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ぉ初〜〜☻
花美 (62)投稿日:2007年06月23日 (土) 16時09分 返信ボタン

ぉ初ッス〜〜(^!^)/
花美ってぃいマス♥
㋤㋕㋵㋗してねン♪♪
ょろ―――^^

ハイドン(12)
グッキー (61)投稿日:2004年08月20日 (金) 21時41分 返信ボタン

 技法のうえでのハイドンの最大の貢献は、ソナタ形式を確立したことであった。若い頃、彼は主題がほとんど発展しない、音色のきれいな音楽を書くだけで事足れりとしていた。いわば楽器のためのアリアであった。ところが彼の才能が成長し、マンハイム派や初期ウィーン派の作品に通暁し、理想も技法も大きくなるに従って、当時のヨーロッパのいかなる者よりも見事に、ソナタ原理を作品に活かすようになった。ソナタ形式は基本的には、対照と発展である。すなわち、ソナタの第一楽章は呈示、展開、再現の三部に分かれる。呈示部は楽章の基礎となる材料を提示する。強い主題(第一主題)と、より抒情的で対照的な主題(第二主題)がある。時おり、特にロマン主義時代には、これらは男性的要素と女性的要素と呼ばれた。
 展開部では、両主題の一方または双方に手が加えられる。展開部の質が作曲家の能力、想像力、技法をはかる尺度となる。こうした過程のあと、再現部は最初の二つの主題を、大体最初の形のまま回復させる。こうしてアーチ型構造が完結する。古典交響曲の多くは、第一楽章が緩やかな導入部で始まり、歯切れのよいコーダで終わる。緩やかで抒情的な第二楽章が続き、次いで舞踊的な第三楽章(これは省略されることもある)となり、そして最終楽章となる。最終楽章はロンドのこともあるが、これはABACAの様式に従って、主要主題の周囲を補助的主題が回転する形式である。
 これらのいずれも、ハイドンが発明したわけではない。しかしヨーロッパの作曲家のうち、彼ほどこの原則を洗練化した者はいなかった。1760年代から70年代、そして死に至るまで、彼は奇跡的なほど独創性と魅力と生命力に富んだ作品を作り出した。もっとも彼の作品が完全な円熟さに輝くようになるのは、1780年以降となる。彼は史上最大の多産作曲家の一人であり、標準目録によると、交響曲104、弦楽四重奏曲83、ピアノ・ソナタ52、協奏曲多数、多種多様な室内楽曲、多数の合唱曲、オペラ23、多くの歌曲、オラトリオ4、多くのミサ曲――となっている。ハイドンの勤勉なペンが手をつけなかった音楽形式は、一つもない。そしてヨーロッパ全土が、彼を類まれな巨匠と認めていた。
 しかしプロの仲間内では、彼の音楽を過小評価する傾向があった。あまりに軽く甘いと考えられたのである。ハイドンはモーツァルトやベートーヴェンと違って、決して既成秩序に挑戦しなかったため、彼の音楽を極めて当たり前で何の変哲もないものとみなす傾向もあった。ベートーヴェンのスケルツォに大きな影響を与えた、ハイドンの農民のように元気なメヌエット楽章は、しばしば「通俗的」とか「月並み」だと軽蔑された。彼の作品は極めて優美で安定していたので、例えば大胆な調の作り方といった、すぐれた側面が見逃されることも多かった。
 1770年代にハイドンは、いわゆる“疾風怒濤時代”――創作者がもっと個人的な感情を表現しようとした、ヨーロッパの一時代――を経験した。これはロマン派到来の前ぶれをなす衝動であった。この時期にハイドンはヘ短調、ホ短調、嬰ヘ短調、ロ長調(すべて“ロマンチック”な調性)といった、一般的でない調性で作曲した。実際、彼の調性の選び方はモーツァルトより大胆でさえあった。もっとも、特定の調性内ではモーツァルトの方が大胆であったが。そしてハイドンの後期作品には、ロマン派を予期した要素さえうかがわれる。
 しかし何にもまして、人生と芸術に対する率直で明確な、善意に満ちた、病的にならない見方がハイドンにある。「神は私に朗らかな心を与えてくれたから、神に朗らかに奉仕しても神は私を許されるであろう」と、かつてハイドンは書いた。この言葉がすべてを要約している。


ハイドン(11)
グッキー (59)投稿日:2003年10月30日 (木) 00時55分 返信ボタン

 ハイドンは自分が競馬で勝ったかどうか書いていない。少しぐらい賭ける
余裕はあったはずである。ザロモンが約束したように、ロンドン行きは極めて
金銭的に有利であったからだ。あまり有利であったため、彼はロンドン再訪の
誘惑に駆られ、そして実際に1794年初め再訪して1795年8月15日まで滞在した。
第2のロンドン訪問からウィーンに帰ってみると、エステルハージ家は新しい当主に
なっていた。アントン候は死去し、新当主ニコラス候2世はオーケストラを復活して、
主として教会礼拝時に使いたいと思った。ハイドンはこの職務を引き受け、一連の
大ミサ曲を作ったが、それ以外では自分の自由になる時間をふんだんに持っていた。
 彼がオーストリア国歌を作曲したのは、こうした時期であった。彼は英国国歌
『神よ国王を救い給え』の威厳と簡潔さに感銘を受け、オーストリアも同様の
国歌を持つべきであると決意した。この問題は宮廷で討議され、宮内長官が詩人
レオポルト・ハシュカに愛国的な歌詞を書くよう委嘱した。その結果生まれたのが
『神よ、フランツ皇帝を救い給え』であり、ハイドンはこれに曲を付けた。1797年2月12日、
この国歌はウィーンおよび各州の全劇場で歌われた。同年末にハイドンは
『弦楽四重奏曲ハ長調』(作品76の3)の変奏部にこの主題を用いたため、
この曲はたちまち『皇帝カルテット』というニックネームを与えられた。
 1802年にハイドンは職務を解かれた。彼はオーストリア最高の名士の一人
として、ウィーンで静かに暮らした。妻は1800年に死んだ。晩年のハイドンは
病気に苦しみ、それまでどこも痛くなったことがなく、重病に罹かったことが
ない彼が病床にずっと臥す身となった。リューマチで足が腫れて、苦痛で歩けなく
なった。ヨーロッパ音楽界の巨匠ハイドンは、家の中で座っているのを好み、訪問客に
会いたがった。1809年5月31日に彼は死んだ。最後の音楽的行動は、死ぬ一両日前に
ピアノに向かって、オーストリア国歌を三度弾いたことであった。伝えられる最後の
言葉は「子供たちよ喜べ。私は健康だ」であった。葬式ではモーツァルトのレクイエムが
演奏されたが、ハイドンは喜んだことであろう。
 ベートーヴェン以前の多くの作曲家と同様、ハイドンは19世紀中ずっと影が
薄かった。ロマン派は少なくともモーツァルトには関心を抱き、彼の『ドン・ジョヴァンニ』は
心情的にロマン派とそれほど隔たってはいなかった。しかしハイドンの作品は『四季』と
『天地創造』、それに時たま交響曲が演奏されるだけで、それ以外はほとんど演奏会に
かかることがなかった。ハイドンの真価が再確立されるのは、第一次大戦後の
古典主義の復活と、第二次大戦後の古典派とバロックの驚くべき再生を待たなければ
ならなかった。それまで彼は、主として教科書中の人物として尊敬されていただけ
であり、コンサート番組では百以上もある交響曲のうちの数曲(わずか6曲ほど)、
室内楽番組では一握りの弦楽四重奏曲、ピアノ・リサイタルでは『ヘ短調変奏曲』と
『変ホ長調ソナタ』の二作品で代表されるにすぎなかった。ところが突然、ハイドンが
いかに重要な創造者であり、発明家であったかという認識、彼の作品がいかに活力と
創意に満ち、すばらしいものであるかという認識が生まれたのである。
 ハイドンが次々につくり出した作品のうち、1780年代初期以降のものには、
意外にもほとんど変化が見られない。つまり個々の作品を取ると違っていても、
どの作品もすべて、大体同様の方法で活力を与えられている、ということである。
その方法とは、純粋で完全なテクニック、楽観的な感情、明確な設計、男性的な旋律、
驚くほど豊かな和声の織りなす模様、作品に漲る純粋な喜びの気分などである。
ロココの形跡はなく、最も純粋な形の古典主義であって、その音楽は規模が大きく、
情緒的にもつれたところも、複雑なところもない。感情や情熱に欠けているわけでは
ないが、常に受けるのは躍動感である。これは交響曲、室内楽曲、ミサ曲、二つの
偉大なオラトリオのすべてについて言えることである。また二大オラトリオ『四季』と
『天地創造』はいずれも、音楽による最も魅力的な自然描写に満ち溢れている。


ハイドン(10)
グッキー (57)投稿日:2003年06月17日 (火) 00時02分 返信ボタン

 ハイドンの最初のコンサートは1791年3月11日に行われた。
彼はピアノを弾きながら40人のオーケストラを指揮した。それは
彼がそれまで指揮したうち最大のグループであり、彼は大いに興奮
した。コンサートはすばらしい成功を収め、代表的な反響として
モーニング・クロニクル紙の批評家は「このように豪華な音楽の
御馳走は、おそらく今までなかったであろう」と述べ、ハイドンを
シェークスピアと比較したあと、のちほど繰り返されることになる
観測気球を出した。――「第1回目のコンサートが満員なのは愉快
であった。当代随一の音楽天才がわれわれの大歓迎によって、英国
に居を定める気になればよい、という熱烈な希望をわれわれは抑える
ことができない」
 ハイドンは英国で非常に楽しい時をすごした。特筆すべき二つの
出来事は、オックスフォード大学から名誉博士号を授与されたことと、
著名なピアニストの未亡人レベッカ・シュレーター夫人とのロマンス
であった。ロンドンの音楽、社交、生活に関するハイドンの印象は、
彼が忠実につけていた日記、いわゆる『ロンドン覚書』の中に見出される。
 この日記は面白い読み物であり、ハイドンの精神の動きがこれを
読むと、よく理解できる。非常に魅力的な人柄がにじみ出ている。
ハイドンは、飽くなき好奇心を持ち、そして統計を愛した。「英国の
国債赤字は2億ポンド以上と推定される。最近の計算によると、もし
この額を銀で支払うため輸送隊を編成するとなれば、車の列はロンドン
からヨークまで200マイル(320キロ)に達するだろう。これは
車1台が600ポンドの銀を積めるとの想定に立っている」。あるいは
「ロンドン市は毎年、荷車80万台分の石炭を消費する。1台の荷車は
13袋運ぶが、1袋が2単位となっている。石炭の大半はニューカッスル
から来る。時には200隻が一度に到着する。荷車1台分の石炭の価格は
2ポンド半である」。また断片的な音楽批評も入っている。「21日に
レネラグ庭園でジアルディーニのコンサートがあった。彼はブタのように
演奏した」
 ハイドンは1792年6月14日、アスコットの競馬場に行き、
克明な記述をしている。観察力が鋭く、好奇心の強いハイドンは、
すぐれたリポーターであった。彼が過ごした同日の午後についての
記述を読むのは興味深い。ついでに言えば、これは最も初期の競馬
報道の一つである。

 《・・・用意が整うと、二度目のベルが鳴り、一斉にスタートする。
2マイルの円周を回り、出発点に真っ先に戻ってきた者が賞金を獲得
する。第1回は騎手が3人で、彼は円周を止まらずに二度回らねば
ならなかった。このダブル・コースを5分間で回った(これは不可能。
ハイドンの測定時間は早すぎる)。実際にレースを見なければ、これは
信じられないだろう。2回目は騎手が7人で、彼らが円周の中央部に
来た時、7頭すべてが同列に並んだが、決勝線に近づくにつれて、ある
者は遅れた。しかし10歩以上の差にはならなかった。1頭がゴールに
近いと思われ、この時間に多数の人びとがこの騎手に大きく賭けた直後に、
別の騎手がギリギリのところで彼を追い越し、信じられないほどの力で
決勝線に着く。騎手たちは非常に軽い絹の服を着ており、識別をたやすく
するため一人ひとり違った色となっている。長靴ははかず、頭に小さな
帽子をかぶり、猟犬のように痩せ、自分たちの乗馬のように痩せている。
どの騎手も計量され、馬の実力に従って一定の重さが差し引かれる。もし
騎手が軽すぎるときは、重い服を着るか、鉛を付けねばならない。
・・・大きなスタンドが設置され、そこで賭け金を張る。国王は一つの
隅に専用のスタンドを持っている。私は最初の日に5回のレースを見たが、
大雨だったのに満員の馬車2千台と、その3倍にあたる庶民が徒歩で来た。
このほか人形芝居、行商人、怪談劇などがレース開催中ずっと続いた。
おやつを売る多くのテント、あらゆる種類の酒とビール・・・》


ハイドン(9)
グッキー (56)投稿日:2003年06月03日 (火) 00時09分 返信ボタン

 ヨーロッパでロンドンほど音楽活動の盛んな首都は、存在しなかった。
ハイドンの到着は大きな興奮を呼び起こした。ヘンデルの旧友チャールズ・
バーニー博士は、新しい英雄のために堂々とした対句による長詩を書いた。
「ハイドンの英国到着に寄せる詩」という題のこの詩は、次のような
好意的な一節を含んでいた。
     ハイドン!音楽芸術の偉大な帝王よ。
     なんじの作品だけが、その広い領域を支配する羅針盤の中で、
     すべての山野と海の広大な地図を提供する。
     現代音楽家の中で、なんじから思考と演奏術を教えられなかった者はいようか。
     なんじの理論が彼らの頭脳に原料を仕込み、
     なんじの労力が彼らの手腕を強めなかったことがあろうか。

 新聞は大々的にハイドンのことを書いた。1791年1月6日付の
パブリック・アドバタイザー紙は、ハイドンを論じるとともに「冬季の
毎日の音楽行事」という見出しで、ロンドンの音楽行事のリストを載せて
いる。このリストはなかなか立派なものである。――

   ・・・・・諸君は今週の音楽行事を見て喜ばれるであろう。仮に
二つのオペラの合同公演がなかったとしてもである。・・・・・
   日曜日 貴族の予約音楽会が毎日曜日、異なった会場で開かれる。
   月曜日 ハノーバー広場の室内会場で、ビリングトン夫人による
    プロフェッショナル・コンサート。
   火曜日 オペラ。
   水曜日 トッテナム街会場で古代音楽。王室の賛助による。
   木曜日 パンテオンでオペラ合同公演がある場合は歌と踊り。
    ない場合はマーラ夫人とパキエロッチ氏のコンサート。隔週ごとの
    木曜日にはフリーメイソン・ホールで古代音楽アカデミー。
   金曜日 ハノーバー広場の室内会場でハイドンのコンサート。
    デーヴィッド氏共演。
   土曜日 オペラ。

 ハイドンはロンドンの社交界から熱烈に迎えられた。彼はウィーンの
友人に次のように書いた。――「私の到着はロンドン全市に大きなセンセーションを
巻き起こした。三日間ぶっ通して全新聞社を回った。皆が私の知人になりたいと
望んでいる。今日まで六回も外で夕食をした。私が望むなら毎日でも外食できる
だろう。しかし私はまず自分の仕事と健康のことを考えなければならない」。
仕事というのは『ロンドン交響曲』として知られる、彼の最後の12曲
(93番―104番)の前半6曲となった作品を作ることであった(話が
ややこしいが、104番ニ長調の曲も『ロンドン交響曲』となっている)。


ハイドン(8)
グッキー (55)投稿日:2003年05月03日 (土) 07時34分 返信ボタン

 ハイドンの才能の発展にかなりの刺激を与えたのは、1781年に当時25歳の
モーツァルトと出会ったことであった。二人の天才は互いに相手を尊敬した。
モーツァルトは六曲一組の偉大な弦楽四重奏曲(14番―19番)をハイドンに
献呈しているだけでなく、言葉と行動においてハイドンを擁護した。ウィーンで
活躍していたピアニストのレオポルト・コーツェルフが、ハイドンの四重奏曲の
一節について「私なら、こんな風に書かなかっただろう」と言って嘲笑した時、
モーツァルトは彼の言葉を遮って「私だって同様だ。その理由がおわかりですか。
あなたも私も(ハイドンのように)卓抜なアイディアを持っていないからです」
と応酬した。
 ハイドンもモーツァルトに恩返しをした。モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』
がハイドンの面前で批判された時、ハイドンは「私はこの論争を解決できないが、
これだけは言えます。モーツァルトは現在、世界最大の作曲家です」と語った。
モーツァルトから、ハイドンは曲の構成、調近親関係、そして特に音楽の表現の
可能性について新しいアイディアを得た。モーツァルトの音楽を知ってから、ハイドンの
作品は以前より幅広く、深味がまし、表現力が豊富になったことは確かである。一方、
ハイドンの長所はモーツァルトに影響を与えた。モーツァルトはハイドンから、
音楽の骨格について多くを学んだ。
 モーツァルトと出会う以前に、ハイドンはすでにヨーロッパで最も有名な作曲家の
一人であった。1776年に彼の音楽は大歓迎を受けており、ある批評は「わが国の
寵児ヨゼフ・ハイドン氏。彼の偉大な人格は、すべての作品の中に表れている。彼の
作品は美、秩序、明晰さ、繊細で高尚な単純さを備えている・・・・・」と述べた。
フランス、イタリア、ロシア、スペイン――すべての国が彼の音楽を称讃した。
彼の作品が発表されると、模倣され、盗作された。音楽活動の盛んな都市から、
ハイドン大先生じきじきのお越しを願いたい、という招待状が次々に舞い込んだ。
ハイドンはエステルハーザにとどまったままだった。
 1790年にニコラス壮大候が死に、あまり音楽に関心のないアントンがあとを
継ぐと、少数の楽士を残してオーケストラを解散させたが、もちろんハイドンは留任した。
しかし仕事はほとんどなく、どこでも好きな所へ行けたので、彼はウィーンに移った。
1790年末に彼は英国公演の申し出を受諾した。ロンドンに移住したバイオリニスト
兼興行主のヨハン・ペーター・ザロモンがウィーンを訪れ、ヨーロッパで最も有名な
この作曲家を口説いたのであった。ハイドンが英国に行って、そこの民衆のために
音楽を作曲し、コンサートに出る――そうすればウィーンに戻るときは金持ちに
なっている、という条件であった。ハイドンは1791年1月1日、英国に到着し、
18ヶ月間滞在した。


ハイドン(7)
グッキー (54)投稿日:2003年04月15日 (火) 13時36分 返信ボタン

 シュターミッツ、そしてのちにはカナビッヒがマンハイム・オーケストラを
指揮したが、この楽団は「将軍たちで構成された軍隊」と呼ばれた。このような
正確さ、力強さ、名人芸は当時まで存在しておらず、自惚れの強いモーツァルトまでが、
夢中になった。作曲家兼批評家のクリスチャン・シューバートは「フォルテは雷、
クレッシェンドは大滝の音、ディミヌエンドは遠くで泡立つ水晶のような流れ、
ピアノは春のそよ風だ」とうっとりした調子で書いている。これがトリプル・ピアニッシモから、
割れるようなフォルティッシモへと上昇する、有名な「マンハイム・クレッシェンド」であった。
 ハイドンのオーケストラは、これほどの高水準ではなかったものの、彼はこれを
ヨーロッパ最上の一つに仕立て上げた。彼はその指揮者であり、そのように自称した。
彼の指揮者としての役割は、今日の指揮者という言葉の意味とは若干異なることを
認識しなければならない。指揮棒で拍子を刻む巨匠の時代はまだ到来しておらず、
ハイドンはクラビーアを弾きながら、またはバイオリン・セクションの首席として
指揮をした。彼の時代には通例二人の指揮者がいた。一人はクラビーアを弾きながら
指揮し、もう一人はバイオリン奏者が指揮した。クラビーア奏者がリズムを維持し、
間違った奏者や歌手を直した。バイオリン奏者は全アンサンブルとニュアンスに注意を払った。
 ハイドンの場合はニュアンスが多く、自分の作品がどのような音を出すべきか、
を説明した彼の書簡が示すように、音調の細かい差異を作りださねばならない
と主張した。自分がどんなオーケストラを指揮する場合でも、指揮権が分かれていると
否とにかかわらず、彼は完全にコントロールした。演奏者を支配し、テンポを設定し、
アンサンブルを統一して、事実上、彼は現代の指揮者と同様の指揮をしていたと
いえるであろう。
 ハイドンは、毎週火曜と土曜の午後2時から4時まで行われる、2回のコンサートの
ために音楽を提供した。彼はオペラ公演も担当し、エステルハーザ劇場のために多くの
作品を書いた(ハイドンのオペラは、時々少数の作品が希少価値からリバイバルされるが、
常時上演されてきたのは一作もない)。1786年だけでもエステルハーザ劇場で、
18のオペラが上演され(うち8曲は初演)、演奏回数は合計125回にのぼった。
ハイドンの権威であるH・C・ロビンズ・ランドンは、1780年から1790年までの
10年間に、ハイドンは人形劇用オペラや芝居の附随音楽はいうに及ばず、1026回の
イタリア・オペラ公演を指揮した、と推定している。
 これは激務であったが、報酬もあった。ハイドンはかなりの俸給を取り、召使いと車夫、
馬車が付き、ヨーロッパの名所の一つに住み、自身が選んだ有能な団員に対し絶対的な
権限を行使した。また彼は趣味の狩猟と魚釣りに耽ることができ、一発で三羽の鳥を
射止めたときの興奮を、死ぬまで語っていた。


ハイドン(6)
グッキー (53)投稿日:2003年04月11日 (金) 23時43分 返信ボタン

 しかし、ハイドンがパウル候に仕えた期間はわずか1年であった。パウルは
1762年に死に、「壮大なニコラス候」が後を継いだ。ニコラスは直ちに新しい
居城を建設し、これをエステルハーザ宮と呼んだ。1766年に数百万グルデンの
巨費で完成したこの宮殿は、ベルサイユを除いてはヨーロッパ最大で、人形劇場や
400人収容の歌劇場があった。歌劇場の王侯ボックス席は、金色の横棒で飾られた
赤大理石のローマ風円柱で支えられていた、と当時の報道は伝えている。
 さらに、この報道は(建物と周囲の豪華さに触れたあと)ドイツの喜劇とイタリアの
オペラが毎日交互に上演されると述べた。「侯爵は常に出席しておられ、午後6時が
通常の時刻である。どれほど目と耳を楽しませるかは、口では言いがたい。まず第一に
音楽である。オーケストラ全体が完全に一体化して鳴り響く。まず心を感動させる
ような優しさ、次に心を貫くような激しい力。――なぜなら侯爵の楽長をつとめる
ハイドン氏が指揮を取っているからだ」。マリア・テレジア女帝も感激し「良いオペラを
楽しみたいときは、エステルハーザに行く」と語った。
 ウェルナーは1766年に死に、ハイドンが楽長になった。これは激務であった。
彼はオーケストラを指揮し、音楽を作曲し、本を探し、音楽関係の一切の実務を果たし、
人員の雇用と解雇に当たり、楽譜を写し、紛争を調停しなければならなかった。彼は
すべての職務を冷静かつ常識円満な方法で遂行し、厳しいが常に公正であり、部下を
庇うためしばしば侯爵に自ら歎願した。部下は彼を敬愛し「パパ」と呼んだ。
 ニコラスとハイドンは非常にウマが合った。先代と同様に熱心な音楽愛好家で
あった侯爵は、現在では廃れてしまった楽器だが、チェロに似たバリトンを弾いた。
ハイドンはニコラス自身の弾ける曲を、たくさん作ることになっており、侯爵の
得意の楽器のために約200曲も作った。大半はバリトン、ビオラ、チェロのため
の曲であった。彼は自分がどれほど幸福か知っていた。
 「侯爵はいつも私の作品に満足されていた。私は常に認められて励まされたばかりか、
オーケストラ指揮者として実験をやり、何が効果を生み何が弱めるかを観察し、改善や
改変、追加や省略を行い、自分の望むだけ勇敢になることができた。私は外部世界から
隔離され、私を混乱させたり苦しめる者はなく、いやおうなしに独創的であろうと
努めることになった」
 エステルハーザでハイドンは、20人ないし23人の楽団員から成るオーケストラを
指揮していた。これは当時としてはかなりの規模であり、これより大きなオーケストラは、
当時のヨーロッパにはごく僅かしかなかった。世界最高のオーケストラは、約50人の
楽団員を擁するマンハイムであった。マンハイム派という作曲家の一派があり、その
代表者格のヨハン・シュターミッツ(1717〜1757)とクリスチャン・カナビッヒ
(1731〜1798)は、いずれもハイドン時代に活躍し、彼に影響を与えたかもしれない。


ハイドン(5)
グッキー (52)投稿日:2003年04月07日 (月) 12時20分 返信ボタン

 第1条 多年にわたりアイゼンシュタットには、グレゴリウス・ウェルナー楽長がおり、
候家に忠実に奉仕していたが、老齢とそれに基づく能力減退のために、もはや職務遂行が
不可能となった。グレゴリウス・ウェルナーの長い勤続年数を考慮して、彼を楽長の
地位にとどめ、前記のヨゼフ・ハイドン(彼の名前は契約書の終わりまでHeydenという
綴りになっている)が副楽長となって、合唱曲においてはグレゴリウス・ウェルナーに従属し、
その命令に従うが、他のすべての音楽上の問題に関しては、副楽長の責任となる。
 第2条 ヨゼフ・ハイドンは当家の役人と見なされる。したがって侯爵閣下の意向としては、
彼がその地位にふさわしく、厳かに振る舞い、彼の指揮する楽士に対しては粗野ではなく、やさしく、
謙虚に、静かに、正直に振る舞い、とりわけ侯爵閣下の面前で音楽を演奏する際は、注意するよう
望みたい。ヨゼフ・ハイドン副楽長は、部下とともに常に清潔な制服姿で現れるだけでなく、
彼の部下すべてが与えられる指令に従い、白クツ下、白シャツで、粉おしろいを塗り、揃いの
お下げ髪で現れるよう配慮しなければならない。したがって――
 第3条 すべての楽士は副楽長に従属するため、彼は模範的行動をとって、部下が模範に
従うよう努めなければならない。部下との関係においては、部下が尊敬心を失わないように、
飲食の際などで不必要な親しさを見せることを避けるべきである・・・・・。
 第4条 侯爵閣下の命令により、閣下の要求する音楽を作曲することが必要である。こうした
音楽は、余人に伝えてはならず、模写も許されず、侯爵閣下の財産となる。閣下の了承と許可なし
には、副楽長はいかなる人のためにも作曲してはならない。
 第5条 ヨゼフ・ハイドンは毎日午前と午後、控室に出頭し、演奏するか否かにつき
侯爵閣下の決定を待つ。命令を受けると他の楽士に通告し、彼自身が指定の時間に遅れずに
出頭するばかりでなく、全楽士が時間通りに出頭することを保証しなければならない。
楽士が演奏会に遅れたり、欠席した場合は名前を記録する。
 第6条 遺憾にも楽士の間に口論や苦情が発生した場合は、副楽長は状況に応じて問題解決を
図り、侯爵閣下が些細な問題に煩わされないよう注意する。しかしヨゼフ・ハイドン自身の仲裁
では解決できないような重要問題が起こった時は、彼は忠実にこれを閣下のもとに報告する。
 第7条 副楽長はすべての楽器の管理監督に当たるものとする・・・・・。
 第8条 ヨゼフ・ハイドンは、女性歌手たちがウィーンで学んだことをアイゼンシュタットで
忘れないように、彼女らに教授する義務を持つ。・・・・・副楽長は各種楽器の経験を持つ
がゆえに、自分の知るすべての楽器を演奏することを許される。
 第9条 副楽長は部下の楽士に関する行動規範書を一冊受け取り、彼らを規則に従って
行動させる方法を知るようにする。
 第10条 彼が果たすべきすべての職務を、紙面に記す必要はないと考えられるので、
侯爵閣下は、ヨゼフ・ハイドンがすべての事柄において上記の職務を自発的に行うばかり
でなく、今後受けるであろう閣下の他の一切の命令も履行し、同時に楽譜を良好な状態で
維持することを希望する・・・・・。
 第11条 副楽長は侯爵閣下より年間4百グルデンを支給され、支払いは年4回、出納主任に
よって行われる。これに加えて――
 第12条 ヨゼフ・ハイドンは三食を役人食堂で取るか、あるいは一日の食費として半グルデン
を受け取る。最後に――
 第13条 この契約書は1761年5月1日に結ばれた。副楽長は少なくとも3年間つとめ、
もしヨゼフが3年後もこの資格で引き続き勤めたいと望むならば、彼はその意図を6ヶ月前に
閣下に通告しなければならない・・・・・。同様に――
 第14条 閣下は合意された期間、ヨゼフ・ハイドンを雇用すること、もし彼が十分な
満足を与えるならば、彼は楽長の地位を期待してよいことを約束する。しかし反対の場合には、
閣下はいつでも彼を解雇する自由を持つ。


ハイドン(4)
グッキー (51)投稿日:2003年04月01日 (火) 03時54分 返信ボタン

 聖シュテファン教会を去ってから数年間、ハイドンは飢餓線上をさまよった。
ピアニスト、バイオリニストとして彼の腕は、プロの水準には達しなかった。
彼自身が認めていたところでは「自分はどの楽器の名人でもないが、すべての
楽器の長所と構造を知っていた。クラビーア奏者や歌手としては悪くない腕前
であり、バイオリンでコンチェルトを演奏することができた」。だが、この程度の
ことをやれる音楽家は沢山いた。8年間、ハイドンは食うや食わずの惨めな生活を
送った。彼はボヘミアン的生活をし、社交界での演奏、教師、編曲などを手がけ、
そして「作曲に熱中するあまり深夜まで作曲に没頭した」。彼はC.P.E.バッハの
音楽を研究し、当時の有名な作曲家であるニコラ・ポルポラ(1686〜1767)から
数回レッスンを受けた。
 徐々に彼は進歩していった。ピアノとバイオリンの演奏技術も多分上達したとみられる。
彼の評判はたしかに高まっていった。1758年に彼は、フェルディナント・マキシミリアン・
フォン・モルツィン伯爵の音楽監督兼作曲家に任命された。2年後、彼は人生最大の誤りを
犯した。マリア・アンナ・アロイジア・アポロニア・ケラーと結婚したのである。
 彼女は美容師の娘であり、ハイドンは実は彼女の姉妹の一人に恋したのであった。
この点、モーツァルトと酷似している。モーツァルトもアロイジア・ウェーバーを
愛しながら、彼女に振られた反動で妹のコンスタンツェと結婚した。妻を探していた
ハイドンは、おそらくケラー家に説き伏せられて結婚したと思われる。マリア・アンナは
ハイドンより3歳年上で、醜く、癇癪持ちで、嫉妬深く、口やかましい女であった。
彼女は音楽を好まず、家庭の切り盛りも家計のやりくりもできず、浪費家であった。
ハイドンがたちまち幻滅して、彼女を「あの地獄のけだもの」と呼び、気晴らしを
ほかに求めたのは無理もない。のちに彼は自分の婚外交渉を正当化しようとして、
最初の伝記作者ゲオルク・アウグスト・グリージンガーに対し「私の妻は子供を産めなかった
ので、私は他の女性の魅力にふつうの人よりも無関心ではいられなかった」と語った。
 ハイドンが彼の人生で最も重要な決断をして、エステルハージ家に副楽長として
仕えることを決めたのは1761年であった。パウル・アントン・エステルハージ候は、
ハンガリー最高の名門かつ最も富裕な一族の家長で、美術、音楽の愛好家であった。
アイゼンシュタットの彼の居城は賓客用の部屋が二百もあり、公園や劇場まであった。
ハイドンは幸運を喜びながら入居した。契約条件は興味深い。大公に仕える音楽家から、
いかなることが期待されていたかを知るうえで参考になる。




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