投稿日:2012年07月12日 (木) 05時13分
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第276回 火ぶたが落とされた
慣用句の使い方は難しい。うろ覚えのときには使うのをためらう。しっかり覚えていると思って使うと厳密には正しい使い方ではないということもある。 言葉は長い間、いろんな人に使われているうちに形式や意味が変わることがある。これは仕方のないことである。変わったあとの形式や意味を、一般的なものだと理解しているときにはそれを堂々と使うことになる。 「決戦の火ぶたが落とされました」という表現があった。(東照二『選挙演説の言語学』ミネルヴァ書房、2010年、p.18) 違和感を覚えた。 そもそも「火ぶた」というのは「火縄銃の火皿の火口をおおうふた」(デジタル大辞泉)のことで、「火ぶたを切る」という慣用句は、火ぶたを開いて点火の準備をするという意味が転じて、「戦いや競争を開始する」ことを表す。 ところで、「火ぶたが切って落とされた」という表現を日常よく耳にする。これの元になっている「火ぶたを切って落とす」という表現は、「幕を切って落とす」と「火ぶたを切る」との混交(コンタミネーション、contamination)であり、間違いだ、と辞書に書いてある。 だとすると、「火ぶたが落とされました」というのは誤用の混交形をはしょった形式で二重の誤りを犯していることになる。 もっとも、混交形がすべて間違いだというわけではない。広く使われるようになると、それが慣用となることがある。よく指摘される例として、次のものがある。 「とらえる」と「つかまえる」からできた「とらまえる」 「やぶる」と「さく」からできた「やぶく」 京都の方言だと思われる「におぐ」は「におう(臭)」と「かぐ(嗅)」からできたものだろう。 選挙の演説で「火ぶたが落とされました」という表現を聞いても、演説の本筋とは関係がないし、聞いていても聞き流されるだろう。そうすると、厳密にいえば誤用となる表現も誤用だと意識されることもなく存在しつづけて、やがて安定的な用法の座を獲得することになるのかもしれない。 (2012年7月12日)
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