投稿日:2013年12月19日 (木) 05時51分
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水泡になる
「同じ釜の御飯を食べた仲」とか「ひざにきずを持つ」とか「顔の皮が厚い」とか「熱にうなされる」とか。慣用句をちょっと間違えると不自然な表現になる。「計画が水泡になる」という表現を目にした。正しくは「水泡に帰する」である。「帰する」という動詞は日常的に自由に使われるものではなく、慣用句的な用法の中で限定的に使われるものである。そのために、意識から遠のいているのだろう。「失敗に帰する」「責任を部下に帰する」のようにも使う。硬い表現である。 つい最近発行された『三省堂国語辞典 第7版』を見てみた。「水泡」と「帰する」は、文体の分類で「文章語」としている。文章語というのは、「文章などでよく使われ、話しことばではあまりつかわれないことばです」と説明されている。また、「古語ではありません。あくまで、現代の文章や会話の中に見いだすことのできることば、つまり現代語の一部です」とも説明されている。 文章語としての「水泡」「帰する」は、漢語に由来するものである。これを和語にすると、「水の泡になる」となる。「水泡になる」というのは、もしかしたら「水泡に帰する」と「水の泡になる」とが混交したものだろうか。 「水の泡になる」というのも慣用句的な表現である。『三省堂国語辞典 第7版』の「水」の項目を見ると、「水の泡」が慣用句として出ていて、「せっかくの計画も水の泡だ」という例を示している。「水の泡になる」という慣用句的な動詞表現を名詞表現にしている。「台無しになる」を「台無しだ」とするのに似ている。少し性質が違うが、「了解しました」を「了解です」と表現することもある。しかし、さすがに「水泡になる」は「水泡だ」にはならない。 (2013年12月19日) |
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