掃除をしないとここには住めないな。僕は初めて入った新居の中をうろう
ろしている。大学への通学のために、僕は安いこのアパートに住むことなっ
た。だけど安さに釣られて1回も部屋を見ないで入室を決めたので、かなり
汚いここで暮らさなければならない。ぶつぶつ言っても仕方ないので、一応
用意していた掃除用具を取り出し、小1時間掛けて台所と居間だけはなんと
か使える程度にはなった。それでもお世辞にも綺麗な状態とは言えなかった。
初使用となるここの台所を使って、僕は好物である紅茶を飲んでいる。
「“住めば都”……か。まぁ家賃の割には広いかな」 部屋を見回して、僕
はこの部屋を選んだことを良かったと思った。それでも飾り気の無い部屋に
加え、私物がほとんど置いていないので、あまりにも殺風景だ。最低限の生
活用品しかここにはないから、すぐにでも色々と買いに行こうかなとも考え
たが、掃除を終えた今の僕にそんな気力は無かった。
時刻は夕方。特にすることもないので、僕は鞄から適当に本を取り出した。
鞄の中には“心理学”や“臨床心理学”といった小難しい本以外に自宅から
持ってきたものはなかったが、ここへ来る途中で購入した文庫本が一冊だけ
ある。しかし2、3行目で追ったところで、僕は本を落とした。そして静か
に眠りに入っていった。
「如月さん……如月さーん? 居ますかぁ、如月さーん」
ドアを叩く音と女性の呼び声で、僕は目を覚ました。すでに窓の外は闇一色
だった。この時間になっても電気1つ点いていないことを管理人さんが心配
してくれたのだろう。僕は急いでドアを開けた。
「す、すいません。ちょっとうたた寝してしまって……」
このアパートに越して来る前に、部屋の鍵は送ってもらってあった。だから
確認の為、入室後に管理人さんへ確認の連絡をする約束だったのだが、迂闊
にも眠ってしまった。こちらが完全に悪いのにも関わらず、管理人さんは、
よかった、心配したんですよ、と笑いながら言ってくれた。
「じゃあ確認をしますね。と言っても大したことしないですけどね。えっと
如月裕也さんですね。確か大学への通学のためにここへ来たんでしたね」
如月裕也とは僕の名前だ。ここへ越して来る理由も、前に電話で話した時に
伝えてあった。声で想像していたよりも若い管理人さんで、年齢は僕よりも
2、3下といったところか。
「ええ、ここから大学までは歩いてでも行ける距離ですからね。――えっと
管理人さんの名前は確か一条……」
「あっ、そうですね、お電話では苗字しかお伝えしておりませんでしたね。
私は一条京香といいます。ちなみにここの正管理人は私の母なんですけど、
ほとんどのことを私がやっている状況なんです。ではそろそろ。夜も遅いこ
とですから」
「……あの、今何時ですか?」
「えっ!?」
僕の部屋にはいま時計がない。携帯はあるのだが、ここへ来る途中で電池
が切れてしまい、いまだに充電をしていない。よって、僕には素早く時間を
知る術がないのだ。京香は僕の言葉を聞いて一瞬驚いていたが、にっこりと
笑って、いまは8時過ぎですよ、と言った。そして彼女が言い終わったのと
ほぼ同時に、僕の腹の音が2人の間に響いた。
僕は、ここに着いてから何も食べてないもので、と腹をさすりながら言っ
た。しかも部屋には食料がないので出かけなければならない。
「ふぅ……じゃあご飯でも買ってこようかな。ここらにコンビニとかありま
すか?」
「あの、如月さん?良かったら私の部屋で夕食ご一緒にどうですか?私たち
もこれからですし。それにコンビニのお弁当よりは美味しい物を出せると思
いますよ」
「えっ、いや、でもそれは」
「大丈夫ですよ、2人分も3人分も変わりませんから」
京香の言葉のいくつかを怪訝に思ったが、僕もいまから店へ出向くのも面倒
ではあったので、お言葉に甘えることにした。部屋に鍵を掛け、京香の後に
付いて階段を降りた。その時に気付いたのだが、2階にも1階にも電気が点
いている部屋がいくつもあった。挨拶するのも忘れてた、と今更ながら寝て
しまったことを深く後悔した。
「はい、どうぞ」
京香が開けた部屋は1階の端のドア。そして中には1人の少年が居た。歳は
京香と同じ位だろうか。長めの髪を持つ少年のそれは鮮やかな金色をしてい
た。
「ん? 誰ですか、あなたは?」
僕を怪訝な顔で見るその少年は、どこか人間とは違う雰囲気を漂わせていた。
少年の凛とした目から伸びる曲線が、そう感じることを強めた。
「この人が今日引っ越してきた人よ」
京香が後ろからすっと出てきた。彼女は少年の方を見て、この人がさっき言
った如月さん、そして……とここで彼女は僕の方に顔を向け直して、彼は私
の友達のファンレス君です、と先ほどと同じような笑顔を浮かべて言った。
京香は僕に座るよう促すと、台所の方へ向かった。間取りの方は僕の部屋
とそう変わらないようだ。僕が座った目の前には、京香の友人であるという
ファンレス君も同様に座っている。彼は普通の人とは違うような気がする。
確かに彼は日本人ではない。それは彼の名前や相貌の点から考えれば判る。
でも単なる国籍の違いとは思えなかった。外国人を見るのだって初めてじゃ
ない。それでも彼には、どこか人と特異に思える点があった。
「あの、何か?」
ファンレス君が怪訝な表情で僕に言った。どうやら僕は知らず知らずの内に
彼の事をじろじろ見ていたようだ。
「あ、いや、その」
僕が、しまった、という表情になったことに気付いたのか、彼は若干の笑み
を浮かべて口を開いた。
「あなたは気付いているのかもしれませんね。俺は人間ではないんですよ」