インタービューを読んで、深入りしちゃいけない世界のような気がしました。 三上さんではなく対談相手のかたの言葉だけど・・・。 私には理解できませんでした。
理解できない私が悪いと言われれば、それまでなのかもしれませんが。 うまく言葉に出来ないけど。 ・・・「いつ、どんなふうに」って、死は自分で決められるのです。 十分満足に生きたら、きっとできるでしょう・・・ この言葉に違和感をおぼえました。
死は自分で決められないですよ!!!
十分に生きる? それも自分では決められないでしょう。
悟ればできる? そんな言葉、私は怖いです。
私は片田舎のごく普通の家庭で育ち、ごく普通に日本古来の神様を信じています。 特別な宗教ではなく八百万の神様。 子供が生まれれば、近所の八幡様の氏子になる。 初詣は神社に行き。 でも、法事は檀家になっているお寺さんに頼む。 そんな感じで。 むしろ信心深いほうだと思いますが。 でも、わからないものはわからない・・・。
去年、友達が亡くなりました。 まだ20代でした。
幼い子供を残して癌で亡くなった彼女の死。 「いつ、どんなふうに」なんて、自分で決めたものじゃなかったですよ。 勿論、十分じゃない。
けれど、彼女は聡明で思慮深い人でした。 残していかなければいけない我が子を大切に想うからこそ、子供に自分の記憶を残してはいけないのではないか。 そう思って、病室に子供を寄せ付けなかったそうです。
どんなに辛かったことでしょう。 でも、自分が亡くなった後のことを考え。 自分の感情を抑えて考えぬいて。 新しいお母さんが来るだろうことも想定して。 その人のためにも、子供の幸せのためにも自分の記憶を残すまい。 そう決めていたんだそうです。
入院中に仲良くなった友達には、自分の死さえ知らせないでと言っていたと聞きました。
十分すぎるぐらいまわりのことを考えて。 でも、十分な寿命をまっとうできなかった彼女。 そんな人もいるんです。 そんなこともあるんです。
嫌です。 さよならなんて言葉・・・。 読んでいて、なんだかせつなかったです。
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