私は1995年頃から呑込みに多少の苦労を感じ初めMRI二回また胃カメラEGDテスト後Leiomyoma,平滑筋肉腫と診断され外科医の手術詳細を聞き胸部切開手術の大げさに納得できず「お願いします」と言えませんでした。しかし呑込み不自由は良くならず一年後に同じ外科医に最近の内視鏡を使い less invasive な体に楽な手術法は?と聞き彼は「私は悪質な癌としての手術方こそ知らない」又「私のグループの医者等は好く言わないだろうがーー」と渋々USC(南加大学)のDr.Petersを紹介して頂きました。
胸部内視鏡手術の先駆者の一人 Dr. Peters に会い「正しい選択だ、切開手術をすれば色々の後医症の可能性がある」と言われ私は「この手術方を書いた文献はありますか?」の質問に「私の書いた(編集)した本がある」と即時Nurseに関連ページ十数枚のコッピーを頂きました。MRI, EDG、X-Ray呑込みテスト後1997年9月に内視鏡胸部手術 Thoracoscopic Surgery で胃のすぐ上の腫瘍を除去に同意しました。手術前日私の生還率はとの質問に「Los Angeles の Freeway 高速道路上で死ぬよりもっとましだよ」との返事、自身満々と感じました。三時間の手術は実際五時間かかり三日の入院と一週間の一週間の休暇後仕事に何不自由なく仕事にもどりました。
胸部内視鏡手術で食道腫瘍摘出一月後Dr. J. Petersから「腫瘍の病理テストの結果が出た。平滑筋肉腫(Leiomyoma)でなくGISTだった、又再発の可能性があり稀だが転移する」と言われました。後で取り寄せた病理レポートによると3.5 x 2.2 x 1.2cm大の腫瘍で腫瘍組織はCD34に陽性、S-100には陰性反応を示し、顕微鏡下の細胞分裂(mitosis)は見られなかったと書かれていました。
2003年の暮頃からまた時々軽い呑込み不自由を感じはじめ2004年5月にDr. J. Petersにアポ(appointment)を取ろうとしたら彼はNew York の University of Rochesterの外科部長に昇進し彼の教え子の一人の外科助教授、A助教授に診てもらいました。彼の「最近はGISTのレポートも多く新しい薬もでている。次の診療の時にコッピーを取っておいて上げるよ」の言葉に大いに感謝し50マイル (80km)のフリーウェイの帰途につきました。
USC病院 での最初のMRIテストは Normal-正常だったと報告されました。しかしA助教授は約束したGISTレポートについては完全に忘れているようでした。私はInternetでGIST関係のレポートをあさりまくり、その情報の豊富さに驚きました。英語の医学専門語は一般の辞書には出ていなくギリィシャ語とラテン語根で構成されているのが多く医師専用のStedman’s Medical Dictionaryを$98で購入しGISTのレポートを読み知識を深めました。
次の胃カメラテストEGD (Esophagogastroduodenoscopyの略)後私が麻酔からさめる前にA助教授は「同場所に腫瘍を認めたと」妻に言残しました。これはショックでした。Dr. J. Petersの「再発の可能性があり稀だが転移する」の言葉が“癌”と頭に響きました。
私もGIST治療中 4 2004年6月末に二度目のEGD胃カメラテストの一週間後に報告ミーテイングがありました。無口ですが何時も妻が同席します。白人のA助教授は「七年前のMRI画像と見比べて腫瘍は食道内に三日月状に前と同場所に出来ている。胸部内視鏡手術で腫瘍摘出をしたDr. J. Petersに電話し彼は“最善を尽くした。腫瘍組織を完全に摘出することが出来なかった可能性がなかったとは言えない。”と話した」と言われました。当時1997年はGISTのレポートが出始めた頃でGIST定義もなく “肉腫”と診断上での内視鏡摘出手術であれば“腫瘍組織取り残し”も仕方がないと自分に言い聞かせました。私のDr. J. Petersへの感謝は今でも不変です。
最後にA助教授は彼の治療ストラテジー(方策)を話されました。彼はDr. J. Petersの胸部内視鏡手術法は再用出来ない。呑込みが耐えられなくなった時点で胸部切開手術で腫瘍組織の全てを最善を尽くして取り除く。手術後策 (adjuvant therapy)としてGleevecを服用する。食道を切断し一部を取り除く手術はしないと聞かされて“ほっと”しました。しかしGleevec服用はCD117の染色陽性の確認が必須条件と読んでいます。Biopsy, 生検, に二度も失敗し未だに腫瘍組織のCD117 (c-kit) 陽性が確認されていないのにGleevecを服用するとのロジックには納得出来なかったがもう言葉にはしませんでした。