| [76] 026:The World (5) |
- - 2006年01月29日 (日) 11時40分
夜半になって激しさを増す雨の中、強風が吹きつける。 横殴りにしぶく雨に打たれながら、朱泱はただ一つを念じている。
(振り返るな)
* * *
襲撃は突然だった。圧倒的な妖気が一気に押し寄せ、気付いた時には寺は完全に囲まれていた。 「もう一つの天地開元経文を渡せ! 魔天経文を出せ!」 その言葉から虐殺は始まった。
こいつらが光明様を殺めたのだ、光明様の仇をとれ という復讐心はもろくも粉砕された。 力、敏捷性、速さ、瞬発力、どれをとっても人と妖怪との力の差は比べものにならない。更にその身から立ち昇る妖気を浴びるだけで人間は恐怖におののき、身体が萎縮してしまう。彼らは妖力制御装置というくびきを外しただけではない、異様に凄まじい妖気を放っていた。 逃げ惑う者も、ありあうもので身を守ろうとする者も片端からなで斬りにされた。妖気に耐えて立ち向かった法力僧ですら、いくらもたたぬうちに、なぶり殺しにされた。殺戮の合間に彼らの発する言葉はたった一つだ。 「魔天経文はどこだ?」
妖怪の振り下ろす太刀をかろうじて錫杖で受け止め、流し、反撃する。飛びすさって念を込めた呪札を放ち、動きを鈍らせて鋭い石突を叩き込む。 何回繰り返したか、朱泱は数えることもできない。腕は鉄鎖に絡め取られたように重く、息が乱れる。札に込める集中力もいつまで保つか分らない。 呼吸を整える暇も無く次の妖怪が襲ってくる。 呪札に手を掛けながら身体をかわそうとした時、足元に倒れていた妖怪の手が朱泱の足首を握った。バランスを崩しながらも、渾身の力で錫杖を倒れている妖怪の顔めがけて突き立てる。振り下ろされた青竜刀の奥に見える妖紋に向って呪札を投じる。倒れかけた身体を青竜刀の刃が薙ぎ、朱泱の左胸から血が迸った。 血みどろの錫杖を引き抜き、続く太刀を受け止める。濡れた手がすべり、太刀を受けきれない。生温かいものが胸の皮膚を伝わっていく。 痛みなどもう感じない。 目を落とせば、己の胸元で揺れる赤い数珠が視界に入る。
(江流)
泥濘に背中から倒れながら朱泱の思考は一点に集中する。
(振り返るな) (真っ直ぐ前だけを見て進め)
仰向けにあえぐ顔めがけて容赦なく雨が降りかかる。
(風に向って進め)
振り下ろされた青竜刀が額をかすった。転がりつつ妖怪の脚に廻し蹴りを入れる。倒れこんでくる妖怪の光る目に、起き上がりざま、気を振り絞って二本の指を突き入れる。
(夜空を焦がす炎の色に気付くな) (燃え上がる伽藍の黒煙に気付くな)
ぺっと口の中にたまった血の泡を吐いた。胸はふいごのように鳴っている。顔を押えて苦悶している妖怪に身体ごと倒れこんでとどめを刺す。
(ただ闇に向って進め)
額から流れ落ちる血を朱泱は拭った。燃え上がる本堂目指して、よろめく身体を錫杖で支えながら歩き出した。
(お前ならばいつか闇を抜けることが出来る。お前の世界を見つけることが出来る)
皮肉な笑いがこみ上げた。
(俺は一人でも多く道連れにしてやるからな。羨ましいだろ、江流)
本堂は今や壮大な篝火と化している。 轟々ととどろく巨大な火柱を吹き上げ、熱風が唸りを上げて濡れた身体を打ちつける。燃える木切れが炎をたなびかせ気流に乗って四散して行く。夢魔の花火のように華やかだ。
(光明様の荼毘の炎だ。悪夢の続きだ)
闇に飛び交う炎の先に、朱泱は僧正の姿を見出だした。 数人の僧に囲まれた中、腕を振るって何事か下知していた僧正は、突然血を吐きその場に倒れた。僧正と取りすがる僧らの背後に、その時、妖怪が跳んで降りた。 (間に合わない!) 朱泱は足を速めた。焦る心に足がもつれる。
「魔天経文はどこだ!」 振り向いた大柄の僧の顔が引き攣っている。離れていても分るほどに体が震えている。いつか試合で江流に叩きのめされた法力僧だ。 「こ、ここにはない。江流が下山したと僧正様が、い、言われてる。き、経文は、江流だ、江流が持ち出したんだ。助けてくれ、魔天経文はもう寺にはないんだ」 火のはぜる音が鳴り渡る中、僧の逆上した金切り声が風に乗ってはっきり聞こえた。 「良純!!」 朱泱の制止は、我を失った僧には届かない。 「そうだ、ここにはないんだ。こ、江流だ。あいつが三蔵法師のはずはない、あいつは天地開元経文を盗んだんだ。金髪のこぞうだ、まだひよっこみたいな金髪のガキだ! あいつが経文を持ち出したんだ! 今から追いかければすぐ追いつくぞ。殺すんなら、あいつを殺せ!」 「ありがとよ!」 妖怪のどすの利いた声が僧の喚き声を断ち切った。僧の首に妖怪の爪が突き刺さっている。笛に似た音を立てて血しぶきが噴き出した。 爪を引き抜くと同時にどっと倒れる巨体に目もくれず、その妖怪は怒鳴った。 「経文はガキが持ち出したそうだ。山狩りだ、雑魚に構うな。金髪のガキを探せ!」 おうっ と四方で声が挙がる。 「山狩りだ! 金髪だ! 金髪のガキを探せ!」 怒鳴り交わす妖怪の声が次々に伝わって行く。 逃げ惑う僧たちを追いかけ惨殺していた妖怪らの動きが明らかに変わった。潮が引くように寺から離れると、何方向にも分かれて暗い森の中へ飛び込んで行く。 茫然と朱泱は立ち尽くした。
(奴らにお前を殺らせるわけにはいかない)
一寸先も見通せぬ山中を雨に打たれながら独り歩む姿が目に浮かぶ。 夜目の利くこいつらは闇の中からあの金色の少年を見つけ出すだろう。鎌のような爪をあの肩に突き立て華奢な身体を切り刻むだろう。憤りにらんらんと輝くあの瞳を抉り取ろうとするだろう、金の髪をつかんで白く細い首筋に牙を立てるだろう。経文を手に入れる興奮に酔いしれて、奴らは江流を無残に引き裂くだろう。
(それだけは‥耐えられない‥) 朱泱は咽喉を締め上げられたように喘いだ。 満月が後光のように照らした神々しいまでの金の髪と紫暗の瞳の美しさに感嘆したのは、まだ昨夜のことではなかったか。
(この気持ちに名前をつけることは、出来ない) 出来ないが、ただ‥。 (こいつらにお前を傷つけさせはしない)
* * *
今まで、朱泱が考えまいとしていたことがあった。 僧正に玄奘三蔵の出立を報告して、さほどの時を経ぬうちに来襲を受けた。あわてふためく法力僧らに指示を飛ばしながら、朱泱は僧達の最前に立って戦っていた。気が付いた時は、既に本堂から火の手が上がっていた。 その時、炎の中に光明三蔵の亡骸があることに安堵さえしていたのだ。少なくとも死の間際に師範が気にかけていたことだけは、見届けることができたのだから。 『阿頼耶の呪』の封印は、これで破られることはない。寺が焼け落ちても、廃墟の中で誰にも気付かれること無く禁断の呪符がいつか時によって朽ち果ててくれればそれでいいと思った。 途切れることなく襲い掛かって来る妖怪の太刀を受けながら、もはや自分も寺の僧たちも、死ぬまで戦い続けるだけだと覚悟を決めていたのだ。
だが。 (力が欲しい!) 不意に激情が込み上げた。 (急がなければ、こいつらは江流に追いついてしまう) (いかに法力や武術に優れていても、江流はまだ子供だ。独り戦い続ける体力が無い) (‥『阿頼耶の呪』の力があれば、こいつらを倒せる!) (光明様が亡くなられて呪符を制する気脈は途絶えた と師範は言われた。ならば封印を解くことさえできれば、『阿頼耶の呪』は‥‥) 朱泱は自分に言い聞かせるように呟いた。 「俺は封印を破ることができる‥」
そして激情の陰から頭を持ち上げたもの。 (俺は『阿頼耶の呪』を使いこなせるか? いやしくも『禁断の呪符』と呼ばれ怖れられる強力な札を?) くいしばっていた口元が緩み、不敵な笑みが浮かぶ。 (‥‥やってやろうじゃねぇか) 仮にも札使いと呼ばれた己の矜持。 (『阿頼耶の呪』を使いこなせれば、俺はどんな妖怪からも江流を守ることができる) (たとえ今だけでもあいつを守れるならば、それで本望じゃねぇか)
(‥師範‥) 魂の奥底まで見通すかのような厳しい師の眼差しをまざまざと思い出しながらも、心は既に決まっている。 (どのような末路を辿ったとしても、このまま手を拱いて傍観することだけはできないのです)
妖怪どもの数が明らかに減っている。今ならば隙に乗じて経蔵まで走り抜けることができる。 朱泱の足に力が戻った。

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