[164] 夏休みだよ、というわけで(長文すみません) |
- Gene - 2004年08月01日 (日) 23時43分
夏休みということで、こっそり読書感想文を… お題は夏目漱石『草枕』で。
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8月です。いわゆる夏休みシーズンです。 わたしは7月に6連休を取っているため、今月また取るのもどーか、というところではありますが…
で、その7月の6連休の後半3日で、四国(というか香川)に行ってきました。 2日目に現地で友人と会う以外は、これといった観光地もないような島をウロウロしたりとか、アテもなく一人でぶらぶらと。 そんな旅のお供にと持って行ったのが、夏目漱石の『草枕』でした。 荷物に入れたのは単に読みかけだったからなんですが、続きを読み始めて思わず唸ってしまいましたよ。 なにしろテーマは「非人情」。 ものすごぉぉく大雑把に言えば、俗世を離れた世界、人のいない所へ行ってのんびりしたいよう、という気持ちです。 ちなみに人の情をソデにする(=不人情)ではないのでお間違いなく。
『草枕』の主人公は、都会のしがらみがイヤになって、とりあえず田舎に逃げてみたという絵描き。 今回のわたしの旅行は、仕事からの逃避というのが一番の目的でした。 まず、かの有名な冒頭の一節からして、ズバッとストライク。
山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
で、次が、
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
後半の「詩が云々」はちょっと違うけど、前半は「あー、それそれ」と思える人も多いのでは。 (わたしはテーマも何も無い、単に「逃げ」の旅だったもんで、前半部分のみ該当) 漱石自身、『草枕』執筆時はそういうしがらみやら何やらで相当参っていた時期だそうです。 この主人公は、描きたい絵が描けねえなどとボヤきつつ、旅先の村の人間関係に中途半端に首を突っ込んだりして、最終的に描きたい絵を見出したのは何やらメロドラマ的情景の中だった、というオチがつきます。 しがらみはイヤだイヤだと言いつつ、その中で自分の理想を見出すことができちゃった。まぁなんてラッキーな。 このあたり、漱石の「…だったらなぁ」という思いがチラリと見え隠れしてるような気が。切ない。
話は「これだ!」を見つけたところで終わります。実際に描いたのかとか、描けたのかとか、そこまで行ってない。 この終わり方に、なんだか妙なリアリティを感じてしまいました。実際まだ何も解決はしてないんだよね、と。 わたしの旅行もまた然り。とりあえず逃げて、イヤなことを忘れてスッキリして、でも東京に戻ったらまた元の木阿弥。 所詮は一時的なカタルシスに過ぎません。 果たして、漱石は「これだ!」の先を書かなかったのか、書けなかったのか? 書いたところでお話はお話、読者はスッキリしても、漱石自身はむしろ余計に虚しさを覚えるだけだったことでしょう。 それが薄ぼんやりと見えてしまうがゆえに、最後の場面に言い様の無い不吉さを感じるのです。
さて、冒頭の一節は、こう続きます。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
「〜ねばならぬ」に、覚悟というか、諦めというか、そういうものが淡く滲んでいるような。 …そうですね、そうですよねえ…どうにかやっていかなきゃならない。 それはわかってるんだけど、じゃぁどうすりゃいいのよ?と悩むうちに、また旅に出たくなるのかもしれません。 (ちなみにこの後、芸術の意義や価値について語られており、漱石の芸術に対するマニフェストとも言えそうです)
『草枕』って、初めの一章(の前半)をだけ読んで、じっくり考えてみるっていう読み方もできる本じゃないかと。 もしかすると逆にドツボにはまっちゃうかもしれないけど、そんな時はさっさと旅に出てしまいましょう。 くれぐれも旅の間は普段の生活のことは考えないように。きれいさっぱり忘れる。これ、大事。 その場の解決にしかならないとしても、まぁそれはそれで。 長い目で見れば、きっと何らかの糸口にはなってるんじゃないかなあ、なってて欲しいなあ、と、思うわけです。
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長駄文、失礼致しました。うざったかったら削除していただいて結構ですので…
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