| [73] 026:The World (2) |
- - 2006年01月28日 (土) 17時03分
したたるような新緑の山道を光明と江流は登っている。 幾重にも重なる若葉の隙間をぬって木漏れ日が輝き、黒々と湿った大地には二つの薄い影が映っている。芽吹く樹々の香りと下生えの若い青草の匂い、野草の小さな花から漂う芳香が入り混じったかぐわしい森の中で、二人は何度も深呼吸した。 「江流、やはり春の森はいいですね」 光明は振り返ると、養い子に優しく声をかけた。 「温泉も良かったけれど、この森の香りを吸い込むと生き返るようです」 「いい気持ちです、お師匠様」 少年は笑って、師の顔を見上げた。 「胸はお苦しくないですか」 「大丈夫です。この一月ですっかり元気になりましたよ。もうあの薬湯は飲みませんからね、江流」 光明の穏やかな顔を彩るように、白皙の額の周りを小さな薄紫の蝶が舞っている。 「この峠を越えた次の山に入れば、金山寺はもうすぐです。夕方には寺に着くでしょう」 「はい」 江流はため息をついた。そして思い切ったようにそっと付け加えた。 「こんなに楽しかった毎日は初めてです」
江流は金山寺の中だけで生きてきた。光明に連れられて里の村へ行ったり他所の寺へ供をしたりしたことはあるが、今度の旅のように一月も寺から離れ、光明と二人だけで暮したことはなかった。物心ついて以来、これ程長い期間を一日中光明と共に過ごしたことは初めてだった。 山奥の温泉は万病に効くと評判だったが、光明らが訪れた時には、農繁期のせいか誰も湯治客は滞在していなかった。 自炊しなければならなかったが、時々麓の村人が食材や日用品を背負って売りに来たし、毎日の散歩で摘む山菜やキノコを使って拵える食事の仕度さえも楽しく、二人は朝から声をあげて笑いながら過ごした。 最高僧の教えの元に手製の竿を作り、師弟は夜明けに起き出しては、渓流の溜まりに隠れ住むヤマメやウグイを釣りに出掛けた。
「いつか二人で遠くへ旅をしたいですね」 光明はそう言って、江流に微笑みかけた。 「はい、どうぞ連れて行ってください」 師を仰ぎ見る紫暗の瞳は真剣な輝きを帯びている。 「どこに行きたいですか」 「お師匠様のいらっしゃるところならばどこへでもお供します」 「西域の砂漠でも?」 「はい」 「カイラスの山々でも?」 「はい」 「天竺でも?」 「ええ、お師匠様の行かれるところなら、世界中どこへでも江流はついて行きます」 「それは頼もしいですね」 江流は師を見返して幸せそうに笑みをこぼした。だが、ふと師の穏やかな慈眼のどこかに何かをこらえるような影が差した気がして、不安の声を上げた。 「お師匠様?」 「はい?」 江流に向けられた温顔に曇りは無い。光明は樹々の枝が折り重なったあたりを指差した。 「ほら、あの枝の陰に山鳩の巣がありますよ」
光明の指さすあたりに目を遣りつつ歩いていた江流が、ふと立ち止まった。 脚を止めた江流の顔を、立ち止まった光明が小腰をかがめて覗き込んだ。 「どうしました?」 「何か居ます」 顔を動かさずに眼だけを四方に走らせながら小声で答える江流の顔は、つい先程の子供らしい笑顔とは別人のように引き締まっている。 「道端の花を見ているような振りをしていて下さいね」 光明の囁き声はどこかに笑みを含んでいる。 「どの方角に感じますか?」 「山側の林の中に1、いや2、‥‥山手から張り出した樹の上と、左斜面の茂み‥、先の曲がり角あたりも怪しいです‥」 「よくできました」 のどかに光明は褒めた。 「‥‥普通の気配ではありません」 「これは、妖気ですよ、江流。妖怪の放つ殺気です」 「‥‥妖気」 江流も妖怪を知らないわけではない。 しかし人と妖怪が共存する桃源郷といえども、人里離れた山の中に建立された金山寺を訪れるのは僧か仏道の信者である人間が殆どだ。光明のもとに稀に妖怪の客人が訪れたこともあったが、制御装置をつけているためか江流が違和感を感ずることはなかった。 「山賊でしょうか」 背負った荷物のひもに手を掛けながら、江流の身内に闘気が湧き上がる。 「さて、どうでしょう‥‥」 光明はのんびりと言った。 「困りましたねぇ。妖怪の力の強さは侮れません。まともに打ち合わないように、押さえ込まれないようにして下さいね。江流が左側、私は右側の方たちをお相手するというのは‥‥」 「いえ、お師匠様はどうぞこちらで!」
師の言葉の最後まで待ちもせず荷を投げ捨てると、錫杖を握り締めた江流は一気に走り出た。 江流の動きに呼応するように黒い影が飛翔する。山道に大きく差し掛かった大木の陰からおよそ人間には不可能な跳躍を見せた妖しの者は、奔流のような妖気を放ちながら、長大な刀を振り下ろした。 江流は真横に飛んで、錫杖を斜面の山蕗の茂みに突き入れた。 「うぉっ」という声をあげて刺された太ももを押えた別の妖怪の体を蹴り飛ばす反動で空を跳んで、無人の道に青竜刀を振り下ろした妖怪の後頭部を襲う。錫杖の金輪に陽射しが反射して光の軌道を作った時には、地べたに妖怪が崩れ落ちている。 ざざっと森の枝葉を揺り動かしながら、三方から妖気が江流に向って殺到していく。
* * *
「それで、どうしたんだよ!」 せき込んで朱泱は先を促した。 光明の庵の縁側で、江流は旅の荷物を広げている。山門をくぐるや集まって来た僧たちに連れて行かれた光明は僧正らに茶の供応を受けているらしく、この庵の周りはひっそりと静かだ。 「どうって無事に帰って来た」 行儀悪く縁側に片足をかけて身を乗り出した朱泱に、江流はことさら何気なさそうに答えた。だが隠し切れない興奮に、紫暗の瞳は明るく輝いている。 「それは見れば分る! 妖怪たちはどうしたかって訊いているんだ!」 「山の斜面を転がり落ちたのが2人、怪我をして逃げていったのは4人だったと思う」 朱泱は思い切り腕を伸ばして江流の両肩を掴んだ。反射的に逃げようとする肩を掴んで、頷きながら何回も揺さぶった。 「よくやった。江流、よくやったぞ」 「俺一人でやったんじゃないんだ。お師匠様が手助けして下さって、そうでなければあんなにうまくはいかなかった。でも」 小さな声で江流は付け加えた。 「嬉しかった」 口元が小さくほころんだ。 「俺はようやく自分の生きる理由が分った。俺はお師匠様をお守りするために拾っていただいたんだ。俺はそのために育てて頂いたんだ。俺は一生、お師匠様をお守りして生きて行く。お師匠様のお側にいるためには坊主にもなるし、何でもする。そう決めたんだ」 抑えていたはずの声が次第に大きくなった。少年の肩から手を離しながら、朱泱は白い歯を見せて笑った。 「お前が光明様にお仕えするのは、もう決まっているじゃないか」 「うん」 江流も珍しく笑い返した。 「だが、もっとそう思ったんだ」
「ところで、その妖怪たちは何も言わずにいきなり襲ってきたと言ったな」 上気した顔で立ち上がり、ことさらに無表情を装って光明の居間の小引き出しや押入れに旅の持ち物を戻して行く江流を目で追いながら、朱泱は声をかけた。 「ああ」 「山賊のようだったのか?」 「俺は山賊を見たことが無いが、奴らの武器はそれなりだったし、攻撃の統制もとれていた。人を襲うのに慣れてる奴らだ」 江流は小首を傾げて動きを止めた。 「それがどうかしたのか、朱泱」 朱泱はしばらく黙って何かを考えていた。だが、思い決めたように目を上げると口を開いた。 「光明様は、そのことについて何かおっしゃったか?」 「二人ともケガをしなかったことだし、このことは僧正様たちには内緒ですよって、おい、朱泱、他言するなよ」 あわてて江流は付け加えた。 「分ってる」 朱泱は自分の前の縁側をたたいた。 「ちょっと座れよ。お前に聞きたいことがあるんだ」 「何だよ、早く片付けたいんだ」 「妖怪について、光明様はお前に何か言われたことがあるか」 朱泱の真剣な面持ちに、江流は立ち止まった。 「特に何も無い。人も妖怪も共に桃源郷に生きるものであり、いたずらに妖怪を蔑む人間がいるがそれは愚かだ とは以前に言われていたが」 「そうだ、仰るとおりだ。人間も妖怪も同じだ。いい奴も居れば、ろくでなしもいる。ならず者や裏の稼業をしている者は妖怪に多いと言われるが、俺がまだ寺に入る前に知り合った妖怪の奴らは気のいい連中ばかりだった。だが‥」 そう言ったものの朱泱はためらった。 「妖怪が高僧を食えば妖力が増す とか、不老不死になるとかの迷信をきいたことがあるよな」 「おい、そんなバカな話をあんたは真に受けているのか?」 呆れたような口調の江流に、朱泱は強く言い返した。 「しかし、現にそんな空言に惑わされて僧を襲う妖怪もいるのは事実だ。妖怪を忌み嫌う僧侶が多いのは、仏道を信じる妖怪が少ない上に、そんな出来事が現実にあるからなんだ。特に三蔵法師は最も神に近い尊い方だ。中には三蔵法師をその体と同じ重さの金と取引してもよいという輩さえいるらしい」 少し口ごもって朱泱は続けた。 「その御身体が生きていても‥‥死んでいてもだ」 「何だって?」 江流の表情はこわばる。 「となれば金に群がるのは妖怪も人も同じだ。三蔵法師を狙うのは妖怪だけではないということだ」 「お師匠様もか? お師匠様も命を狙われてきたというのか!?」 唇を震わせて江流は叫んだ。 「そんなことがあっても不思議はないと俺は思う。だが光明様はお強い。生半可な奴らでは歯も立たないだろう。ただ、光明様は経文のことでも妖怪に狙われる理由があると俺は聞いている」 食い入るように江流は朱泱を見詰めている。 「魔天経文は光明様が守護なさるまでは、代々妖怪の三蔵法師が守り人を務められてきたことは知っているな? 先代の天蚕三蔵法師は光明様の修行時代からのお知り合いで、天蚕三蔵様から是非にと頼まれて、光明様は聖天経文に加えて魔天経文の守り人となられたそうだ。だが妖怪たちの中には、代々妖怪の三蔵法師が守護してきた経文をなぜ人間の三蔵法師が守護するのか、魔天経文は妖怪が持つべきだ という不満が根強くあって、そのため以前には光明様が妖怪に襲われたこともあったらしいんだ。もちろんそんな奴らに遅れを取る光明様ではないが」 「では今日襲ってきた奴らは魔天経文を強奪するつもりだったのだろうか?」 「それは分らない。光明様とお前が湯治に出掛けられてから、この近辺の山々で山賊の被害に遭う者が続出している。残虐な奴らで、出会った者を皆殺しにして金品を奪っているから、その正体が人なのか妖怪なのかも分らん。お前が遭遇した奴らが単なる山賊なのか、それとも光明様を狙って襲って来たのかは分らない。ただの山賊だと良いと俺は思っている」 江流は目を伏せて沈思している。 「経文を守るということがどういうことなのか俺なんぞには想像もつかないが、二つの経文を守護なさる光明様が今まで相当な危険を担っていらしたことだけは確かだろう。それにしてもだ」 朱泱は重い雰囲気を振り払うように続けた。 「今回の護衛はお前一人で大丈夫だ、弱い奴らをたくさん付けても目立つだけで却って光明様の足手まといだ と僧正様に申し上げてはいたものの、山賊の被害の多さにいささか心配になっていた。こっそり様子を見に行って俺も温泉に入ろうかと思ったくらいだ」 伏せていた目を江流は上げた。挑むような眼差しが強い。 「朱泱、俺はもっともっと強くならねば。もっと強くなって、お師匠様をお守りする」 朱泱は頷いた。 「さっき山門で、久しぶりに光明様のお元気そうなお姿を拝見して、俺は本当にほっとしたんだ。それ位この冬はお身体が弱っていらしたんだと改めて分った。確かに今も光明様はお強いと俺は思う。だがもしこの先、お身体の加減が悪くなった時にはいつもお傍に仕えているお前が頼りだ。お前はこれから成長期だ。法力も武術も修行する程ぐんぐん強くなるだろう。光明様をずっとお守りしていてくれ」 朱泱は立ち上がった。 「また道場に出て来いよ。俺がお前に教えられるのは札の使い方ぐらいだが、いろいろやってみるのもいいだろう」 「ああ。少しでも強くなれるなら何でもする。俺が出来ることはそれしかない」 朱泱を見上げるその紫暗の瞳からは、抑え切れない力が真っ直ぐに放たれている。 早春の早瀬を思わせる鮮烈なその視線に気圧されそうになりながらも、朱泱はしばしその場に立ち尽くした。

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