投稿日:2012年11月08日 (木) 04時45分
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しっきりなく
芥川龍之介の『杜子春』を朗読で聞いて気がついた。「しっきりなく」という表現があったのだ。 原文を見てみると、冒頭部分で次のように、明確に「し」と書いてある。 ************************** 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来(わうらい)にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。(芥川龍之介「杜子春」大正9年6月) ************************** 東京弁の特徴の一つに、「必要」が「しつよう」になるように、「ひ」の音が「し」と発音されるということがある。大阪弁では逆に「ひちや(質屋)」「ひつこい(しつこい)」「ひつれい(失礼)」のように、共通語で「し」と発音するところを「ひ」と発音する傾向がある。 「しっきりない」を『日本国語大辞典』(小学館)で調べてみると、明治時代の用例(二葉亭四迷『平凡』(1907年)、芥川龍之介『玄鶴山房』(1927年))が載っている。そして、「『ひっきりない』の変化した語」と注記されている。東京弁との関係については何も書かれていない。ということは、単に発音上の変化であって東京に限ったことではないということなのか。 インターネットで検索してみると東京生まれ東京育ちの東京人、芥川龍之介の作品の使用例がいくつかヒットした。『あの頃の自分の事』(1919年)、『舞踏会』(1919年)、『老いたる素戔嗚尊』(1920年)などである。熊本生まれ、福岡育ちで早稲田に行った北原白秋の「新橋」(1911年か)、島根県出身で早稲田に行った田畑修一郎の「南方」(1935年)にも「しっきりなく」が使われている。また、宮城県仙台市の伊東英子の「凍つた唇」(1922年)にも使用例がある。 『新潮文庫の100冊』でも「しっきり」で検索してみた。芥川「芋粥」(1916年)、有島武郎『生れ出づる悩み』(1918年)、谷崎潤一郎『痴人の愛』(1924年)、林芙美子『放浪記』(昭和初期)で「しっきりなしに」の形だが、ヒットした。 以上のことから、大正時代から昭和初期にかけて「しっきりなく」(あるいは「しっきりなしに」)がわりと普通に使用されていたのであろうと想像される。 (2012年11月8日) |
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