投稿日:2012年08月30日 (木) 04時08分
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てんで
否定表現と呼応する副詞「てんで」が肯定文に使われる例がある。 金田一春彦がかつてこんなことを言っている。 ***************************** たとえば昔の人は「てんで」とか、「ぜんぜん」という言葉は「てんで物にならない」とか、「ぜんぜんなっていない」と打ち消しに言ったけれど、今の人は「てんでおもしろい」「ぜんぜんいい」などということを言う。(金田一春彦「日本語は乱れているか」p.9、講談社ゼミナール選書『変わる日本語 現代語は乱れてきたか』1981年) ***************************** 「ぜんぜん」が肯定表現とともに使われることは今ではよく知られている。これに対して「てんで」の場合は否定表現との呼応はよく知られているが、金田一が指摘するような「てんでおもしろい」という表現はあまり知られていないのではないかと思われる。 『新潮文庫の100冊』を検索したところ、「てんで」の用例が45例あった。このうち、明らかに否定形式と呼応するものが33例ある。肯定文での使用だが否定的な内容を表すものとして、「てんで鈍い」(3例、すべて山本周五郎『さぶ』)、「てんでダメ」(2例、いずれも曾野綾子『太郎物語』)、「てんでだらしがない」(井上ひさし『ブンとフン』)、「頭はてんで旧式」(『太郎物語』)のような例がある。 これらに該当しないものは程度を強調する用法である。使用例は多くはないけれど、以下の例があった。「てんで嘘っぱち」「てんで口実なんだ」(いずれも『太郎物語』)、「ぼくのお粥まだ? こちとら、もうてんでお腹がすいちゃったい!」(北杜夫『楡家の人びと』) こういった「てんで」は筆者自身、ほとんど使わないものである。使用例から推測すると、東京では使われているもののようだ。 ただ1例、用法がうまく説明できない例があった。「第一彼の頭に日本画と西洋画の区別などがてんであったかどうかも疑わしい。」(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』の中の「鉄斎」)これは「疑わしい」を修飾しているとみなせば否定的内容を修飾する肯定文となる。しかし文中の位置が離れている。あるいは、「てんから」と同じ意味・用法を持っている例だと理解するなら、「{あたまから/最初から}あったかどうか」という関係として解釈できる。自分ではまったく認識していない用法である。 (2012年8月30日) |
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