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投稿日:2012年06月28日 (木) 05時00分
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茫然自失としている
「茫然」は「茫然と立ち尽くす」「茫然と画面を眺めていた」のように副詞として使い、主体が「あっけにとられている様子」を表す。原因はさまざまだろうが、意外なこと、予想外なこと、衝撃的なことなどが自分の身に起きたときの心の様子である。 「徹吉はしばらく茫然と机の前に坐っていた。」 これは北杜夫の『楡家の人びと』の用例である。十年余に及ぶ原稿用紙3015枚の労作『精神医学史』を書き終えて、満足と充足感が訪れてもよいはずなのに、「生ぬるい虚脱と空白感だけがべっとりと刻まれてい」る徹吉の状態を描いている。 「自失」は動詞で、自分を見失ってぼんやりすることである。 「茫然」と「自失」が結合して「茫然自失」という複合語ができる。品詞は「自失」の部分が担い、全体で動詞である。従って「茫然自失する」という形で使う。 こんな表現を目にした。
「少年は重大事故の重みを受け止められず、ぼうぜん自失としている印象だ」と語った。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120425-00000007-mai-soci
「自失」のあとの「と」は不要である、「ぼうぜんと」と言うはずのところを、「自失」を加えたために整わない表現になったのではないかと想像される。あるいは、「茫然自失」の意味はしっかり把握されているけれども、用法にすこしほころびができたと言った方がよいかもしれない。もしかしたら「泰然自若としている」という形式が頭をよぎったのだろうか。 (2012年6月28日) |
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