あっちゃん |
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最近はあまりこまめにここの更新ができていません。
おかしなことを言うようですが、ここ最近、自分の老化が一段と進んだような気がします。
毎日ほとんど一人で過ごしています。 パソコンのボランティア、医者などで外出することは多いですが、そういう場所ではプライベートな話はありません。 何でもない、ちょっとした愚痴や感想など、吐き出すところはありません。 周囲の人からは「引きこもってはだめよ」とか言われますが、週に5日くらい外出していても、「生の」発言をすることはほとんど無いのです。 これは経験した人にしかわからない感覚かなと思います。 夫が亡くなっていても、子供がいたり、同居人がいる人はこの感覚は理解できないと思います。
先日、猫が爪とぎをして痛めた椅子に同色の黒いガムテープを貼って修理しました。その時、 「こんな事をしてもみすぼらしいだけだし、捨てて買い換えた方が格好が良いんだけど…」と思いましたが、その後、 「いや、私が死ねばこの家にあるものはすべて即時に『粗大ごみ』になるんだ。どんなにきれいな家具でも捨てられる運命しか残っていない。家ごと全てが 『不要品』になるのだ。」と思いました。
本当にそうです。 私が死ねば、私が育てていた植物なども、誰も水を与えてもくれず枯れてしまうだけです。せめて犬猫だけは私のせいで命を失う事の無いように対策を立てねばと思っていますが(飼い主が死んで時間がたって発見され、そのそばで犬が飢え死んでいたという話はよくあるのです)、いなくなった人間の付属物はよほど金目のものでない限り、すべて「粗大ごみ」なのです。
私は今、自分が死ぬ時の事しか考えていません。
皆さん言われます。 「まだ若いよ」と。
母が逝き、主人が逝き、犬が逝き、神様は私に、「死とはこういう事だよ。」と何度も何度も付きつけてきます。それは私に自分の死について自覚しろと促しているように思えます。 目の前で多くの死を見ながら、それを自分の事として考えない方がおかしいと私には思えます。 周囲の人が亡くなってまだ自分だけはもうしばらくは生きられると思うのは、どういう感覚なのでしょうか。今晩寝て、明日目が覚めるという保証は何もないのに。
多分、もう少し時間を頂ければ、自分は普通の生活ができる人間になると思います。 でも、喉もと過ぎればそれで良いのではなく、私は「死」について自分なりの結論を出さなければならないと思っています。
それによって自分の残りの人生が素晴らしいものになる事を願っています。
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(3792)投稿日:2019年05月27日 (月) 02時06分
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