投稿日:2012年02月23日 (木) 19時03分
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過小評価表現「単なる一○○にしかすぎない」
本を読んでいて、これ以上の過小評価の表現形式はないのではないかと思うものに出くわした。 ササキバラ・ゴウ著『〈美少女〉の現代史 「萌え」とキャラクター』(講談社現代新書、2004年)にこうある。 **************************** この作品(注:劇場用アニメ「ガリバーの宇宙旅行」)で宮崎(注:駿)は単なる一動画マンにしかすぎなかったのですが、(以下省略)(p.117) **************************** 今では日本アニメの巨匠と称される宮崎駿監督がまだ若い頃、入社間もない25歳の時のことを取り上げて、このように紹介しているのである。「この作品で宮崎は動画マンであった」と言うこともできる箇所である。それを「一個人」「一私人」といった例の「一」を冠して多数の中の一人として位置づけた。さらに、重要ではない、取るに足りないといったニュアンスを帯びる「単なる」を冠して駄目を押している。「単なる一動画マンである」としても過小評価の表現として十分に成立する。 さらに「〜にすぎない」で締めくくっている。「単なる一動画マンにすぎない」これで、今日の巨匠宮崎駿との際だった対比が出来るのだ。しかし、筆者の筆はそれで収まらなかった。「しか」を添えたのだ。助詞「しか」は「これしか方法がない」のように、否定文に現れ、「これ」以外のすべてを否定する表現を作る。「これしか方法がない」というのは「これだけが可能な方法だ」ということと同等で、否定は見せかけであり、実質的には肯定である。 ところが面白いことに「〜にすぎない」は形式的には否定だが、意味的には何も否定していない。それが「しか」とマッチして「〜にしかすぎない」という、言ってみれば重言的な表現を作り出しているのである。重言的な表現に仕立てることによって意味を強調しているのである。 こうして「単なる一動画マンにしかすぎない」という形式が成立することになるのである。 (2012年2月23日)
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