件。平成になってからは196件。
 「たらなと思います。」戦後の昭和の約40年間で1件。平成になってからは63件。
 (「たらな」については「だらな」の形式でも検索したが、ヒットしなかった。)
 ちなみに、「な」のない形式も調べてみた。「ばと思います。」が昭和で1607件、平成で8585件、「たらと思います。」が昭和で583件、平成で1771件だった。「ばと思います。」が平成になってから急激に増加していることが分かる。
 さて、「ばなと思います。」に限って分析してみると、約87%が「いただければなと思います。」の形式だった。他も「できれば」「願えれば」「もらえれば」などの可能形式であり、「可能形式+ばなと思います。」の形式は98%という計算になる。すなわちほとんど固定的な、様式化した表現であることが分かった。
 さらに興味深いことに、「ばなと思います。」の中で副詞の「是非」が出現している例が目立つ。「是非」は強い希望を導くものだと思う。そして、「是非なになにしていただきたいと思います。」のように使うのがふさわしいと思う。しかし、「ぜひこれは国としても取り組んでいただければなと思います。」(平成18年02月28日 衆議院予算委員会第八分科会 糸川正晃分科員の発言)のような、希望の気持が弱いと感じられるような形式で用いられているのである。用例数は196例中35例で、約18%である。
 このような違和感はあるけれど、いったん様式化した表現を会得すると、その型に入れるだけで公的な表現になるという便利さもある。この便利さが平成の時代には受け入れられているのだろうと想像する。
(2013年7月7日)

[1530]新・ことばの路地裏 第326回「というふうに思います。」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年06月27日 (木) 04時58分

20130627 というふうに思います。
 思っていること、考えていることを引用するとき、その内容を助詞「と」で表示する。これはだれでも知っている文法で、日本語を学んでいる外国人もこの規則に従って「なになにと思います。」と表現している。
 いつのころからか、引用のマーカー「と」が「というふうに」の形になって、「なになにというふうに思います。」と表現されるのを聞くようになった。「と」による引用が直接引用だとすると、「というふうに」による引用は引用内容をぼかしたものだとみなされる。「ふう」は事物や事柄をそのものズバリに表現するのではなく、「そういう様式である、そういう外見である、その傾向がある、などの意を表す」(デジタル大辞泉)形式である。「大学生の男」と言えば、その男は大学生だが、「大学生ふうの男」と言えば、大学生ではない可能性もある。
 引用内容を直接的に示さないやり方は、含みを残していると言えなくはないが、事柄を曖昧にしている、主張としては腰が引けているともとられかねない。
 国会会議録検索システムで「というふうに思います。」を検索してみた。検索期間は第1回の国会が開かれた昭和22(1947)年6月23日から平成24(2012)年12月31日までである。1年刻みで検索してみると、昭和35(1960)年までは、昭和29(1954)年だけ110件ヒットするが、あとは二ケタである。三ケタになるのは昭和36(1961)年以降である。
 5年単位でまとめて、その平均使用数を比べてみると、昭和37年から昭和56年までほぼ漸増傾向にあることが分かる。(グラフ省略)

 昭和57(1982)年から幾分減少して平成元(1989)年前後の5年間に著しい落ち込みが見られたあとは、再び増加に転じ、平成9(1997)年以降の10年間は急増している。
 このような近年の増加傾向は、国会における会議という日常的とはいえない発話場面における、静かなブームとでも呼べるのではないかと思われる。(今こうして「のではないかと思われる」と表現すること自体が断定を避けている。)思考内容を直接的に表現すると非難を受けるリスクも伴う。そのために含みを持たせた表現をする。巧みなテクニックである。
 「というふうに」の形式は、思考だけでなく、「言われています。」「書いてある、」「報じられておりまして、」のような形でも引用している。この場合には直接引用をして間違いだと指摘されるのを予防して、含みを持たせているのだろう。「なになにというふうに確信しています。」と言われると、確信の度合いを疑いたくなる。(2013年6月27日)

[1529]新・ことばの路地裏 第325回「なので」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年06月20日 (木) 04時57分

なので

 接続詞としての「なので」の使用について批判的な意見を読んだ。若い女性が「なので」を使っているのが気になるとか、テレビのアナウンサーが使うのが気になるとか。気になる理由が、「なので」という接続詞が存在しないからとか、「なので」は文頭には立たない形式だとか、などの見解が示されている。それは違う。
 接続詞に順接の関係を表すものと逆接の関係を表すものとがある。順接の関係を表す接続詞として、だから、ですから、なので、ですので、従って、したがいまして、などがある。逆接の関係を表す接続詞として、しかし、なのに、だのに、にもかかわらず、などがある。「だから」があって、「だのに」もある。「なのに」があって、「なので」もある。「なので」は、文法的な観点からは存在し得る形式だと言える。
 6月8日に行われた「第5回AKB48選抜総選挙」で、結果発表を受けてステージに立った13人のうち3人がコメントを語るなかで「なので」を使っていた。聞き慣れていない人にとっては、若い女性の違和感のある表現だということになるだろう。実は、筆者自身も使っている。

 1.「という対応関係になる。なので、1000ミリバールとか960ミリバールは1000ヘクトパスカルとか960ヘクトパスカルになる。」(新・ことばの路地裏 第132回「ヘクトパスカルとミリバール」2009年10月8日)
 2.「『1 火事の際に水をかぶった物。2 まだよく乾いていない洗濯物』なのだそうだ。なので、「乾き物」と「濡れ物」は反対語の関係にはない。」(新・ことばの路地裏 第208回「乾き物」2011年3月24日)
 3.「そもそも我が身に『徳』が備わっているなどと考えたこともない。なので、『不徳』だらけである。」(新・ことばの路地裏 第300回「不徳の致すところ」2012年12月27日)

 「そう」とか「それ」などの指示語を省略した表現は「だから」「だよね」「かもね」「みたいだね」などのほかに、関西方言では「やんなあ」という相づち表現にも見られる。指示語がないからといって、文頭に使ってはいけない理由にはならない。また、「な」は連体形だからというのも根拠とならない。前に示したように、「なのに」というれっきとした接続詞があるのである。
 要は、聞き慣れていない、見慣れていないことからくる違和感ではないか。若い人は表現が未熟であるという先入観でみるから新しいと考えられる表現に違和感を覚えるのではないか。
 国会会議録検索システムで「。なので」を調べてみた。平成20年6月7日から平成21年6月7日までの間で22件ヒットした。そのうち湯浅誠さん(1969年生)は衆参両院の各予算委員会公聴会で都合6回使用している。
 また、『女性のことば 職場編』において、1993年当時43歳の女性が「なのでー」の形を使用している。
 以上のことから、接続詞「なので」は、若い人に限定されるものではないことがはっきりしたと思われる。固定的な考え方にとらわれず、視野を広げて観察することの大切さが分かろうというものである。
(2013年6月20日)

[1528]新・ことばの路地裏 第324回 「ます」の活用形 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年06月13日 (木) 08時42分

新・ことばの路地裏 第324回 「ます」の活用形
20130613 「ます」の活用形
 丁寧の助動詞「ます」の活用形は以下のようなものが現代語として認められる。「しましょう」「しました」「しまして」「します」「しません」。このほかに命令形の「ませ」(または「まし」)がある。これは「いらっしゃいませ」「なさいませ」「くださいませ」のような敬語動詞に下接して使われる形式である。
 これ以外に、古語的な用法だと感じられる条件形の「ますれば」が、現在も特定の発話場面で使用されている。「ますなら」に代替されると言われてもいるけれど、文体的な要請から「ますれば」のほうが好まれることがある。
 国会会議録検索システムで「ます」の活用形「ますれば」「ますなら」「ますると」「まするが」「まするに」を検索した。ゴミが出ないように、読点が付いた形式を検索した。昭和22年から10年ごとに検索した結果が次の表である。
...
表 国会会議録検索システムを利用した「ます」の活用形のヒット件数(sは昭和、hは平成の略))
ますれば、 ますなら、 ますると、 まするが、 まするに、
s22.1.1-s31.12.31 16807 12066 14795 15902 2845
s32.1.1-s41.12.31 11104 7862 9431 8981 1148
s42.1.1-s51.12.31 8592 6098 6160 4994 589
s52.1.1-s61.12.31 5736 3774 3093 1593 296
s62.1.1-h8.12.31 3182 1879 1207 320 109
h9.1.1-h18.12.31 3375 1333 624 49 64
h19.1.1-h24.12.31 922 273 84 1 18

(注 表組みがくずれているが、数値は各行とも左から「ますれば、」「まるなら、」「ますると、」「まするが、」「まするに、」の順である。)

 この表から、どの活用形も10年ごとにほぼ減少してきていることが読み取れる。しかし、不思議なことに、「ますなら」がもっと使用されてもよさそうなのに、古い形の「ますれば」のほうがどの期間においても多く使用されている。古い形のほうが風格というか威厳のようなものを発言に添える効果があるのかもしれない。「ますると」「まするに」「まするが」がいずれも風前の灯火状態であるが、「ますれば」が孤軍奮闘しているように思われる。
(2013年6月13日)もっと見る

[1527]新・ことばの路地裏 第323回「まする」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年06月06日 (木) 04時33分

第323回 まする

 丁寧の助動詞「ます」の古い形に「ますれば」「ますると」「まするに」といった形がある。これらは日常的にはほとんど使われなくなっている古風な形式である。しかし、表現に重々しさや威厳を出そうとするとき、使われることがある。国会会議録を見ていて、「まするが」という形式が使われていることに気がついた。接続助詞「が」に続いているので、この「まする」は終止形である。ところが、文が終止する箇所では「ます」で終わっている。新旧二つの終止形が使い分けられていることになる。
 「まするが」の形はかなりたくさんヒットするので、「ありまするが」の形に限って検索してみた。
 昭和22年1月1日から同年12月31日までの間で検索すると1030件ヒットする。一番古い例は昭和22年5月21日の衆議院本会議における松岡駒吉の議長就任あいさつである。少し長くなるが、当時の雰囲気が伝わると思われるので引用する。
 ********************
 議長(松岡駒吉君) 諸君の御推薦により、不肖衆議院議長の重責を担うことに相なりました。新國会の発足の記念すべき今日、この栄職につきますることは、私の終生忘れ得ざる感激を覚えるものであります。ここに謹んで諸君の御推薦に対し厚く感謝の意を表する次第であります。(拍手)申すまでもなく、わが國会の新しき性格と、國政上の地位に対し、國民の期待はきわめて大きく、かつ切実なるものがあり、われわれ議員の職責は実に重大となつたのであります。不肖、不敏にしてその責にたえることがおぼつかないので【ありまするが】、さいわいにいたしまして、諸君の御鞭撻と御援助により、中正にその職責を果し、もつて衆議院の権能を十分に発揮せんことを念願いたしております。何とぞ一層の御同情と御支援を切望する次第であります。簡單ながら、これをもつて御挨拶といたします。
 ********************
 昭和の時代には頻繁に使われた「ありまするが」は、平成の時代になると、その使用数が激減する。平成1年1月8日 から 平成25年5月21日までの間でヒットしたのは、わずか82例である。最も多く使用したのは戸田菊雄議員(1924年3月生)の10回と渡辺嘉蔵議員(1926年1月生)の10回である。最年長者として西村尚治議員(1911年2月生)と坂元親男議員(1911年2月生)が各1回使用している。一方、比較的年少の議員として、円より子議員(1947年2月)が1回の発言中、3回使用している。議員以外の政府委員や説明員の使用も認められるが、これらの人の生年は未詳である。
 平成における「ありまするが」は平成18年から平成20年の3年間は使用例がなく、最後の使用は、平成21年の1例(古本伸一郎議員(1965年3月生)の発言)を数えるだけである。
 「まするが」に限ると以上のような状況であるが、「ますると」「まするに」「ますれば」は現在でも頻繁に使われている。公的性格の強い国会という場が、古風な表現を多用させているのだろうと考えられる。
(2013年6月6日

[1526]新・ことばの路地裏 第322回「引用」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年05月29日 (水) 05時03分

引用

 論語の学而の中に「子曰く、学びて時にこれを習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる。亦楽しからずや。」という一節がある。これは多くの人の記憶にあると思われる。同じ学而の中に、「過則勿憚改」という一節があり、政治家がときどき引用することがある。漢文の厄介な点は書き下し文が必ずしも一定していないことである。この部分も複数の書き下し文があるようだ。
 例えば、「過(あやま)てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」(『論語』金谷治訳注 岩波文庫2010年1月25日改訳第20刷(1999年11月16日改訳第1刷))という書き下し文がある。しかし、これに限らないようだ。
 政治家がどのテキストを使用したかによって、引用部分が異なることになる。
 国会会議録検索システムを使って「はばかることなかれ」を検索してみた。期間は平成元年1月8日から平成25年4月25日までとした。合計106件ヒットした。これを整理してみると、次のようになる。
 「過てば」の部分が「過ちを」の形になっているものが最多の45例、「過ちは」と「過ちては」がともに13例、「過ちてはすなわち」が3例などである。「過てば」の形はなかった。
 「改むるに」の部分は、「改むるに」が最多で78例、ついで、口語化した「改めるに」が12例、「正す(こと)に」が7例などといった結果である
 「改むるに」の形式は約74%で、比較的きちんと引用されていると考えられる。問題は古語性が強い「過てば」(四段動詞已然形+バ)の部分で、「過ち」(連用形が名詞化したもの)の形だけでまとめると、58例(約54%)あって、古語性を薄めている。
 例えば具体的な使用例に、「論語に、過ちてはすなわち改むるにはばかることなかれという言葉があります」とか「過ちを改むるにはばかることなかれという言葉がございます。」といったものがある。元の形式を知らない人には、きちんとした引用のように聞こえるかもしれない。しかし、発言者が独自に覚えている形式を使ったとも考えられる。「誤りを認めるにはばかることなかれ、であります」のような表現になるともはや引用とは呼べない、自分の言葉としてそしゃくされているといってもよいだろう。
 漢籍の知識をひけらかすといった意図はないだろうが、引用するのであれば、典拠に基づいて行うのがよいだろうと思う。
(2013年5月29日)

[1525]新・ことばの路地裏 第321回「ありき」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年05月23日 (木) 04時41分

第321回 ありき

 古語が固定化した慣用的な表現である。「き」は過去の助動詞で、直訳すると「あった」となるが、一定の議論や思考の過程を経ないで初めから決まっているということを表す。「結論ありき」「留学ありき」「残業ありき」などのように使う。たとえば「残業ありき」は、残業をするかしないかという議論や選択を抜きにして、残業するのは当然だとする考え方や状態を表す。
 新潮文庫の100冊を検索すると33件ヒットする。石川啄木の『一握の砂』から16例、柳田国男の『遠野物語』から17例である。しかし、「山路にさそふ人にてありき」(一握の砂)とか「代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。」(遠野物語)のように、いずれの用例も擬古文とでも言うべき古い文体で書かれている。
 国会会議録検索システムで検索してみると、以下のような例がヒットする。
 ********************
 安倍内閣の提出した補正予算は、最初に額ありきで旧来型の公共事業を(平成25年2月26日 参議院本会議)
 大飯原発の継続稼働とともに、再稼働ありきのトライアルともなっていく。(平成25年4月19日 衆議院原子力問題調査特別委員会)
 国会事故調の記述は、非常に意図的に結論ありきで報告書を書いているようにしかみえませんとか(平成25年4月12日 衆議院予算委員会第七分科会)
 政府、与党、野党を含め、もう消費税増税ありきで全てが動いていっているわけです。(平成25年3月19日 衆議院財務金融委員会)
 ********************
 以上の用例から、「○○ありき」という事態が好ましくないこととして使われていることが分かる。『デジタル大辞泉』の「ありき」の「補説」に「『結論ありきの審議会』などの用法は、結論は既に決まっており審議会は形式に過ぎないの意である。」と説明されていることと符合する。このことが、「まず○○ありき」「最初に○○ありき」「初めに○○ありき」「既に○○ありき」といった表現の枠の中で使われる例が目立つこととも関連している。
(2013年5月23日)

[1524]新・ことばの路地裏 第320回「想像だにもしなかった」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年05月16日 (木) 04時38分

想像だにもしなかった

 副助詞という一群の助詞がある。高校時代に「ダニすらノミさえ柴刈りなど何度まで」という語呂合わせで覚えた。(だに、すら、のみ、さえ、し、ばかり、など、なんど、まで)。予想外のことであるといった意味を添える用法がある。
 古典では、「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」(万葉集巻1‐18額田王)のように、係助詞「も」を伴って使われた例がある。さらに、「ものいはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにも あはれなるかなや親の子を思ふ」(源実朝 金槐和歌集 雑 607)のように「すら」「だに」の2つの副助詞を連ね、かつ係助詞「も」を伴って使われた例もある。
 現代語では「すらも」「さえも」「なども」「までも」といった形式が使われることがある。しかし、「だにも」の形式は、ありそうで、なかなかない用法だと思われる。その希少な用例を見つけた。
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 まさに私も、厚生労働省で仕事をしていたときに、まさか厚生労働省にここまでの納骨堂の機能みたいなものがあるということは、もう想像だにもしなかったわけであります。(平成24年3月7日 衆議院 - 厚生労働委員会での松浪健太議員の発言)
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 「だに」と「も」を切り離して「想像だにしなかった」「想像もしなかった」 のように、表現することができる。「想像すらもしなかった」「想像すらしなかった」「想像さえもしなかった」「想像さえしなかった」のように言うこともできる。にもかかわらず「想像だにもしなかった」という表現はなぜ希少な用例となるのか。
 副助詞の「だに」は、「さえ」や「すら」に比べて使用頻度が低いのではないかと思われる。『新潮文庫の100冊』で検索してみると、「だに」が44例(「だにも」3例)、「すら」が290例(「すらも」36例)、「さえ」が2458例(「さえも」227例)あった。このことから推測すると、「だに」の使用頻度は「さえ」と比べると著しく低く、「すら」と比べてもかなり低いと言える。この低さが、「想像だにもしなかった」が希少な例であることを証明している。
(注)古典の本文は新潮日本古典集成『萬葉集一』同『金槐和歌集』によった。
(2013年5月16日)

[1523]新・ことばの路地裏 第319回「在りし日」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年05月09日 (木) 04時29分

第319回 在りし日

 中学生のころ(1962年〜1965年)だったかと思う。「ありし日」という表現を「あしりび」と誤読していた。「ありし」という古語的な表現を知らなかったのである。だからといって「あしりび」を何らかの意味をもって理解していたわけではない。ほとんど意味を理解しないで「ありし日」が出てくる文章を読んでいたことになる。
 「兎追いしかの山」についても「兎がおいしい、あの山」などと理解していたように思う。「追いし」の「し」が過去の助動詞だという知識を持ち合わせていなかった。「蛍の光」の一節「開けてぞ今朝は別れゆく」についても「ぞけさ」という部分を切り取って、「ぞけさ」って何だろうと疑問に思いつつも、解明しないままにやり過ごしていた。「仰げば尊し」の「今こそわかれめ」についても「分かれ目」ないしは「別れ目」だと思っていた。
 はっきりと理解したのは高校で古典文法を習って、過去の助動詞「き」や係り結びの法則についての知識を得た後のことである。
 現代語において古語的な表現が慣用句のように使われ続けることは、わりとあるように感じる。
 「ありし日」という表現は、現在「在りし日」と書くことができ、そう書いてあれば誤読することもなかったと考えられる。しかし、誤読していた中学生当時は当用漢字表の時代(1946年〜1981年)である。それの音訓を調べてみると、「在」の字には音読みの「ザイ」は認められているが、訓読みは認められていない。したがって「ありし日」と書かざるを得なかった。「ありし」というひらがなの連続を「あしり」と読み間違ったのだ。いったんそう読んでしまうとそのままにしてやり過ごしてきたことになる。「ありし」も「あしり」も意味不明の語として読み飛ばしていたのである。
(2013年5月9日)

[1522]新・ことばの路地裏 第318回「なかれ」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年05月02日 (木) 04時41分

なかれ

 文章を読んでいて時々古風な言い方を目にする。「なかれ」がその一つだ。文法的には形容詞「なし」の命令形と説明され、してはいけない、するな、という意味を表す。動詞について「するなかれ」「することなかれ」の形で使われる。
 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」はよく知られているだろう。
 国会会議録検索システムで「なかれ」の形を検索してみた。平成20年4月19日から平成25年4月19日の間で110件(1件のヒットに複数例出現するものもあるので実数はもう少し多い)ヒットした。この中には「多かれ少なかれ」のような無関係のものが20件含まれている。慣用句化した「事なかれ主義」のようなものが31例あった。動詞についたものは64例あった。
 動詞についたもののうち、漢籍から引用した語句やことわざに含まれているものがかなりある。中でも論語の学而の一節「過ちては改むるにはばかることなかれ」(類似形式を含む)が最も多く、31例あった。普通の動詞では「言う(こと)なかれ」「急ぐことなかれ」「憂う(る)なかれ」「おごることなかれ」などがあるが、最も多かったのは「驚く(こと)なかれ」で13例あった。実態が予想外であることを述べる場合に使われている。
 「動詞+なかれ」の形は、一連の表現の中では挿入句のようにして使われる。現代語に言い換えにくい箇所で使われていると感じられ、一定の表現効果がある。
(2013年5月2日)

[1521]新・ことばの路地裏 第317回「おつくりなったもの」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年04月25日 (木) 04時34分

おつくりなったもの

 金子みすゞの「みんなを好きに」という作品に、表題のような表現が2箇所出てくる。
 「かあさまがおつくりなったもの。」
 「神さまがおつくりなったもの。」
 共通語の文法規則では「おつくりになった」と表現するところである。助詞の「に」が脱落している。これは誤用なのだろうか、山口県仙崎の方言なのだろうか。ずっと以前から気になっている。しかし、まだうまく説明できないでいる。
 鳥取県倉吉市の方言で、「つくる」の尊敬表現に「つくんなる」という形式がある。これは「つくりなる」が音変化したもので、動詞の連用形に尊敬の補助動詞「なる」を付けたものである。この場合には助詞の「に」は不要である。しかし、尊敬の接頭辞「お」は付かない。
 原文を、「おつくりになった」を基底として、「に」が撥音便化し、さらに省略されたものと考えることは可能だろうか。他の箇所で「何でもかんでもみいんな。」という表現がある。「みんな」ではなく「みいんな」。話し言葉として書かれているように思われる。そうすると、問題の箇所も、書き言葉による決まりを反映したものではなく、話し言葉を表しているのではないかと考えられる。そうすると、さきほどの仮定が現実味を帯びてくるのではないだろうか。
 金子みすゞが2箇所も間違うはずがないという前提での推測である。
(2013年4月25日)

[1520]新・ことばの路地裏 第316回「思いきや」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年04月18日 (木) 04時45分

第316回 思いきや

 古語を使った慣用的な言い回しである。「き」は過去の助動詞で、「や」は疑問を表す係助詞である。直訳すると、「思ったか」であるが、反語的な用法であり、「いや、思わなかった」という意味が含まれている。予想した事柄が、実際には意外な結果であったという場合に使われる。
 古語を使っているので、文体的に古い印象を与えるはずだが、実は砕けた感じのスタイルで使われる。
 国会会議録検索システムを使って検索してみると、面白いことが分かった。

 平成20年4月2日から平成25年4月2日までの間で37件ヒットした。
 平成15年4月1日から平成20年4月1日までの間では39件ヒットした。以下、5年を範囲として検索すると、次のような結果となった。
 平成10年4月1日から平成15年3月31日まで 19件
 平成5年4月1日から平成10年3月31日まで 7件
 平成元年4月1日から平成5年3月31日まで 0件
 昭和58年4月1日から平成元年3月31日 2件
 昭和53年4月1日から昭和58年3月31日まで 1件
 昭和48年4月1日から昭和53年3月31日まで 2件
 昭和43年4月1日から昭和48年3月31日まで 2件
 昭和38年4月1日かわ昭和43年3月31日まで 1件

 昭和38年からの25年間で8件。平成元年からの25年で102件。平成も初めの5年間はヒットしないも同然である。平成5年に1件、平成6年に0件、平成7年に1件、平成8年に2件、平成9年と10年に1件ずつというヒット状況である。
 このことから、「と思いきや」という慣用的な言い回しは昭和の国会ではほとんど使われなかったが、平成5年から少しずつ使われるようになって、次第に使用数が増えてきていることが分かる。
 砕けた感じだという印象は、次の例に示されるだろう。

 だから、非常に私の問題意識に合致したとおりのことをやっていただいているんだなと。その分、交番が充実してきているのかな【と思いきや】、交番も平成十一年比で二百九十六件減っているんですね。(衆議院 - 決算行政監視委員会第一分科会 - 2号 平成21年04月21日 秋葉賢也分化員*)

 「かな」という形式は独り言でも使われるもので、公的な場面の硬い表現にはなじまないような印象がある。前の文の「やっていただいているんだなと」というのも、硬い表現だとは言えない。日常会話のような印象を受けるのである。これがすべてを物語るわけではないけれど、発言者の年齢も関係しているのではないかと思われる。30歳代から40歳代といった比較的若い議員の発言の中に見受けられるような印象を持つのである。このことは、別に調べてみなければならない。
*秋葉賢也 1962年7月生、自民党衆議院議員
(2013年4月18日)

[1519]新・ことばの路地裏 第315回「言わずもがな」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年04月11日 (木) 05時12分

第315回 言わずもがな

 国語辞典に記載されている意味とは異なった意味で理解し、使用していた語があることに気がついた。「言わずもがな」である。
 『大辞林 第3版』には、「@言う必要のないこと。むしろ言わない方がよいこと。『─のことを言う』A言うまでもないこと。もちろん。『大人は─、子どもさえ知っている』」と記述されている。この辞書の@の「むしろ言わない方がよいこと」という意味で使ったことはない。むしろ、「言う必要がないけれど、あえて言っておいた方がよいこと」という意味で使って来たと思う。
 『デジタル大辞泉』には、「1(「の」を伴って連体詞的に用いて)言わないほうがよい。言わでもの。『─のことを言う』 2 言うまでもなく。もちろん。『英語は─、フランス語も話す』」と記述されている。ここでも「言わないほうがよい」という語釈が示されている。そして、用法も示してある。
 「言わずもがなの」の形を国会会議録検索システムで検索してみると、平成20年4月2日から平成25年4月2日の間に39件ヒットした。

  極刑でありますので、その執行については慎重の上にも慎重と、【言わずもがな】のことでございますが、(- 参 - 法務委員会 - 8号 平成20年04月15日)
  また、第一項においてあえて議院内閣制という言葉を用いておりますが、我が国が議院内閣制の国であるということは【言わずもがな】のことではないでしょうか。(- 参 - 内閣委員会 - 18号 平成20年06月03日)
  予算編成時に政治、行政の世界で飛び交うシーリングなる符牒。【言わずもがな】の解説を加えれば、シーリングとは天井を意味します。(- 参 - 本会議 - 4号 平成20年10月03日)

 これらの用例から、「言わない方がよい」といった意味合いを感じることはできない。「言う必要のないこと」「言うまでもないこと」という意味で理解しておけばよいと考えられる。
 「言わない方がよい」と言った意味は、言われた側の気持を想定しているのではないかと思われる。しかし、発話者はその気持を想定していてもなおかつ発言しているのだから、あえて言っておいた方がよいと考えているのだと理解できる。
 しいて考えるならば、発言した後で反省する気持ちを込めて、「これは言わずもがなのことだったかもしれません」と付け足すような場面が考えられる。
 『デジタル大辞泉』にも『大辞林第3版』にも記述されている2番目の用法、「言うまでもないこと。もちろん」というのは、「なになには言うまでもなく」のような形で出現する場合が例示されているが、実際には「言わずもがなでございますが」「言わずもがなではありますが」のような述語的な用法として使われている。国語辞典における2つの意味・用法の区別は解消してもよいと考えられる。
(2013年4月11日)

[1518]新・ことばの路地裏 第314回「あたぼう」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年04月04日 (木) 05時37分

第314回 あたぼう

 中学生のころに「あたぼうよぉ」という形で使ったような、おぼろげな記憶があるけれど、ほとんど使わない言葉だ。中野翠「この世は落語 5 『あたぼうだあ』『大工調べ』」(『ちくま』2011年4月号481、pp.34-37)というエッセイを読んで、この言葉を思い出した。古今亭志ん朝の落語『大工調べ』が紹介してあったのでCD録音(注)で聞いてみた。

  棟梁「八百ばかり御の字だよぉ。あたぼうだてんだよぉ」
  与太郎「なんだい、そのあたぼうってのは」
  棟梁「じれってぇなぁ、てめぇは。あたりめぇだべらぼうめをつめると、あたぼうとなるだろ?」

 国語辞典にも同様の説明がある。「あたりまえ、の意の近世の俗語。『あたりまえだ、べらぼうめ』をつづめて言ったものという。」(デジタル大辞泉)
 縮約表現には一定のルールがある。複合した要素のそれぞれの初めの二音節分を結合するのが一般的で、東京電力を東電、京都大学を京大というのがその例である。名古屋大学は「なダイ」とならないで、「名」を音読みにして「メイダイ」と略す。いわば変種である。しかし、これ以外の結合方式もある。
 大阪大学は前のルールに従うと「おおダイ」となるはずだが訓読みと音読みの結合になる。あるいはメイダイ方式を採ると「ダイダイ」「大大」となる。これはいずれも具合が悪いと考えられたのだろう。前項要素「大阪」の後半部分を残し、それを音読みにして「ハンダイ」と略している。
 かなりユニークな例だが、「ケンチキ」という略語がある。「ケンタッキーフライドチキン」のことである。外来語「チキン」はこれで1要素となり、「チキ」と「ン」とに分割できないはずだが、和語や漢語にはない、外来語の事情がある。オリエンテーションを「オリテ」と略すのも外来語ならではの縮約表現である。
 話がそれたが、構成要素の後半部分を残して結合する縮約表現として、「ブンタ」の例がある。これはタバコの銘柄「セブンスター」のことである。「セ【ブン】ス【タ】ー」と書き表すと分かりやすい。
 さらに、前の部分を東電、京大方式とし、後の要素をブンタ方式にしたものがここに取り上げた縮約表現「あたぼう」ではないかと考えるのである。一般的なルールを適用して「あたべら」となってもよかったのだが、結果的にはそうならなかった。

(注)『落語名人会 21 古今亭志ん朝13 「黄金餅」「大工調べ」』(ソニー・ミュージックレコーズ SRCL-3331 1995年10月21日発売 録音:1981年4月14日 三百人劇場ライブ)
(2013年4月4日)

[1516]「水の泡にしてしまってはいけない」 投稿者:元子

投稿日:2013年03月29日 (金) 12時30分

ニュースを聞いていたら、標題の表現が聞こえてきました。
水泡に帰す、水の泡となる、という言い回しは知っていますが、「水の泡にしてしまってはいけない」とわかったようなわからないようなビミョーな言い方をするなら、「なんとしてもやり遂げる!」「絶対に無駄にはしない!」と言いきった方がいいのになぁと思いました。
結局、この水の泡にしたくないものが何だったか、私の頭には残っておりません。これは既に成るは難しの兆候ではないかと、ちょっぴり可哀想に感じたことでした。

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[1517]投稿者:小矢野哲夫
投稿日:2013年03月30日 (土) 02時09分
「水の泡にする」という言い方が絶対にないとは言い切れないと思いますが、違和感のある表現ですね。

[1515]新・ことばの路地裏 第313回「記者団に反論」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年03月28日 (木) 05時56分

第313回 記者団に反論

 「記者団に反論」という表現を見ると、記者団が示した統一的な見解に対して反論するという意味に理解される。しかし、これは文章の一部を切り取ったために生じる誤解である。前の文脈を参照すると違う意味であることが理解される。

 藤沢市議は5日、自民党市議団の会合で擁立が決まると、さっそく河村市政に苦言を呈した。河村氏が、市内の平針地区にある里山の開発計画や同市北区の陽子線がん治療施設の建設をいったん中止後、再開させたことなどを挙げて、「思いつきばかりで地に足がついてない」と批判した。
 一方、藤沢氏の発言を受け、河村氏は「冗談じゃにゃあと。減税や地域委員会、市議報酬半減、中学生の医療費無料と精いっぱいやってきた」と記者団に反論。選挙戦に向けて「自転車で、また走り回る」と意気込みをみせた。
http://www.asahi.com/politics/update/0306/NGY201303050034.htmlhttp://www.asahi.com/politics/update/0306/NGY201303050034.html

 この文章を読むと、河村名古屋市長が藤沢氏の批判的発言を受け、それに対する反論を記者団に発言したという意味であることが分かる。この誤解を解消するためには、2つの方法がある。
 @ 一方、藤沢氏の発言を受け、河村氏は【記者会見で】「冗談じゃにゃあと。……」と反論。
 A一方、藤沢氏の発言を受け、河村氏は「冗談じゃにゃあと。……」【との反論を記者団に表明した】。
 記事を書いた記者には十分に分かっていることで、誤解は生じないだろうと考えて、このように表現したのかもしれない。しかし、「記者団に」というニ格名詞と動作性名詞「反論」とが相接して表現されているために、その関係の方が浮き出る結果となっている。
 表現することと、どのように理解されるかということを突き合わせて推敲する必要があった。
(2013年3月28日)

[1514]新・ことばの路地裏 第312回「余儀ない」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年03月21日 (木) 04時32分

第312回 余儀ない

 この語はうまく使いこなせない。
 国語辞典には@「他にとるべき方法がない。やむをえない。よんどころない。」A「全くその通りで、他に議論の余地がない。その通りで異議がない。」B「へだて心がない。他の事を考えない。」(『明鏡国語辞典』)と説明されている。@の意味で使うことが多いと思う。
 ただ、過去形に「なになにが余儀なかった」のような例が少しはあるももの、述語としての用法は少ないようである。「余儀ない事情」のような連体修飾用法としても使われ、さらに、「余儀なくされる」「余儀なくされている」といった形の述語の用法が多いと思われる。
 国会会議録検索システムで2008年3月6日から5年間の「余儀なく」形式を検索すると、697例ヒットし、受身形の「余儀なくされ」が673例(96.6%)で圧倒的多数を占め、「余儀なくさせ」が18例(5.1%)、「余儀なくし」が5例(1.4%)であり、「余儀ない」はヒットしなかった。このことから、国会での使用法はもっぱら「余儀なくされ」という受身形が定型のようになっていると考えられる。実際には「余儀なくされた」「余儀なくされ(て)」「余儀なくされている」といった形で実現している。その意味は、やむを得ず、そのような事態に至ることを表している。
 ところで、使役形の「余儀なくさせ」が18例ヒットするのだが、実際にはさらに受身になって「余儀なくさせられる」という形で使用されているようである。結果的には受身とほぼ同等だが、使役受身にした「させられる」はやむを得ない様子がより濃厚に含まれる印象がある。
 このように観察をし、分析を試みても、実際に使用するまでには至らない。うまく使いこなせないという観念にとらわれているのである。
(2013年3月21日)

[1513]新・ことばの路地裏 第311回「熱愛」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年03月14日 (木) 04時49分

第311回 熱愛

 米飯でなくても食事という意味で「ご飯」と言う。今は言うことが少なくなったかと思うが、靴やサンダルが入れてあっても「下駄箱」と言う。皮革でできてなくてもバスの「つり革」につかまる。このように、原義とは違う意味で使うことが普通になることが言語にはある。
 熱愛の原義は「熱烈に愛すること。また、その愛情」(『明鏡国語辞典』)」である。愛する対象は人であったり芸術であったりする。愛するということは態度的なものであって、目に見える形ではなかなか現れない。
 原義を保っている使用例として『西国立志編(さいこくりっしへん)』(1871年、中村正直訳)がある。「コレ何物ゾヤ、学問ヲ熱愛スルノ心ナリト云ヘリ」とある。
 約100年後の1970年代には、テレビドラマの題名や歌謡曲の曲名に使われている。
 1973年、東海テレビ制作の昼ドラマ『熱愛』、1979年、TBSの水曜劇場『熱愛家族・LOVE』。
 1978年、作詞・あたらしかずよ、作曲・丹羽応樹、歌・五木ひろしの『熱愛』
 熱愛という語を原義で使うことは、一般にはあまりないだろう。第三者が「彼は奥さんを熱愛している」と言うことはある。しかし、主体自らが「私はなになにを熱愛している」などと口にすることは気恥ずかしい気がする。
 態度的な意味で使われるはずの熱愛も、目に見える形をとらえて取りざたすることが、特に芸能ニュースにはよく見られる。結婚していない芸能人の男女がいっしょに歩いているところを見られたりすると「熱愛疑惑」という表現で報じられることがある。そのような報道を「熱愛報道」と言う。不倫関係の場合もあって、それは「熱愛スキャンダル」になる。目に見える形の熱愛の実態は「インドア愛(部屋の中で朝まで過ごす)」とか「お泊まり愛」とか「焼き肉デート」といったことであり、愛するということに伴う態度は問題にされていない。
 ご飯や下駄箱やつり革の例と同列に扱う必要はないけれど、本来の熱愛の、一つの形の現れに類似した事柄をとらえて、それを熱愛と称する。本来の意味を極度に拡大解釈した用法だと言えるだろう。
(2013年3月14日)

[1512]新・ことばの路地裏 第310回 「迫力に欠く」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2013年03月07日 (木) 04時31分

第310回 迫力に欠く

 自動詞と他動詞とで、名詞の格形式が異なるのが一般的である。「ドアが閉まる」と「ドアを閉める」、「水が流れる」と「水を流す」、「枝が折れる」と「枝を折る」など、たくさん思いつく。
 また、ニ格とヲ格が対応する場合もある。「欠ける」と「欠く」の対がこの例である。他動詞の「欠く」には意志性がない。このためか、目的語を「を」でマークするという意識が乏しくなることも考えられる。慣用的な表現として、精彩を欠く、義理を欠く、一貫性を欠く、画竜点睛を欠く、などがある。他にも、誠実さ、正確さ、冷静さ、慎重さ、穏当、妥当性、バランスなどが目的語になる。
 当然のこととして、「迫力を欠く」「迫力に欠ける」のように対になっていると信じていた。ところが、「迫力を欠く」とあるはずの部分に「迫力に欠く」と表現された文章に出くわした。素人が書いた文章ではなく、ウエブ版ではあるが新聞記事である。
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 第2次安倍内閣発足後、初めて衆院代表質問に立った民主党の海江田万里代表は壇上から本会議場を眺め、民主党議員の少なさに改めて衆院選での大敗を実感したに違いない。自民党の議員数の多さに気おされてか、その弁舌は迫力に欠くものとなった。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130130/stt13013023100004-n2.htm
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 どの格助詞を使うかということは、いわゆるテニヲハの問題である。新聞記事は校閲を経て印刷される。ウエブ版の校閲が現実にどのように行われているのか知らないし、この記事に相当する印刷版でどうなっているかも調べていない。単なるミスかもしれない。記事を読む人は、内容を読むのであってテニヲハに目くじらを立てては読まない。だからあげつらうこともないけれど、もしかしたら、大袈裟に表現しようといったような意識があって「迫力に欠く」の表現になったのかもしれない。
 同じ記事の中に、「本会議終了後の海江田氏は疲弊した表情だった。」というのがある。こんな場面で「疲弊」を使うかなあと、違和感を覚えた。「疲れた」で十分だ。
(2013年3月7日)




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