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[1156] 海(お題『うみ』)
渋江照彦 - 2012年08月29日 (水) 09時31分

「海が見たかったんだな」
 斉藤はそう言ってボンヤリと前を見つめた。
 目の前には浜辺が、そしてその更に向こうには大海原が広がっている。
「そう、彼女とさ、海が見たかったんだ」
 僕は何と言えば良いのか判らず、只々漠然と頷く事しか出来なかった。
「それで行ったんだよ。三重のさ、俺が中学の頃に水練会とかやってた所。お前も覚えがあるだろう?」
 それにははっきりと頷いた。
 僕と斉藤は同じ中学・高校を卒業した。
 多分に仲が良かったと見えて違う大学に通っていたのにお互いよく連絡を取り合い、暇さえあれば地元に帰って遊んでいたものだ。
 斉藤が言っているのがその中学の一年の頃に行われた水練会の事だろう。
 あの水練会は色々と印象深く覚えている。
 水着がスクール水着などでは無くて、ふんどしだった事もその一つだろう。
「それでな、彼女を連れて電車とか乗り継いで行ったんだ。着いた時には夕方だったんだけど。綺麗な夕焼けでさ。信じられない位赤かった」
 何処かでカモメの鳴き声がする。
 遠くには船が見える。時折聞こえる汽笛はあの船からでも鳴らされているのだろう。
「其処で俺、彼女を連れて海に入ったんだよ。そう、海に入って遠くの方まで彼女と服のまま泳いだんだ。それが、いけなかったんだろうな……」
 浮かれていた、のだそうだ。
 気付けば二人は自力では戻れない様な所まで泳いでいた。いや、流されていたのだ。泳いですらいないのだろう。
「そうして、お前も彼女さんも流されてしまった……。しかし皮肉な事に彼女さんは助かった……」
 僕がそう引き取って数珠を取り出すと斉藤は苦笑する。
「だから、幾らお前が来たって無理だって。俺は此処に縛り付けられてるんだから」
「そう、今まではそうだった。三十年間ずっとな。お前の死体は今も見つかっちゃいない。きっと潮の流れか何かで底まで行ってしまったんだな。そうしてお前は此処に縛り付けられたまま、月日を過ごしている。お前が死んだと聞いて僕は真っ先に死んだという場所に行ったんだ。彼女さんも一緒だったな。其処でお前がぼんやりと座り込んでるから驚いた。彼女さんには見えてないみたいだし、これは一体、って」
「寺生まれのtさんでも俺は祓う事は無理だったって訳か」
「止めろ、それを言うな……」
 僕は渋い顔になって斉藤を睨む。
 あれはちょっとした悪戯心で書き込んだに過ぎないのだ。まさかそれがあれだけ流行してしまうなんて思わなかった。
「実際の僕はお経こそ読めるが、お祓いなんて出来ないよ。だから今まではお前に語りかける事しか出来なかった。だがな、今日はお前を祓える気がしているんだ」
「ほう」
 斉藤はちょっと目を細めた。三十年前と変らぬ姿のままだ。こいつはずっとこのままだったんだなと老いた自分を見てちょっと悲しくなった。
「お前の彼女さんが、つい最近亡くなった」
「はぁ」
 気の抜けた返事だった。
「あいつ、俺が死んだ後に男を作ったんだろ?」
「まさか。彼女はあれから直ぐに気が変になってしまった。ずっと病院暮らしだったよ。お前に会いたい会いたいと言ってな、最後も死んで行ったよ。看取ったから間違いない。今にしちゃ珍しく純情な人だったんだ」
「……」
「もう、彼女さんはお前の側の人間なんだよ。さっさと行って慰めてやれ」
 僕はそれだけ言うとお経を唱え始めた。
 般若心経だ。
 ゆっくり、時間をかけて唱える。
 唱え終わっても僕は暫くの間目を開けなかった。
 何処かでカモメの鳴き声がする。
 遠くからは船の汽笛が聞こえる。
 波の音もする。
 果たして、斉藤は無事に彼女を連れて旅立てたのだろうか。
 もしも目の前にまだ斉藤がいたら。
 そう思うと、ちょっと怖かった。
 だが、目を閉じていてもそれは単なる時間稼ぎにしかならない。
 そう思ったから、僕はそっと目を開けた。
 目の前には、誰もいなかった。
 何処かでまた、カモメが鳴いた。



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