投稿日:2012年05月24日 (木) 05時01分
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第269回 判然
かつて(2009年3月12日、第102回)取り上げたことがある。もう一度、取り上げる。 1914(大正3)年4月20日〜8月11日に『朝日新聞』に連載された夏目漱石の『こころ』の中に、「判然」という表記が21箇所ある。これを集英社版(1995(平成7)年6月14日第10刷)を底本とした青空文庫のテキストに従って読み方を調べてみた。 「はっきり」17例、「はんぜん」2例、「はきはき」1例、ルビなし1例であった。 「はっきり」の例には「そう判然りした事になると私にも分りません。」(第10節)、「私の顔の上に判然りした字で貼り付けられてあったろう」(第36節)のように、「り」が送られていて明らかに「はっきり」と読むことが分かる例がある。「はんぜん」と読ませているのは「判然とは覚えていませんが」(第30節)と「其所の区別が一寸判然しない点がありました」(第34節)である。「はっきり」と読んでも差し支えないだろう。そして、「男のように判然したところのある奥さん」(第45節)は「はきはき」と読ませている。ここは「はんぜん」も「はっきり」もしっくりこない部分だ。ルビがないのは「私自身に罪悪という意味が判然解るまで」(第13節)という箇所である。 形式を観察してみると、「はっきり」には二つのものがある。一つは「二度目には判然断りました」(第5節)のように「と」語尾を伴わず副詞として用いられるもの。もう一つは「別に判然した返事もしません。」(第43節)のように「はっきりした」の形で名詞を修飾するものである。一例だけ「誰だか判然しなかったが」(第9節)のように動詞化した例があった。 このような観察からすると、ルビのない「意味が判然解るまで」は「はっきり」と読ませるのが妥当であろうと推測できる。 しかし、かなり気ままに表記している傾向が見られる漱石のこと。結局、正解は判然解らない。 (2012年5月24日) |
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