【広告】楽天市場にて 母の日向けギフト値引きクーポン配布中

ことばの講座

何か記念に書いてください!

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
アイコン アイコンURL
削除キー 項目の保存

[1628]新・ことばの路地裏 第407回 いや応にも 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2015年01月22日 (木) 04時48分

第407回 いや応にも

 見かけない言葉を見つけた。「いや応にも」である。類似形式に「いやが応にも」がある。自分自身は「いやが応でも」の形で理解し、使っている。また、「いやが上にも」の形もある。「いやが応にも」は「いやが上にも」と「いやが応でも」が混交した形式ではないかと考えられる。共通して「いや」の形式があるけれども、「いやが上にも」と「いやが応でも」では意味が違っていることはよく指摘されているところである。
 見つけた言葉は次の記事の中に使われている。

 若かりし頃、音楽祭授賞式での様子が「ウソ泣き」と批判されたこともある聖子さん、一つ一つの所作が【いや応にも】注目を集め、場の空気を一変させることがスターの証しとするなら、聖子さんがアイドルとして今も輝き続けていることを再認識させられた。(産経ニュース2015年1月1日【紅白歌合戦】記者回顧 全部持っていった吉高…聖子の涙に「アイドル」再認識)
 (http://www.sankei.com/premium/print/150101/prm1501010039c.html

 新野直哉著『現代日本語における進行中の変化の研究─「誤用」「気づかない変化」を中心に』(ひつじ書房、2011年)の第1章「“いやがうえにも”の意味変化について─『いやがうえにも盛り上がる』とは?」に「いやがうえにも」の意味変化が論じられている。
 「いやがうえにも」の基本的な意味は「なおその上に。さらにますます」であるとする。これが「否応なしに、意識的にそうしよう・そうしたいと思うか否かを問わず」「自然に、おのずと」の意味で、「否が応にも」「否応なしに」と同様の意味で使われるようになってきていると述べている。問題の用例は「いや応にも」の形ではあるが、「いやがうえにも」の新しい意味で理解できる。
 あるいは、「いや応にも」は「いやが応にも」が短縮された形式だとして理解する方が素直なのかもしれない。
(2015年1月15日)

[1627]新・ことばの路地裏 第406回「心持ち」「気持ち」の副詞的用法 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2015年01月08日 (木) 04時23分

「心持ち」「気持ち」の副詞的用法

 テレビから「気持ち大きめに切ってあげてください」という声が聞こえた。以前にも耳にしたことがある「気持ち」の副詞的用法である。自分自身はこのような場合「心持ち」を使う。「心持ち大きめに切ってあげてください」のように。このような場合「心持ち」と「気持ち」のどちらを使うかと妻に聞くと、「気持ち」のほうだと言う。5歳年下だけなのに世代差か、と驚いた。
 『三省堂国語辞典』は第6版(2008年)から「気持ち」のこの用法を載せている。「心持ち」については初版(1960年)から載せている。
『日本国語大辞典 第2版』「きもち【気持】」の語誌に次のような説明がある。

   (1)類義の「心持(こころもち)」は一三世紀末に使われ始めたと見られるが、「気持」は遅れて一五世紀末に見え始める。((2)と(3)は省略。)(4)明治期には「心持」が日常語となって多用されたが、「気持」は俗な感じが強かったため、用例は少ない。(5)昭和初期では「気持」が圧倒的に優勢になり、特に第二次世界大戦後は「心持」の使用が大きく減って、現在では若い人の間ではほとんど使われなくなっている。

 「心持ち」と「気持ち」の発生に時代差がある。戦後は「心持ち」があまり使われなくなった。こういうことが分かった。
 『新潮文庫の100冊』を検索してみた。時代差を表す作品で以下のような結果が得られた。

野菊の墓(1906)こころもち34 きもち7
こゝろ(1914)こころもち57 きもち4
小僧の神様(1917)こころもち16 きもち164
羅生門(1915)こころもち40 きもち3
放浪記(1928)こころもち2 きもち151
路傍の石(1937)こころもち4 きもち107
新源氏物語(1978)こころもち15 きもち176  

 明治・大正期の作品には「心持」が多数であり、昭和期の「放浪記」「路傍の石」では「きもち」が多数になる。志賀直哉の「小僧の神様」(他の短編も含む)は大正期の作品だが、「気持」の方が優勢である。「新源氏物語」は描かれている時代が古いけれども、「気持」の方がはるかに優勢である。
 用例数は以上のようであるが、副詞的用法に限ると、予想通り「きもち」には見られない。「こころ」では57例中次の2例が副詞的用法である。

   私はすぐ両肱を火鉢の縁から取り除けて、【心持】それをKの方へ押し遣るようにしました。
   Kの顔は【心持】薄赤くなりました。

 「野菊の墓」と「小僧の神様」には見られない。「路傍の石」に3例、「羅生門」に4例、見られた。「心もち」の表記の用例は、全部で78例あるが、そのうち副詞的用法は約半数の36例あり、「花埋み」「雁の寺」「金閣寺」「国盗り物語」「草の花」「太郎物語」「冬の旅」「風立ちぬ」「羅生門」「路傍の石」「楡家」に使用例が観察される。
(2015年1月8日)

[1626]新・ことばの路地裏 第405回 したことは間違いない 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2015年01月01日 (木) 05時02分

したことは間違いない

 テレビでニュースを聞いていると、事件の容疑者が「〇〇したことは間違いない」と供述したと報じているのをしばしば聞く。容疑者は本当にそのような文言で供述しているのだろうか。疑問である。捜査当局がこのような型にはめて記者発表しているのではないかと想像される。
 想定される取り調べの問答では、警察官が「〇〇したのではないか」と尋ねるのに対して、「はい」とか「やりました」とかの返事をするのではないか。「〇〇したことは間違いないか」と尋ねるのに対して、「はい」と答えると調書に「〇〇したことに間違いない」とか「〇〇したことに間違いありません」と書かれることになるのだろう。
 具体的には、「切り付けたことは間違いない」「火を消さなかったことは間違いない」などと容疑を認めたことが報道されている。
 「ことは間違いない」という表現そのものは事件の報道だけではなく、一般的に使われる。「〇〇であることは」「〇〇ていることは」「〇〇ということは」「〇〇することは」などの形式が使われる。これが事件性を帯びると過去形に限定して使われることになるというのが特徴である。ただ、過去形の表現がすべて事件性を帯びているわけではないことは間違いない。
(2015年1月1日)

[1625]新・ことばの路地裏 第404回 むべなるかな 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年12月25日 (木) 06時04分

むべなるかな

 自分自身はほとんど使った記憶がない言葉の一つに「むべなるかな」がある。「さもありなん」について調べた時に、「むべなるかな」も「さもありなん」と似たような状況があるのではないかと思い、調べてみた。例によって『国会会議録検索システム』を利用した。
 昭和22年の第1回国会から現在の187回までを対象に調べた。298件301例ヒットした。昭和に175件、平成に123件である。
 表現上の特徴を分析した結果、@文副詞的に文頭に使われるタイプ、A文の述語として文末ないし引用部分の述語として使われるタイプ、Bこれに関連して、文の述語の中止の位置に使われるタイプの3つのタイプがあると考えられる。
 文頭に使われるタイプは「なるほど」や「確かに」と同じように、文頭に位置して、後続する叙述内容を肯定的に捉えて導いている。例えば次の例がそれである。
   むべなるかな、政府のこれまでやつてまいりました政策は、ことごとくまじめな勤労者階級の期待を裏切つてきたのであります。(第1回衆議院本会議、昭和22年12月9日)
 次に、引用部分の述語となるタイプは次のような例である。
   税金をかけて空港を整備しているわけですから、そこの使用料ということを、これを取るというのはむべなるかな。(第166回衆議院決算行政監視委員会平成19年5月10日)
 述語となるタイプには「と思う」「と考える」「という感じ」などの引用部分となる例がある。また、「だ」「であります」「かもしれない」といった形式に続くものもある。これは「もっともだ」「当然だ」といった意味合いである。
   今外務大臣がおっしゃったこともむべなるかなと思います。(第166回衆議院予算委員会平成19年2月14日)
 中止の位置に現れるタイプは、「むべなるかな」で止めて「こう」「こういうふうに」などの指示語で受けて後に続けるものがある。
   (前略)そして選挙で大敗を喫した、これはもう本当に、むべなるかな、こういうふうに思っておるところでございまして、(以下略)(第168回衆議院予算委員会平成19年10月9日)
 今回調べてみて分かったのは、文副詞的に文頭に位置して使われる例があるということである。20数例で、決して多い数ではないけれど、今まで知らない用法であった。
(2014年12月25日)

[1624]新・ことばの路地裏 第403回 さもありなん 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年12月18日 (木) 04時51分

さもありなん

 テレビを見ていて耳に入ってきた。聞いたことがある表現だ。あるいは自分でも使ったことがあるかもしれない。古風な言い方である。『新潮文庫の100冊』(非翻訳作品)を検索したが、一例もヒットしなかった。『国会会議録検索システム』で検索すると、ヒットした。国会の第1回から187回までの間に昭和で197件、平成で70件の合計267件(使用者の延べ人数も267人)である。1件に2回出現する例が3件あるので使用例は270例である。
 少し詳しく分析してみよう。
 たいていは1人1回の使用だが、1人で複数回使用する例もある。異なり人数212人が延べ270回使用していることになる。1人当たり最も使用数が多いのが小林進議員である。1949年の衆議院決算委員会から1974年の衆議院予算委員会まで8回使用している。4回が金丸徳重、帆足計、森勝治の3氏、3回が井上計、河野正、高田なほ子、塚本三郎、中山正暉、平林太一の6氏、2回が29氏である。
 「さもありなん」の多くの例は「と思う」「と感じる」といった形式だが、中に面白い使用例があった。「さもありなんですよ」「さもありなんだと思うんです」「いわゆるさもありなん」。これらは「さもありなん」が名詞として機能していることをうかがわせる。そして「さもありなんなと」(4例).後ろに付いている「な」は終助詞だと考えられる。すると「さもありなん」は文相当として機能していることになる。
 「むべなるかな」にも似たような状況があるかもしれない。
(2014年12月18日)

[1623]新・ことばの路地裏 第402回 お試しあれ  投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年12月11日 (木) 05時06分

お試しあれ

 長淵剛の「乾杯」の一節に「君に幸せあれ」とある。この「あれ」を、命令形願望法の用例としてネタにしていた。これに類似する用法を最近テレビで聞いた。「お試しあれ」。
 お試しください、とか、お試しになってはいかがですか、といった意味合いで「お試しあれ」と言うのだろう。この「あれ」は話し手の願望ではなく、聞き手に試してみることを勧めている。積極的に依頼しているわけではない。
 このような「あれ」がほかにもないかと頭の中を探してみた。
 永遠あれ、呪いあれ、お許しあれ、お導きあれ、お助けあれ、ご加護あれ、 ご慈悲あれ、ご賞味あれ、照覧あれ、などが浮かんできた。
 意味は願望であったり依頼であったりする。文体的には古いという印象がある。人知の及ばない力に対して願う気持ちを伴う場合もあるようだ。普通の会話で使うと大げさに聞こえる。ふざけているとも感じられる。しかし、「お試しあれ」には古いという印象はあるけれども、大げさとかふざけているといったニュアンスは感じられない。そうかといってフォーマルな場面では使いにくい。働きかける相手に親しみを込めていると言ってもよいだろう。
 学生に、どんな時に使われる? と尋ねたところ、通販という答えが返ってきた。調べてみると、いろいろ出てくる。
 「携帯用にお試しあれですよ♪」「送料無料でお試しあれ!」「一度お試しあれ〜」「お試しあれ(^○^)」「是非お試しあれっ!」「お試しあれ^^」「お試しあれ(^^♪)」「一度お試しあれ〜(^o^)丿」「お試しあれ☆」「ぜひお試しあれ(^-^)/」など。
 「あれ」の後ろに音符マークや星マークを付けたり顔文字を付けたり、長音にしたり促音にしたりして表現に表情を与えている。堅苦しい表現ならこのような表情はないはずだ。相手に親近感を込めて訴求している。お試しくださいと言えば直接的な依頼や勧めになるけれど、お試しあれの形だと直接性が緩和され、ソフトな物言いになる。効果的な慣用表現である。
(2014年12月11日)

[1622]新・ことばの路地裏 第401回 「願わくは」と「願わくば」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年12月04日 (木) 04時31分

「願わくは」と「願わくば」

 最近、「年俸制」導入のことが話題になることがある。口頭でこのことに言及するとき、「ねんぼう」と「ねんぽう」の二つの言い方に接する。国語辞典で調べてみると「ねんぼう」とは読まないとか、それは誤りだとか注記してあり、「ねんぽう」が正しいことを知った。これで二つの語形の間で自信なく揺れることがなくなった。
 「願わくは」が正しく、「願わくば」は間違いだと指摘されることがある。それにもかかわらず、「願わくば」の形がけっこう使われる。「……ごとくんば」「……べくんば」「さもなくば」といった古い言い方から類推して「願わくんば」のつもりで「願わくば」と言っているのか、「ば」を条件を表す表現と誤解して使っているのか。
 「国会会議録検索システム」を使って両者の使用状況を調べてみた。
   昭和年間 願わくは 1613件 願わくば 1208件
   平成年間 願わくは  297件 願わくば  424件
 この数字だけを見ると、昭和では「願わくは」が優勢で平成では「願わくば」が優勢になっている、両形とも平成になって使用頻度が少なくなっている、といえそうである。しかし、こまかく見ると少し複雑である。
   昭和22年 願わくは 32件 願わくば 53件
   昭和23年 願わくは 34件 願わくば 64件
 国会会議録では、当初から「願わくば」の形のほうが多く使われていたことが分かる。これは驚きである。いわゆる誤用の「願わくば」は、かなり以前からあったということになる。
 ところで、検索していて面白いことに気が付いた。両形のあいだでゆれがあることは明らかだが、このゆれが個人においても見られることが分かったのである。
 町村信孝氏の発言で両形の使用を検索すると、合計36件、37例、ヒットする。初出が平成4年4月26日の「願わくは」で、この形は平成17年8月3日までに19例、使用されている。一方「願わくば」は平成9年11月17日が初出で、平成24年5月22日まで18例使用されている。
 平成10年には「願わくは」だけが7例使用されている。平成13年は「願わくは」2例、「願わくば」3例である。平成17年は「願わくは」7例、「願わくば」11例である。とくに面白いのが同じ委員会で両形が出現していることである。平成17年3月22日の沖縄及び北方領土に関する特別委員会での答弁である。平成17年はかなりゆれている。
(2014年12月4日)

[1621]新・ことばの路地裏 第400回 最近知った言葉「未利用」「速達製」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年11月27日 (木) 05時18分

第400回 最近知った言葉「未利用」「速達性」

 つい最近、「未利用」と「速達性」の二つの言葉を知った。
 テレビを見ていたとき、字幕に「未利用魚」という文字が目に入った。調べてみた。未利用魚とは「漁獲対象とならない魚種」もしくは「漁獲対象となる魚であっても対象とならないサイズの魚」(注1)のことである。このような魚は獲れても捨てられるらしい。しかし、近年、これらを有効活用しようという動きがあるという。(注2)
 利用の価値が認識されず、今までは利用されていなかったという意味だ。
 利用と使用と活用は類義語だが、使用の対義語は未使用か不使用で定着している。しかし、利用と活用の対義語は、これまで考えたことがなかった。未利用、不利用、未活用、不活用、どれもしっくりこないと思うのだが、未利用がすでに使われている。未利用地、未利用エネルギー、未利用資源などの熟語もある。未利用地の関連語として低利用地というものあり、低未利用地、低・未利用地という用語も用いられている。
 「速達性」は北海道新幹線の話題で「北の大地と本州が新幹線で結ばれることによる速達性と利便性」(注3)と表現されている。鉄道会社の速達性向上計画というものもある。
 速達は速達郵便の場合しか念頭になかったのだが、速く到達するという、より一般的な意味を考えることは当然できる。現に国語辞典には速達列車という語が立項されており、速達の用例に「急行列車を導入し速達性を図る」が出ている。(『デジタル大辞泉』)鉄道会社は利用者サービスにおいて利便性、快適性とともに速達性も追求しているのである。
 この年になって新しく目にしたり耳にしたりする言葉は、たいていカタカナ語だが、今回は新しく漢語を獲得した。いつまで記憶の中に滞在するか分からないけれど。
(注1)http://prospar.web.fc2.com/miriyougomainagyotohanazetyuumokusitamoka.htm
(注2)http://www.jfa.maff.go.jp/j/kikaku/wpaper/h21_h/trend/1/t1_t_01.html
(注3)http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1411/20/news130.html
(2014年11月27日)

[1620]新・ことばの路地裏 第399回「やぶさかでない」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年11月20日 (木) 05時27分

やぶさかでない

 1996年、とんねるずのシングル「やぶさかでない」(作詞:秋元康、作曲・編曲:見岳章)(注)が出た。この中で、各連の終わりに「やぶさかでない」という語が挿入される。連の中での意味は不明と言うしかない。聞く人はこの語をどのように理解していたのだろう。
 この「やぶさかでない」という語の理解が『平成25年度国語に関する世論調査』で問われた。本来は「喜んでする」という意味だが、このように理解している人が33.8%だった。一方、「仕方なくする」と理解している人は43.7%だった。筆者は本来の意味を知らず、どちらかといえば、「しないことはない」といった消極的な関わり方として理解していた。「やぶさかではない」と形ではとくにそう理解していた。
 地域別でも、年齢別でも「仕方なくする」という意味の理解が多かった。女性より男性のほうがそう理解する割合が高い(47.4%:40.8%)。調査結果で注目されるのは「分からない」という回答が14%あったことである。あまり知られていない言葉だと言える。この回答は、年齢別では40歳代と50歳代が1割未満だったのに対して、70歳以上の20%弱を筆頭に10代後半からと30歳代と60歳代15%前後である。働き盛りの年代の人は他の年代の人より知っている比率が高いといえよう。
 国会会議録検索システムで検索してみた。「やぶさかでない」「やぶさかではない」「やぶさかではありません」の合計が、昭和年間で4860件、平成年間で802件ヒットした。簡単には比較できないが、1年間あたりでは昭和で100件超使用され、平成で約30件使用されている。昭和から今日にかけて次第に少なくなってきているという傾向を見てとることができる。
 実際の使用例をいくつか見ると、積極的に「喜んでする」という意味より、しないことはない、条件があえばそうする、といった意味が感じられるものもある。これは「ない」という否定表現があるためにマイナスの意味合いが含意されやすいためではないかと考えられる。「全然やぶさかではない」「決してやぶさかではない」といった表現からも積極的に「喜んでする」という姿勢はうかがわれない。
 自分自身があまり使わない形式ではあるが、分析してみるにやぶさかでない。
(注)http://j-lyric.net/artist/a003eab/l005d55.html
(2014年11月20日)

[1619]新・ことばの路地裏 第398回「山陰」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年11月13日 (木) 04時35分

第398回 山陰

 山陰地方の「山陰」という語に暗いイメージを持つ人がいることを知った。その根拠、原因はなんだろう。
 山陽地方と山陰地方は主に中国地方をほぼ二分している。中国山地を境として県境が設けられていて、中国山地の南側が山陽で北側が山陰である。瀬戸内海側が山陽で日本海側が山陰である。
 歴史的には古代の五畿七道の一つとして東海道や東山道、山陽道と並んで山陰道がある。これらの地域名は大局的見地から命名されたものだろう。山陰道には現在の北近畿(京都府北部と兵庫県北部)、鳥取県、島根県が含まれる。
 山陰が暗いイメージを伴うとすれば、山陽との対比という視点が思い浮かぶ。山陽が山の、太陽が照らす側、山陰が山の陰になる側。これに陽気な陽と陰気な陰といった身近な語によるイメージの対比が重なる。しかし、このような二分法は必ずしも妥当とはいえない。山陽は特にプラスのイメージで言及されているとはいえない。評価的なイメージとしてはいわば無色である。これに対して山陰には暗いというイメージが伴うのだろう。
 『岩波新漢語辞典』の「陰」の項に「@日かげ。かげ。山の北側。川の南側。かげる。くもる。」とあり、「山陰」の例が示してある。これは普通名詞だと思われる。これには「暗い」というマイナス評価のイメージはない。同じ辞書に「C易で、地・月・女・静など、相対的に消極的・受動的なものを表す語。マイナス。」とある。これがマイナスの評価的イメージと結合しているものと思われる。
 山陰自体にはマイナスイメージは伴わないにも関わらず、これに含まれる陰の字の意味Cが表に出て受け止められるに至ったのだと推察できる。
 筆者は山陰地方の鳥取県の出身だが、山陰の語にマイナスのイメージを持っていない。鳥取県民にとって山陰の語は山陰本線、山陰中央テレビ、山陰放送、山陰合同銀行といった固有名詞に含まれて知られているように、評価的に無色の語であろう。それを外部の人が勝手に評価付けをしているものと考えたい。
(2014年11月13日)

[1618]新・ことばの路地裏 第397回「かわいい」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年11月06日 (木) 04時52分

第397回 かわいい

 子どものころから耳にし、自分でも歌う鳥取県の民謡「貝殻節」。

 何の因果で貝殻漕ぎ習(なろ)た かわいやのーかわいやのー 色は黒なる身は痩せる やさほーえーんや ほーえやえーえよいやさのさっさ やんさのえーえよいやさのさっさ

 この歌詞の中に出てくる「かわいやのーかわいやのー」の「かわい」は形容詞「かわいい」の語幹である。意味は可愛いではなく、可哀想だと理解している。
 現代語の「かわいい」の元になった古語の「かはゆし」は、「顔映(かほはゆ)し」の転じたもので、@「はずかしい。おもはゆい。」A「かわいそうで見ていられない。ふびんだ。気の毒だ。」B「愛らしい。かわいらしい。いとしい。」(『旺文社古語辞典』)という意味である。
 子どもが事故にあったりしたニュースをテレビで見て、母(昭和3年生まれ)が「かわいいなあ」と言うことがよくあった。倉吉では、というか、筆者自身は使ったことがないし、自分と同年代の人が使うのも聞いたことがない。母は鳥取県東部に居住していたことがあるから、そこの方言かもしれない。それはさておいて、古語では「かわいい」が「かわいそうで見ていられない。ふびんだ。気の毒だ。」という意味で使われていた、それが方言にも残っているということだろう。
 約25年前のことだが、「かわいい」に関して当時の大学1年生が次のようなコメントをくれた。

 ・そういえば 私の祖母は かわいそうの意味で かわいいをつかいます。「おしん」がいじめられると「まあ かわいい」とよく言ってました。(岡山県)
 ・かわいい=かわいそう うちの祖母が使います(ちなみに、うちは京都府です)ex.道路で猫が敷けているいるのを見て「いや、かわい」なんてフウに。
 ・かわいい=かわいそう というのも「あら、かわいや」(まあ、かわいそう)という形できいたことがあります。(中略)ちなみに おばあちゃんは富山県福光町の人です。
 (「日本語言うたろカード」(注))
 (注)http://www001.upp.so-net.ne.jp/ketoba/yuutaro-card/yuutaro01.html
(2014年11月6日)

[1617]新・ことばの路地裏 第396回「あーね」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年10月30日 (木) 04時50分

第396回 あーね

 あいづちを打つとき、「そうなんだ」「なるほど」「へーえ」などが使われる。これらのあいづち表現に、「あーね」という語が加わった。福岡県の女子高校生が使い始めたものが、全国に広がったとされている。
 「あーね」は「ああ、なるほどね」の短縮形。思い切って短縮したものだ。「とりあえず、まあ」を短縮して「とりま」という若者ことばもある。
 文字に書くと「あーね」だが、これを発するときの声の調子や長さや顔の表情等によって複数の用法が区別される。
 (1)比較的長めに明るい声で相手を見て「あーね」というのが本当に納得している様子をあらわす。笑顔になったりする。
 (2)短く「あね」のように、面倒くさそうに言うと、とりあえず聞いたといった程度の、無関心のあいづちである。
 (3)関わりたくない、早く場を去りたいというようなときに、一応「あーね」と言っておいてそそくさと相手の前から消える、あるいは、自分の関心事に向き合うといった行動をとる場合もある。
 この語はNHKのテレビ番組「ろーかる直送便」で「方言バラエティ あ〜ね!」として放送された。(2014年5月26日)その映像から前記の用法を理解した。
 番組の中で福岡女学院大学の二階堂整教授が次のように解説していた。「2004年ごろは“うそ”や“まじ”という言葉が流行していた」(字幕)が、これは響きがきつく感じられた。それが「“あ〜ね”という言葉の軽さや曖昧さが今の時代の若者にうけた」(字幕)。
 韓国から来た留学生が、韓国語でも「あーね」とよく似た形式があいづちとして使われると教えてくれた。
(2014年10月30日)

[1616]新・ことばの路地裏 第395回「ものもらい」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年10月23日 (木) 04時34分

第395回 ものもらい

 ものもらいは、まぶたの縁などにできる腫物で、正式名称を麦粒腫という。これの方言形は各地にさまざまなものがある。
 鳥取県倉吉市では「めぼいた」と言っていた。語構成は「め(目)」と「ほいた」の複合語である。「ほいた」は乞食のことで、ものもらいである。めぼいたができると、近所(向こう三軒両隣)を物乞いをして回ると治るという俗信があった。実際にした経験はない。
 めぼいたは目にできたものもらいの意である。同様の構成を持つ方言形に、めかんじん(目勧進)、めこ(ん)じき(目乞食)、めぼいとなどがある。めぼいとは「め」と「ほいと」である。「ほいた」と「ほいと」は同源であり、陪堂(ほいとう)のことである。陪堂というのは「禅宗で、僧堂の外で、食事のもてなし(陪食)を受けること。」「他人に食事を施すこと。また、その食事や飯米。」「金品をもらって回ること。ものごいをすること。また、その人。こじき。」(『精選版日本国語大辞典』)である。
 「ほいとう」が「ほいと」になるのは分かりやすいが、「ほいた」になるのは説明が要る。
 陪堂の字音は「ホイタウ」である。このタウが二通りの発音に分かれる。口を大きく開いて発音してタアとなる、これを開音という。一方、口を狭くして発音してトウとなる、これを合音という。共通語ではたいてい合音となる。和語でも推量の「だらう」がダロウ、「行かう」が行コウ、となるのがその例である。一方、倉吉方言ではたいてい開音になり、「だろう」がダラア、「行かう」が行カアとなる。そして、ホイタウがホイタになるのである。
「書こう」は「書かあ」となり、「書こうか」は「書かあか」となる。調べていて思い出したのだが、女の子のことを「にょうばのこ」と言っていた。「にょうば」は「女房」からきていて、字音で表記すると「ニョウバウ」であり、ニョウバア、そしてニョウバとなった開音の例である。
(2014年10月23日)

[1614]新・ことばの路地裏 第393回「しまった」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年10月09日 (木) 05時11分

第393回 しまった

 最近、面白いことを知った。
 小林隆・澤村美幸著『ものの言いかた西東』(2014年、岩波新書)に次のような記述がある。

 この「しまった」、筆者は右の例のような大時代的な文章語の一種であると思い込んでいた。失敗したときに日本語では「しまった」と言う。それは教科書的な話であって、実際にそんな紋切り型を口にする人はいないだろうと信じていたのである。(p.51)

 これを読んで、こちらが驚いた。しくじったり、うっかりしていたときには「しまった」というのが当たり前だと思い込んであいたからである。紋切り型であれ、実際に口に出すのである。もっとも、「しまった」の語形は田舎を出てから身に着けたものであり、子どものころは別の語形を使っていた。前掲書に「失敗したときに発する言葉」の分布地図が出ている。分布のあり方を次のように説明している。

 西日本では、失敗の際に「しまった」という決まった言い方をする習慣ができあがっているのに対して、東日本ではそのような決まり文句が定着していないことを物語る。(pp.52-54)

 筆者のふるさと鳥取県は東西とも「シマッタ」の地域である。しかし、中部はその他の語形とされている。中部には倉吉市も含まれる。倉吉出身の筆者は、子どもの頃「しゃった」と言っていた。この語形は「しまった」と似ているようにも思われるが、語源は定かではない。「しゃった」は、失敗したことを一言で表現するものであるが、失敗の原因を表す語も使うことがある。その一つが「しけとった」あるいは「しけた、しけた」である。考えや取組の態度に不十分なところがある様子、湿気ていたといった意味合いである。「しゃった」と「しけとった」を両方とも言う場合には、「しゃった、しけとった」の語順で言う。決して「しけとった、しゃった」の順にはならないところが面白い。
(2014年10月9日)

[1613]新・ことばの路地裏 第392回「ごす」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年10月02日 (木) 05時03分

第392回 ごす

 動詞「くれる」の方言形に「やる」「くれてやる」「よこす」「だす」などがある。方言地図(佐藤亮一監修『お国ことばを知る方言の地図帳』p.140、小学館、2002年)でひときわ目立つ分布を示している語がある。「ごす」である。これは鳥取県と島根県に分布している。『標準語引き日本方言辞典』(佐藤亮一監修、小学館、2004年)の「くれる」の項を見ると、「ごす」の語形が山形県西田川郡・庄内、東京都御蔵島、新潟県下越、岐阜県恵那郡、岡山県・真庭郡、広島県・山県郡にも記録されている。また、「ごせる」の語が鳥取県と島根県石見に記録されている。これについては高校生1年生のとき、近隣の地域(当時、東伯郡泊村)からきていた同級生が使っていたことが記憶に残っている。
 「ごす」の語源を推測してみた。『標準語引き日本方言辞典』に、「おくす」「おこす」「おごす」の語が挙がっている。これは「よこす」と関連があるだろう。そうすると、「ごす」は「よこす」が音変化して語頭の「よ」が脱落した語であろうと推測できる。「ごせる」は「ごす」と「くれる」が合成したものではないかと考えられる。
 「ごす」は授受動詞一般の性質を受け継いでいる。受身、使役、可能の形式がない。希望の表現も難しい。丁寧の形式も内省では難しいと感じる。共通語では「くれます」が使えるのに対して「ごします」「ごしました」は違和感を覚える。(注)尊敬の形式「ごしなる」を使う。これを丁寧に言うと「ごしなるです」「ごしなったです」となる。「ごしなります」「ごしなりました」などとは言わないように思う。
 命令は同等や目下に対しては「ごせえ(や)」、目上に対しては「ごしない(な)」である。
(注)『鳥取県のことば』(室山敏昭、明治書院、1998年)に「ゴシマスという言い方はない。」(p.96)と記述されている。
(2014年10月2日)

[1612]新・ことばの路地裏 第391回「すられん」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年09月25日 (木) 04時59分

第391回 すられん

 徳島県の方言で禁止の「してはいけない」の意を表す表現に「せられん」というのがあることを知った。(『日本語学』2014年9月号「列島縦断!日本全国イチオシ方言」徳島県、村田真実)品詞に分解すると、サ変動詞「す」の未然形、助動詞「られる」の未然形、打消の助動詞「ん」となる。金沢治著『阿波言葉の語法』(1961年)に、「せられん」が敬意を含む語だという見解が示されているそうだ。(前掲の記事)敬意を含むという点に少し疑問を持った。
 鳥取県倉吉市の方言で「してはいけない」と同様の意味を表す「すられん」という形があることを思い出した。父方の祖母が「しられん」という形を使っていたような記憶があるが、筆者自身は「すられん」の形で理解している。これを品詞分解してみると、動詞「する」の未然形「すら」と助動詞「れる」の未然形「れ」と打消の助動詞「ん」になる。徳島方言の「せられん」とよく似ている。倉吉の方言ではサ変動詞が五段活用化しているように見える。
 ここで問題となるのは助動詞「れる」の文法的な意味である。最も可能性が高いのは可能ないしは自発である。徳島の方言で敬意を含むという観察は「られる」に尊敬の意を理解したものだろう。しかし、尊敬の否定形が禁止を表すというのは理解しにくい。不可能の表現が禁止を表すことは共通語において一般的に見られる現象である。熊本方言で不可能の表現「でけん」が「してはいけない」の意でも使われるのも同様の現象だろう。
 鳥取県倉吉市の方言では「すられん」だけでなく「走られん」(走ってはいけない)、「出られん」(出てはいけない)、「たべられん」(食べてはいけない)のように、不可能の表現を禁止の意で用いることが普通に行われている。もっとも、文字通り不可能の意を表すのは「できん」「走れん」「出れん」「食べれん」の形である。
 禁止という言語行為は、主に上位者から下位者に対して行われるものであり、そこに敬意が介在する理由は乏しい。客観的に不可能であることを示して禁止の意を含ませると考えたほうが一般的な説明原理としてはなじみやすいと思われる。
(2014年9月25日)

[1611]新・ことばの路地裏 第390回「すいません」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年09月18日 (木) 07時20分

すいません

 「すいません」は言うまでもなく「すみません」が音変化した形式で、口頭表現でよく使われる。国語辞典を少し引いてみると、立項しているものがある。
 『三省堂国語辞典(第7版)』は「ぞんざいな言い方」とし、『明鏡国語辞典(第2版)』は「やや俗なくだけた言い方」とする。確かに、きちんと整った表現だとは言いにくいとは感じる。
 『新潮文庫の100冊』で「すいません」を検索してみると三浦哲郎『忍ぶ川』(1961年)、野坂昭如『火垂るの墓』(1967年)、沢木耕太郎『一瞬の夏』(1981年)、椎名誠『新橋烏森口青春篇』(1987年)に使用例が見られた。
 「すいません」で思い出すのが落語家の初代林家三平の「どうもすいません」である。1960年代には使っていたと思われる。
 1960年以前から口頭表現では日常的に使われていたものと推察できる。林家三平の笑いの場での使用が俗語感を出しているのだろうか。とはいえ、日常生活の中では半世紀以上も使われている「すいません」が「やや俗なくだけた言い方」だとの評価や、「ぞんざいな言い方」だとする評価は、現状に合わないように思う。
 というのも、学生から来るメールの文面に「申し訳ありません」と並んで「すいません」もよく使われているからである。学生は「すいません」を年長者に使ったら失礼になるなどと は思ってもいないだろう。いわゆる成人も、改まった場面で「すいません」を使っている。
 実態調査をしたうえで「すいません」に正当な評価を与えてもいいのではないだろうか。
(2014年9月18日)

[1610]新・ことばの路地裏 第389回「世界をおべらせろ!」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年09月11日 (木) 05時40分

世界をおべらせろ!

 テニスの全米オープンで錦織圭選手がベスト4入りした。出身地の松江市では、市役所に応援メッセージを書き込むコーナーが設けられた。テレビに映し出されたメッセージボードに「世界をおべらせろ!」という字句が一瞬見えた。ウエブの記事でも紹介されていた。

 「世界をおべらせろ!(驚かせろ)」といった出雲弁での激励も、勝利を後押しする。【曽根田和久】(http://mainichi.jp/sports/news/20140906k0000m040028000c.html

 共通語訳をつけないと理解しにくい表現だ。「おべらせろ」はどのように分解できるのだろうと考えてみた。島根県の隣県、鳥取県の倉吉方言でも「おべた」(びっくりした)という表現がある。関連がありそうだ。
 『標準語引き日本方言辞典』(佐藤亮一監修、小学館)を見た。「おどろく」の項に次のようにある。

 おべる 新潟県西頚城郡 兵庫県赤穂郡 島根県出雲「あだんおべた(まあびっくりした)」

 「おべる」はおそらく「おびえる」が音変化したものだろう。その使役形が「おべらせる」で、命令形が「おべらせろ」になると推察した。「ごんべの鳥取弁辞書」(http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/sakuin_a.html)には驚かすの意味の「おぶらかす」が登録されている。この語は倉吉で使った記憶がない(というか、記憶がおぼろである)。子どものころには「おばかす」を使っていたと思う。この語は鳥取県東伯郡泊村(現在は東伯郡湯梨浜町)の方言として登録されている。(www.yurihama.jp/files/9730.doc)。
 「おばかす」は「おびやかす」の音変化だろう。「おびえる」と「おばかす」が自他対応しているのに対して、出雲弁では自動詞「おべる」に対して使役形「おべらせる」が対応していると考えられる。
(2014年9月11日)

[1609]新・ことばの路地裏 第388回「いかのおすし」 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年09月04日 (木) 05時07分

いかのおすし

 最近知った防犯用語。一種のごろ合わせだが、学校現場では以前から使われていたようだ。2004(平成16)年に東京都が打ち出したものだそうだ。
 いか 知らない人について「行か」ない。
 の 知らない人の車に「乗」らない。
 お 「お」おきな声で呼ぶ。(大声を出す)
 す 「す」ぐ逃げる。
 し 「知」らせる
 このように、フレーズや語の頭文字をとってつなぎ合わせ、覚えやすいフレーズにすることがある。例えば、
 子どもの好物。「おかあさんはやすめ」 「オ」ムレツ、「カ」レ−ライス、「ア」イスクリーム、「サン」ドイッチ、「ハ」ンバーグ、「焼」きそば、「ス」パゲッティ、「目」玉焼き。
 食生活改善の食材。「まごわやさしい」 「ま」め類、「ご」ま、「わ」かめ、「や」さい、「さ」かな、「し」いたけ、「いも」
 9月1日は防災の日。小学校の避難訓練での用語に「おはしもて」というのがある。
 「お」さない、「は」しらない、「し」ゃべらない、「低」学年優先」
 「おはしもなくすな」というのもある。「も」どらない、「な」かない、「く」ちにハンカチ/「く」つを履き替えない、「す」ばやく動く、「な」らんで避難
 思い出したことがある。子どものころの遊び「あきすとぜねこ」である。折り紙パックン(チョ)の8か所に「あきすとぜねこ」の1文字ずつを書いて閉じ、相手が指した部分を開いて文字を特定し、その意味を占いの結果とするものである。1文字不足するのだが、どうしていたのかは覚えていない。「あ」いしている、「き」らい、「す」き、「と」もだち、「ぜ」っこう(絶交)、「ね」っちゅう(熱中)、「こ」いびと。
 出かけるときに忘れ物がないように点検する言葉。「はとがまめくってぱ」。「ハ」ンカチ、「と」けい、「が」まぐち(財布)、「ま」んねんひつ、「め」いし(名刺)、「く」し(櫛)、「て」ちょう、「パ」ス(定期券)
 このほかに、「ほうれんそう(報告、連絡、相談)」とか調理の「さしすせそ」とかあいさつなどの「オアシス」運動などがある。
(2014年9月4日)

[1608]新・ことばの路地裏 第387回 あちこち あちらこちら 投稿者:小矢野哲夫

投稿日:2014年08月28日 (木) 06時00分

あちこち あちらこちら

 「あちこち」と「あちらこちら」、二つの語がある。意味は同じだと思うが、普段耳にするのは「あちらこちあ」が圧倒的に多い。自分自身はもっぱら「あちこち」を使っている。何か違いがあるのだろうか。
 『日本国語大辞典』を引いてみると、「あちこち」の出典が宇治拾遺物語、古今集遠鏡、南総里見八犬伝であり、「あちらこちら」の出典が俳諧・はりまあんご、松翁道話、都会の憂鬱(佐藤春夫)である。このことから単純に推測すると、「あちこち」のほうが古い語だということになる。
 単独の「あち」という語も、古くはあったが、現代語では「あっち」の形である。「あちら」は古くからこの形である。「あっち」は幼い子どもも使うけれど、「あちら」はかなり長じてからでなければ使わない。「こっち」と「こちら」も同様である。つまり、「あっち」「こっち」は普段着の話し言葉で使われ、「あちら」「こちら」は改まった話し言葉で使われる。こういった違いがあると考えられる。
 自分自身は「あちこち」と「あちらこちら」の間に文体的な差を感じないが、テレビから聞こえてくるのがいつも「あちらこちら」だということは、これの方が文体的に改まり度が高いという意識があるのではないかと推察される。
 ついでながら、行ったり来たりすることを「あちこちする」と言う。また、比ゆ的に「話があちこちする」のように、まとまりがない様子を表すこともある。この場合には「あちらこちら」とは言わない。
 「あちゃこちゃ」は「あちこち」が元になったのか、「あちらこちら」が元になったのか、どちらだろう? 話があちこちしてしまった。
(2014年8月28日)




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場にて 母の日向けギフト値引きクーポン配布中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板