[75]天原 福真
『春眠』
カツン、カツンとアパートの階段を昇ってくる足音がします。 スーパーの買い物袋を両手に下げたあゆみは、階段を昇りきったところでふぅっと一息つきました。その広めのおでこに少しだけ汗が滲んでいます。 「ハァ……やっと着きましたわ」 ため息ひとつ。重い荷物をここまで運んできたこともあり、あまり体力のないあゆみにはいささか重労働だったようです。 何しろ、彼女たちの家は大家族。その買い物の量も半端ではありません。 いつもだったら何人かが連れ立って行くはずの買い物。それが何故今日はあゆみ一人なのかというと…… 「もうっ! わたくしがこんなに苦労しているのも、みんなみんなみかちゃんの所為ですわ! 帰ってきたらとっちめてあげますからっ」 と言う訳です。どうやら、みかは買い物当番をサボって何処かに出かけてしまったようですね。 買い物袋を足下に置き、コキコキと首と肩を鳴らすあゆみ。そんな彼女の視界に、緑鮮やかな若葉が映ります。 「もうすっかり春ですわねぇ」 怒りのため、今までキュッと結んでいた口元を緩めるあゆみ。芽吹く草花や、風に乗ってほのかに香る春の匂いをかぐと、だんだんと心が穏やかになっていくのを感じます。 暖かな日射し。優しく頬を撫でる風が、汗ばんだ肌に気持ちよくて、思わずウットリとしながら呆けてしまいます。 「わたくし、やっぱり春が一番好きですわ……」 前世では、迎えることの出来なかった春。そんな事情故か、あゆみの春に対する思い入れは人一倍です。 しばらくの間、手摺りに寄り掛かりボーっとした時間を過ごすあゆみですが、突然思い出したように、ハッと背筋を伸ばします。 「いけない、こんな事していたら買ってきた物が悪くなってしまいますわ。全くもう、わたくしったら……」 自分ののんびりぶりにため息をつきながら苦笑するあゆみ。そして、足元の荷物を再び手に持つと、ゆったりとした足取りで家へと向かうのでした。 「ただいま帰りましたわ〜」 あゆみの声に続いて、ガチャンとドアの閉まる音が家の中に響きます。 「し〜っ、あゆみちゃん静かになのっ」 すると、そんな囁くような声が奥から聞こえてきました。 あゆみは部屋の中を覗いてみます。 するとそこにいたのは、栗色の髪の毛を肩の辺りまでストレートに垂らした女の子。一瞬、それが誰だか分かりませんでした。 「くるみちゃん……?」 ニコッと笑顔で応える彼女。よく見ると、女の子はいつもお団子状に纏めている髪の毛を解いたくるみでした。 いつもとは違うくるみの姿に戸惑うあゆみ。 更によく見ると、ちょこんと正座したくるみの膝を枕にして誰かが寝ています。 らんでした。気持ち良さそうにスヤスヤと寝息を立てています。 「あらまあ……」 二重にビックリです。見慣れないくるみの姿。そして、そんなくるみに甘えるようにして眠るらん。想像したこともなかった光景が目の前にあります。 「お帰りなさいなの〜」 あゆみが唖然としていると、くるみが小声で声をかけてきます。 「あ。は、はい……」 慌てて返事をするあゆみ。 「お買い物、ご苦労様なの」 微笑むくるみに、ちょっとだけぎこちない笑みを返すと、あゆみは台所へと向かいます。 「はぁ……ビックリしてしまいましたわ。一体くるみちゃんもらんちゃんもどうしたんでしょう?」 買ってきた物を冷蔵庫にしまいながら、小さく呟くあゆみ。 そして、慣れた手つきで紅茶の用意をすると、作り置きのクッキー――らんの手作りです――をお皿に盛って、再び居間へと向かいます。 そこにあったのは、やっぱりさっきと同じ不思議な光景。 あゆみは紅茶とクッキーを乗せたお盆をそっとテーブルの上に置くと、二人の側に腰を下ろします。 「なんだか、すごく意外な組み合わせですわね」 「えへへ、やっぱりあゆみちゃんもそう思うの?」 あゆみの言葉に、くるみが照れくさそうに笑います。 「お風呂上がりにらんちゃんとお喋りしていたんだけど、気が付いたららんちゃん寝ちゃってたの。そのままだと寝辛そうだったから、くるみが膝枕してあげてるの」 事情を説明するくるみ。慣れないことをしている恥ずかしさからか、そのほっぺたが僅かに桜色に染まっています。 「そう言うことだったんですの……」 解いている髪もお風呂に入っていたからなのでしょう。言われてみれば、くるみの身体からは石鹸の良い香りがします。 「フフ……ずいぶんグッスリと眠っていますわね」 らんを見ながら、穏やかな笑みを浮かべるあゆみ。 少し身体を丸めてくるみの膝の上で眠っているらんの姿は、いつもよりほんの少しだけ幼く見えます。 「らんちゃん、いつも頑張ってるから……」 そっとらんの頭に手を置き、呟くようにくるみが言います。 「くるみちゃん?」 「らんちゃんはね、いつもすっごくすっごく頑張ってるの。お水が苦手なのにお料理とか一生懸命作ってくれて、くるみに美味しい物沢山食べさせてくれるの」 ゆっくりと、らんの頭を撫でるように手を動かしながら、くるみは話し始めます。 らんを見つめるその眼差しはとても優しくて、髪の毛を下ろしている所為かいつもより大人っぽく見えるくるみの姿に、あゆみはしばしの間見とれてしまいます。 「くるみは、らんちゃんにいくらありがとうって言っても足りない位なの。一番らんちゃんにお世話になっているの、多分くるみだから」 頬にかかる髪を片手で掻き上げ、くるみは恥ずかしそうに笑いました。そして同じように、らんの顔にかかっている髪の毛もそっと指で退けてあげます。 「らんちゃん、偉いよね。トラウマも我慢してくるみ達のためにお料理作って……。らんちゃんがいなかったらきっとくるみはこんなに元気でいられないの。らんちゃんのおかげでくるみはトラウマに悩まされないで済んでるから……」 あゆみは少し驚きながら、くるみの話を聞きます。良く言えばいつも天真爛漫、悪く言えばいつもなんにも考えていなさそうなくるみがこんな話をするとは意外です。 「あのね、くるみはらんちゃんにごめんなさいって思ってるの。だって、らんちゃんはトラウマを我慢して頑張ってくれているのに、くるみは我慢できていなくって……らんちゃんのためにお腹空いても我慢しようって思っててもどうしても我慢できなくて……。だから……」 らんの頭を撫で続けながら、独白し続けるくるみ。あゆみはそんな彼女を見て、少しずつ胸の中に暖かな気持ちが広がっていくのを感じます。 「でもらんちゃんは、そんなくるみちゃんが大好きなんですわ」 自分で思っていたよりも、ずっと優しい声が出ました。「え……?」 くるみが顔を上げます。 しょんぼりとしたその顔を見てあゆみは柔らかな笑みを浮かべ、そして続けます。 「らんちゃんが頑張り続けるのは、きっと自分が作ったご飯をみんなが美味しそうに食べてくれるのが嬉しいからですわ。いつもニコニコしながら見ていますもの」 あゆみは紅茶を一口含むと、ほぅっと息をつきます。 「中でもくるみちゃんは、一番らんちゃんのご飯を美味しそうに食べていますもの。ですから、くるみちゃんに自分が作ったお料理を食べてもらうのが一番嬉しいはずですわ」 そういったあと、『もちろんご主人様は別格かもしれませんけど』と言って笑います。 「そうなのかな……?」 そう呟いてらんを見るくるみ。とても幸せそうな表情でくるみに膝枕をされています。 「フフ……。その寝顔が何よりの証拠ですわ。大好きなくるみちゃんの膝の上だから、そんな安らかな顔しているんですよ」 優しく微笑んで、あゆみもらんの髪に手を置きます。 「う〜……」 「大丈夫。わたくしが保証します。これでもくるみちゃんよりお姉さんなんですよ。年上の言うことは素直に信じておくものですわ」 そう言ってイタズラっぽい笑みを浮かべるあゆみです。 そして…… 「うんっ、それならくるみもとっても嬉しいの!」 明るい声で答えたくるみの笑顔。それは春の日射しが差し込む部屋がもっと暖かくなるような、そんな素敵な笑顔でした。
そして夕食時。 「う〜ん、やっぱりらんちゃんの作ったご飯は最高なの〜。いくらでも食べられちゃうの〜」 くるみがすごい勢いでご飯をかき込んでいます。 「あぁっ、ちょっとくるみ! それはみかのコロッケよっ。人の分のおかずまで食べないでよ!」 「美味しいの〜。くるみ幸せなの〜」 「あ〜ん、みかのコロッケ〜。折角楽しみに取って置いたのにぃ……」 「ま、まあまあ、ほら僕のコロッケあげるから……」 「えっ、ホントに良いの? ありがとっ、ご主人様。だからご主人様って好・き・よ。チュッ」 「あ〜っ、みかさんってばいきなり何してるんだよっ」 たちまちみかとつばさの口喧嘩が始まります。 「らんちゃん、ご飯おかわりなの〜!」 「はいはい、ちょっと待っててね」 いつもの光景。らんは笑顔でくるみの茶碗を受け取ります。 「はいどうぞ、くるみちゃん」 山盛りによそった茶碗を差し出すらん。くるみは手を伸ばし、そして茶碗と共にらんの手を握ります。 「らんちゃん、いつも美味しいご飯ありがとうなの」 少しビックリした様子のらんでしたが、やがてその表情は満面の笑みに変わります。 あゆみはそんな二人を見ながら、とても嬉しそうな笑みを浮かべるのでした。
おしまい
++++++++++++++++++ 久しぶりにSSを投稿してみような〜などと思い立ったもので……。 くるみがなんか違うと思われた方。その通りでございます(爆) いや、僕としてはたまにはこんなくるみもね。と言うことで書いてみたんですが……。 ドキドキ……。
メール
HOME
2003年05月05日 (月) 02時57分
|