投稿日:2013年05月09日 (木) 04時29分
|
第319回 在りし日
中学生のころ(1962年〜1965年)だったかと思う。「ありし日」という表現を「あしりび」と誤読していた。「ありし」という古語的な表現を知らなかったのである。だからといって「あしりび」を何らかの意味をもって理解していたわけではない。ほとんど意味を理解しないで「ありし日」が出てくる文章を読んでいたことになる。 「兎追いしかの山」についても「兎がおいしい、あの山」などと理解していたように思う。「追いし」の「し」が過去の助動詞だという知識を持ち合わせていなかった。「蛍の光」の一節「開けてぞ今朝は別れゆく」についても「ぞけさ」という部分を切り取って、「ぞけさ」って何だろうと疑問に思いつつも、解明しないままにやり過ごしていた。「仰げば尊し」の「今こそわかれめ」についても「分かれ目」ないしは「別れ目」だと思っていた。 はっきりと理解したのは高校で古典文法を習って、過去の助動詞「き」や係り結びの法則についての知識を得た後のことである。 現代語において古語的な表現が慣用句のように使われ続けることは、わりとあるように感じる。 「ありし日」という表現は、現在「在りし日」と書くことができ、そう書いてあれば誤読することもなかったと考えられる。しかし、誤読していた中学生当時は当用漢字表の時代(1946年〜1981年)である。それの音訓を調べてみると、「在」の字には音読みの「ザイ」は認められているが、訓読みは認められていない。したがって「ありし日」と書かざるを得なかった。「ありし」というひらがなの連続を「あしり」と読み間違ったのだ。いったんそう読んでしまうとそのままにしてやり過ごしてきたことになる。「ありし」も「あしり」も意味不明の語として読み飛ばしていたのである。 (2013年5月9日) |
|